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第三章(四十)新しい世界へ

 沢井(さわい)は、三枝(さえぐさ)が事務所を出るのを見届けてから、多田(ただ)に向き直る。  そして、(みゆき)を黙って連れて行かせた事に苦情を言おうとするが、多田が気色(けしき)ばんでいるのを見て言葉を飲み込んだ。  多田は怒りをあらわにして吐き捨てるように言う。 「クソッ!」  そして、机を殴りつけると、ギリと奥歯を()み締めた。  沢井は、回らない頭で、どうすればいいかと考える。  その時、目の端に流しっぱなしの動画が映った。 「川上に連絡を取りますか?」  沢井が提案するが、多田はすぐさまそれを却下した。 「ふざけるな! そんな事をしたら、川上につけ込まれて幸を取られかねないだろうが!」  苛立(いらだ)ちが抑えきれず、多田はデスクの上の物を叩き落とした。 「では、幸は……」  沢井は幸が心配で食い下がる。  しかし、執務室の(かぎ)が開け放しになっていたのは、沢井が昨夜、幸を抱いた事が原因なのだ。 「うるさい! 誰の所為(せい)でこうなったと思ってるんだ!」  多田はそう言って、沢井の顔を思い切り殴りつける。  不意の事だったので、沢井は後ろに二、三歩後ずさってしまった。  それから、沢井は思い直し、頭を下げて多田に()びを入れる。 「申し訳ありません」  その言葉を聞き、多田は少し冷静になったのか、声のトーンを落として沢井に告げる。 「しばらく様子を見よう。何か手はある(はず)だ」 「はい」  沢井は答えて、(こぶし)を握りしめた。  そして、幸が酷い扱いを受けなければいいと、心から願った。  三枝は、幸をなんとか誤魔化(ごまか)して、自宅のマンションに連れ帰った。  いつものように、エントランスにある受付の前を通るのだが、受付の様子が何かおかしい。  服は安原(やすはら)の息子のお古を借りていたので大丈夫(だいじょうぶ)と思っていたが、三枝は刺すような視線を感じる。 「ただいま」  普段は挨拶(あいさつ)などしないのに、三枝は居心地(いごこち)の悪さを感じて思わず声をかけてしまう。  続けて、幸も軽く会釈をするのを見て、受付の男は「おかえりなさいませ」と(いぶか)しみながらも挨拶を返した。  三枝は、2LDKの部屋に住んでいる。  玄関を入ると廊下があり、その片側には、手前からトイレにバスがある。  そして、突き当たりの扉を開けると、中央にソファとセンターテーブルが置かれた広いリビング。  リビングの片側には寝室と書斎(しょさい)があり、反対側にはキッチン。  その先にはカーテンのかけられた、バルコニーに通じる大きな窓。  三枝は部屋に帰ると、まっすぐリビングに行き、ソファの上に荷物を置いた。  そして、一息ついてから改めて幸を見る。  幸は、服を着ているとは言え、頭はボサボサで疲れたような顔をしていた。  三枝は、自分が独身だから、受付で怪しまれたのかと思っていたが、それだけではなかったと気付く。  部屋に帰るとすぐ、幸を休ませようと思っていたが、流石(さすが)にこのままでは気持ちが悪いだろうと声をかけた。 「シャワー、浴びるか?」  しかし、幸は、それには答えず、不安そうに三枝に(たず)ねる。 「ここは?」  幸でなくとも、いきなり見知らぬ部屋に通されれば不安になるというものだ。  三枝はそれに気付き、幸を安心させるように優しく話しかける。 「俺の家だよ。気楽にしてくれていいから」  しかし、そんな事を言われても、幸は意識がはっきりしないまま連れて来られた経緯(けいい)もあり、気楽になど出来る筈もない。 「多田さんは……」  幸は、どうしたらいいか分からず、おどおどしながら尋ねる。  三枝は、幸を多田の元に返す気はなかったし、行く先が見つかる(まで)は、面倒を見るつもりで連れて来た。  しかし、そのまま答えたら、幸が警戒するのは分かりきっている。  しばらく考えてから、幸が多田の所に帰りたいと言っていた事を思い出し、嘘をつく事に決めた。 「多田の許可は(もら)ってるから」  三枝が告げると、幸は不安そうにしながらも(うなず)いた。 「シャワー浴びるか?」  幸が落ち着いたところで三枝が再び問いかける。  すると、今度は幸も、小さな声だが「はい」と言って頷いた。  三枝は、それを聞いて、安堵(あんど)のため息をつくと、玄関に通じる扉を指さした。 「そこの扉を出てすぐがバスルームだから」  それを聞いて、幸が軽く頭を下げて扉を開けようとすると、その背に三枝が慌てたように声をかける。 「あ、服。ちょっと待って!」  そして、荷物の中からパジャマを探し当てると、それを幸に手渡した。  幸がバスルームを出ると、(めぐみ)より歳上には見えるが、似たような背格好(せかっこう)をした女がいて、三枝と言い争いをしていた。  女は三枝の中学からの知り合いで大河(おおかわ)めぐみといい、安原と三人でよく遊んだ仲だ。  大河は家政婦の仕事をしているので、身の回りの世話は得意だろうと、三枝が幸の世話役に呼びつけたのだ。  しかし、呼びつけ方があまりに強引で、三枝が金に物を言わせ、大河の仕事を全てキャンセルさせて、ここに来させたのだから文句も言いたくなる。  おまけに、調理に必要なものや、当面必要になりそうな物を用意してすぐに来いとまで言われたのだ。  買い物など仕事の範囲外だが、それを言っても聞く耳を持たず押し切られた。  それで、着いてからずっと苦情を言っていたのだが、大河は幸を見ると言い争いをやめた。 「可愛い子」  少し大きめのパジャマを着て、タオルを肩からかけている様子に、大河が目を細める。 「(おそ)うなよ」  冗談めかして三枝が告げると、(ひざ)の裏を大河が()りつけた。 「どっちが!」  三枝は反撃をくらい、ふらついてソファに手をつく。 「暴力反対!」  三枝は、大河に抗議の声を上げた。  幸が、二人の様子を不思議そうに眺めていると、大河が近寄って来て、目の前にしゃがみ込んだ。  そして、優しく微笑んで自分の名を告げる。 「はじめまして。私は大河めぐみ」  幸は、大河の名前を聞くと、驚いたように目を見開いた。 「恵……?」 「そう。平仮名でめぐみ。めぐみでいいよ」 「めぐみ……さん」  文字は違えど、それは母親と同じ名前で、幸は大河に懐かしさを覚えた。 「君の名前は?」 「僕は、日下幸(くさかみゆき)です」 「じゃあ、幸だ! よろしくね」  大河は明るい声で挨拶をして、幸に笑顔を向ける。 「私は、三枝の知り合いでね。幸の世話を頼まれて来たんだ。よろしくね」 「はい」  幸は答えてから、首を(かし)げる。 「三枝……さんって?」  大河は、困った様子の幸を不審に思い、三枝を振り向く。  そこで、三枝は、自分がまだ名乗ってない事に気付いた。 「あ。俺が三枝。よろしく」 「ちゃんと自分の名前くらい名乗っとけ!」  幸が三枝に頭を下げるのと同時に、大河が盛大(せいだい)にツッコミを入れた。  そうして、しばらく二人で騒いでいたが、三枝は時計を見て驚く。 「ヤバイ! 仕事! じゃあ、行って来るけど、俺が出かけても襲うなよ」  三枝が慌てて出て行く背中に向けて、大河は手近にあったクッションを投げつけた。  幸は、何も聞かされずここに連れて来られた上に、事情を知っているであろう三枝に置いて行かれて呆然(ぼうぜん)とした。  立ち尽くす幸に、大河が話しかける。 「どうしたの?」  尋ねられて、幸は、大河も何か知っているかと聞いてみる。 「僕は何をすればいいんでしょうか?」  三枝は多田の許可を得ていると言っていたので、何か仕事を任されたのかも知れないと思うのだが、いつ帰らせて貰えるのか聞いていない。  大河は、戸惑う幸を見て、安心させるように優しく微笑みかける。 「何もしなくて大丈夫だよ。自分の家みたいにくつろいでいたらいいから」  そう言われても、幸は自分の家庭が機能していた時の記憶は薄れて思い出せず、代わりに思い出すのは、沢井との生活だった。  しかし、幸の脳裏(のうり)に浮かぶのは、腹を立てた多田の顔で、もしかしたら自分は捨てられたのではないかと考えてしまう。  もし、それが本当なら、幸は大好きな沢井の元に戻れない可能性が高い。  幸は寂しくなって、思わず涙を(こぼ)した。  それを見て、大河は幸をそっと抱きしめる。  大河は、急に幸の世話をしろと呼びつけられただけで、三枝も何も言わずに出かけてしまったし、どういう経緯で幸がここに来たのかも聞かされていない。  しかし、急に引き取る事になったと言うなら、深い事情があるのだろうとは予想出来た。  大河は、何も言わずにしばらく幸を抱き締めていたが、落ち着くいた頃合いを見て優しく背中を叩く。 「じゃあ、荷物を片付けるのを手伝って貰おうかな」  大河は立ち上がると、幸に笑いかける。  幸は不安ではあったが、大河が悪い人とは思えず、涙を拭うと無理やり笑顔を作って頷いた。  こうして、三人の奇妙な共同生活が始まる事になった。

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