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第四章(一)前途多難

 三枝(さえぐさ)は仕事の合間をぬって、正式に(みゆき)を引き取る(ため)奔走(ほんそう)した。  そして、日下(くさか)に親権を放棄(ほうき)させ、幸の未成年後見人(みせいねんこうけんにん)となり、一緒に暮らす為の法的な手続きは完了した。  同時に、他に抱えていた依頼も何件か片付き、三枝の仕事も少しだけ落ち着いた事で、大河(おおかわ)に任せきりにしていた幸とも、ゆっくり話す機会が訪れた。 「ただいま」  三枝はリビングに入ると、対面キッチンの向こうにいる二人に挨拶(あいさつ)をする。  そこでは丁度(ちょうど)、大河が幸と一緒に夕食を作っているところだった。 「おかえり」  大河は三枝を見ると、不機嫌そうな顔でぶっきらぼうに挨拶を返す。  その様子を(うかが)いながら、幸もぺこりと頭を下げた。 「幸。ここでの生活には慣れたか?」  三枝に(たず)ねられて、幸は困った顔になる。  大河と一緒にいるのは楽しくもあったが、ずっとここにいなければならないのは、幸にはつらい事だった。  なので、幸は小さな声で三枝に返す。 「帰りたいです」  その言葉に、三枝は眉を(ひそ)めた。  三枝は、幸を心配して、カウンセリングを受けさせているのだが、カウンセラーから聞く限り、経過はあまり(かんば)しくないらしい。  幸は元来(がんらい)無口なので、カウンセラーがほぼ一人で話すかたちになる事は予想出来た。  しかし、(ほとん)ど話さない幸が「(だま)されていたんですよ」と言われた時だけは、強く否定すると言うのは予想外の事だった。  三枝は色々考えた末、幸は今まで特殊な状況にいた事で、性観念がおかしくなっている為に、カウンセリングがうまくいかないのだろうと言う結論に達した。  このままでは、幸が生きて行く上でトラブルに巻き込まれる危険性も高く、放置しておく訳にはいかない。  そこで、三枝は幸に性教育をしようと考えた。  いつでも話が出来るように、前もって準備はしてあり、後は話すタイミングが来るのを待つだけだった。  三枝は、今回がそのいい機会だと判断し、幸に告げる。 「幸、ちょっとあっちで話をしようか?」  そして、三枝は自室を指さした。  三枝の部屋は、書斎(しょさい)にベッドを移設した急ごしらえのものだ。  幸が来た日に、業者に頼んで、ベッドの購入から移設までやって(もら)った。  そう言う訳で、部屋の奥には、法律関係の書籍がびっしりと並べられた本棚があり、その(かたわら)には机が置かれている。  手前の方は急ごしらえだが、ベッドが二台にサイドテーブル、ソファにテーブルが設置されていて、寝室らしくなっていた。  そして、二部屋しかない事もあり、ここで三枝と幸が寝て、もう一つの部屋で大河が寝る事にしている。  三枝は部屋に入り、ドアを閉めてから、幸を(うなが)して一緒にソファに座ると、開口一番こう言った。 「幸。大切な話がある。いいか?」  幸は聞かれて、戸惑いながらも(うなず)いた。  三枝はそれを確認して頷き返すと、真剣な顔で幸に告げる。 「今日は、性についての話をしようと思う」  幸は「性」と言われてもピンと来ず、不思議そうに三枝を見る。  三枝は幸の様子を見て、反応が微妙(びみょう)な事に気付くが、気にせず先を続ける事にした。 「ええと、初めはプライベートゾーンについてだ。これを見て欲しい」  そう言いながら、三枝は端末をテーブルに置き、幸に見えるように画面を向ける。 「ここに書いてあるところは、親とか身近な人……。例えば、大河や俺みたいな、そう言った親しい人でも、見せたり触らせたりしちゃダメな場所だ」  幸はイラストを見て、少し考え込む。  図で示されているのは、優一(ゆういち)多田(ただ)、そして沢井(さわい)にも触られている場所で、何が悪いのか分からない。 「こういう場所を触ったりされたら、相手に嫌だと言って断る事が大切なんだ」  三枝は、理解してない様子の幸に、どう説明したらいいかと考える。 「ええと、多田のところにいただろう? あそこでされていたような事は絶対にダメだ。ああ言う行為(こうい)は犯罪だから」  幸は考えるように首を(かし)げた。  犯罪と言われても、自分に良くしてくれた人がしていた事だし、悪い事とはどうしても思えない。 「幸、分かったか?」  三枝が聞くと、幸は困った顔で首を横に振った。  その様子を見て、三枝はどう説明したらいいのか真剣に悩む。  こんな事なら、専門家に任せるべきだったと思うが、今更(いまさら)そんな事を言っても始まらない。 「ええと、こういうところは、セッ……いや、ええと、愛し合ったり……子供を作ったり……」  三枝は、どう説明したらいいか分からず、しどろもどろになる。  こうなれば、別の角度から攻めてみるかと、三枝はひとまず話題を変える事にした。 「カウンセリングで色々と言われたと思うが、それでも、まだ多田の事を信じてるのか?」  幸は質問には答えず三枝の顔を見る。  それは、どこか気怠(けだる)げな影のある表情で、密売組織にいた時には見せなかったものだった。  幸は、ここにいると、沢井に会う事も仕事をする事も出来ない。  今すぐにでも帰りたいと思うのだが、三枝は組織を悪く言うくらいだから、幸を帰らせる気がないと言う事は嫌でも分かる。  おまけに、カウンセリングでは、信じたいものを否定される。  繰り返し聞かされる言葉に、幸も騙されていたのかも知れないという思いが、頭の隅に芽生(めば)えているのも事実だ。  しかし、幸は大好きな沢井の言葉が(いつわ)りだとは思いたくない。  その葛藤(かっとう)が、幸から笑顔を消し去った原因だった。  しかし、三枝は幸の思いには気付かず続けて話す。 「忙しくて、俺はあんまり相手が出来なかったけど、大河には懐いてるみたいじゃないか」 「めぐみさんは好きです。でも……」 「でも?」  三枝は、幸が言いかけた先を促すように問いかける。  すると、幸は(うつむ)いて小さな声で続けた。 「多田さんも好きだから」  それは、三枝の想像もしない答えで、一瞬我が耳を疑った。 「え? 多田を好き?」 「はい」  おうむ返しに尋ねると、幸は三枝の顔を見て短く返事をした。  幸の(かたく)なな態度に、三枝もつい声を荒げてしまう。 「なんで分からないんだよ!」  三枝には、今までの幸の生活は、どう考えても劣悪な環境としか思えなかった。  しかし、幸は俯いてまた口を閉ざす。  それを見て、三枝は問い詰めるような態度をとった事を反省し、冷静になろうと一拍おいて告げる。 「さっきも勉強しただろ? 多田のところでやられていたのは、プライベートゾーンに触られるどころじゃないだろ」  三枝の頭に、全裸で床に横たわる幸の姿が浮かぶ。  帰りに寄った病院で、幸は間違いなくレイプされていたのだと言われた。 「いいか。あれは犯罪っていうんだ。許しちゃいけない事なんだよ」  三枝は言葉を選んで話しかけるが、幸は首を横に振るばかりで、全く聞く耳を持たない。 「幸は騙されているんだ。あそこにいたのは悪い人達なんだ」  しかし、言葉を重ねれば重ねる(ほど)、幸の表情は固くなり瞳に反抗的な光がともる。  三枝は、それでも根気よく話しかけているのだが、幸は考えを変えようとしない。  幸の態度に、三枝は苛立ちを抑えきれなくなり、強い調子で言いながら、肩を(つか)んで体を揺すった。 「あんなのレイプじゃないか! なんで分からないんだよ!」  それに、幸は俯いて奥歯を()み締めた。  仮に、三枝の言葉が正しいのだとしても、幸にとって、多田は恩人であり、沢井が大好きな相手である事に変わりはない。 「それでも……帰りたい」  幸は聞こえるかどうかの小さな声で告げると、三枝の手を払いのけて部屋から飛び出した。 「幸! 待て!」  三枝は慌てて止めようと声をかけるが、幸は真っ直ぐ玄関に向かって走る。  子供の足なら追いつけると思ったが、幸は器用に三枝の手をすり抜け、裸足のまま外に飛び出した。

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