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第三章(三十九)ストックホルム症候群

 この日、三枝(さえぐさ)は予約をとっていなかったが、ちょうど近くに来ていた事もあり、その後の日下(くさか)の様子を連絡しようと事務所に立ち寄った。  三枝は、構成員に挨拶をして執務室に行こうとするが、今は都合が悪いと慌てて止められる。  何か様子がおかしいと思いながらも、三枝が仕方なく帰ろうとした時、執務室の扉が勢いよく開かれた。  開け放たれた扉の向こうには裸の子供が転がっていて、それを見た三枝は眉を(ひそ)める。 「その子供はどうしたんですか?」  三枝はあまり人の事に関わる気はないが、これはどう見ても犯罪で、実際に目の当たりにしては見過ごす事は出来ない。 「これは、日下(くさか)の息子で、預かってるんですよ」  多田(ただ)は三枝を見て口を歪める。 「息子?」  言われて、三枝は日下に十二歳の息子がいた事を思い出した。  日下の家庭環境は、息子と蒸発した妻がいる。  確かに、息子が何処にいるかは分かっていなかったが、三枝は気にもしていなかった。 「そうです。だから問題はないでしょう?」 「で? これはレイプした後ですか?」  三枝は(みゆき)に近付いて腕を取る。  しかし、多田に酷く扱われたらしく、起こそうとしても、意識がハッキリしていないようだった。 「人聞きの悪い。これは合意の上ですよ」 「合意かどうかは関係ありませんよ。この子の年齢だったら、本人の意思に関係なく犯罪になるんです」  三枝は幸に上着を掛けて抱きしめる。 「では、この子は預かって行きます」 「いやいや。連れて行かせる訳にはいきませんよ」  多田が引き止めようとするが、三枝はやめる気はないらしい。 「警察に通報してもいいんですよ。どうします?」  三枝に言われて、多田は考える。  確かに、幸は多田の奴隷だが、しばらくは大きな仕事は控えねばならないので、鍵明けの仕事は当分ない。  それでも、性奴隷としての役割は残っているのだが、それで三枝と揉めるのは得策ではない。  だとすれば、選ぶべき答えは一つだけだ。 「犯罪者にはなりたくありませんな」  多田は両手を上げて、自嘲気味(じちょうぎみ)に笑った。 「それじゃあ、遠慮なく連れて行かせて貰います」  三枝は、多田を一瞥(いちべつ)すると、幸を抱き上げて執務室を後にした。  事務所を出ると、三枝はすぐに病院に連絡を取った。  連絡先は、三枝の知り合いのやっている「やすはら外科医院」というところで、そこで幸を診て貰おうと思ったのだ。  三枝が幸を連れて病院に着くと、裏手から処置室に通された。 「この子なんだけど」  院長の安原裕(やすはらひろし)は、三枝に抱かれた子供の様子を見て眉を顰めた。 「三枝、子供に手を出したのか?」  安原は、三枝が怪我をしている子がいるので診て欲しいとは言っていたが、状態までは聞いていなかった。  しかし、詳しく診るまでもなく、一見しただけでどう言う状況かは予測がつく。 「そんな訳ないだろ。それより、早く診てくれ」 「じゃあ、そこに寝かせて」  言われて、三枝は幸をベッドに寝かせると、上着を掛け直す。 「どうせ脱がすのに、今日はやけに丁寧だな」  安原は三枝の態度を揶揄(からか)うように告げた。 「うるさい」  そんな事を言いながらも、安原は手早く処置をすませると、三枝に向き直る。 「一通り終えたけど、体液の検査しとくか? 証拠、残しといた方がいいんだろ?」 「ああ、頼む」  そして、安原は必要な検査を終えると、患者が待っているからと、処置室を後にした。  二人は中学の時からの同級生で、安原は三枝の事は大体知っている。  三枝の家は厳しく、テストが満点でなければ殴られ、褒められる事は絶対になかった。  しかも、殴られると言うのはしつけの域はとうに超えていて、いつも怪我をしているような状態だったが、三枝の父親が大病院の院長いう事もあり、誰も家庭の事に踏み入ろうとはしなかった。  三枝は、こんな暮らしを()いられるのは、自分が弱いからだと考えるようになり、腕力で敵わないなら、対抗出来るのは法律しかないのだと弁護士を志した。  しかし、世の中はうまくいかないもので、三枝は社会に揉まれて挫折を味わい、いつしか当初の志など忘れ、悪徳弁護士などと呼ばれるようになったが、元々の性格が変わった訳ではなかったらしい。  そもそも、二人が親しくなったのは、三枝が虐められていた安原を助けた事から始まったのだ。  安原は、三枝が変わってもこの関係を変えるつもりはなかったが、昔の頃と根本は変わっていない事を再確認出来、嬉しく思った。  三枝は、少し時間があるとは言え、この後も仕事があったのだが、全てを安原に任せる訳にもいかず、しばらくベッドの傍で幸を見守る事にした。  どのくらい時間が経ったのか、三枝がうつらうつらと船を漕いでいると、人の動いているような気配がする。  三枝が目を覚ますと、幸が上体を起こしてベッドに座っていた。 「心配ないよ。ここは病院だから。ゆっくりしとけ」  三枝が話しかけると、幸はそわそわとし始める。 「いつ、帰れますか?」 「帰るって何処へ」  日下は拘置所だし、母親は行方不明で、三枝には幸が帰りたいという場所が思いつかない。  しかし、三枝の問いに、幸は(すが)るような目で答える。 「多田さんところに……」  その言葉に、三枝は驚いたように、幸の顔を見直した。 「あそこで酷い目にあってただろ?」  三枝の問いに、幸は首を横に振る。 「あってないです」  それから、三枝はしばらく幸と話していたが、酷い事をされていても、多田の事が好きらしい事に驚いた。  安原が一段落して処置室に戻って来ると、事情を聞いて、顎に手を当てて首を(かし)げる。 「ストックホルム症候群じゃないかな?」  それに、三枝も思い至って手を打つ。 「監禁されていると、加害者が好きになるって、あれか?」 「まあ、そんな感じのあれだ」 「まいったな。じゃあ、この子にとって俺は誘拐犯ってところか?」 「当たらずとも遠からずじゃないかな」  安原の言葉に、三枝は頭を抱え込んだ。

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