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第四章(五)友情

 マンションに戻ると、大河(おおかわ)(みゆき)を気遣いながら、玄関で汚れた足を洗う。  ずっと、走っていたのだから、足の裏は汚れもそうだが怪我もしており、擦りむいて血が(にじ)んでいた。  大河はそれを見て、足を拭き終えると、手当てをしようと、幸をソファに座るように案内する。 「幸、痛いでしょ」  大河に話しかけられ、幸は首を横に振った。  幸にとってこのくらいの怪我はなんでもなかったし、むしろ大河に迷惑をかけた事の方こそ申し訳なくて仕方がない。 「ごめんなさい」 「謝る必要なんてないよ。どうせ、悪いのは、そこにいる三枝(さえぐさ)なんでしょ?」  大河は、謝る幸に笑顔で答えてから、三枝(さえぐさ)(にら)みつける。 「ああ。どうせ俺が悪いよ」  三枝はそう言うと、お茶のコップを二つ持って来て、一つをセンターテーブルに置く。 「疲れたろ」  そう言いながら、三枝はもう一つのお茶を自分で飲んだ。  大河は、自分の分が用意されていない事に(あき)れるが、文句を言うよりも、まずは幸の事が先だと三枝に(たず)ねる。 「傷薬か何かない?」 「用意してないけど……。ずっと走ってたもんな」  そう言って、三枝は申し訳なさそうな顔で傷の具合をみる。 「新しいハンカチならあるから、それ巻いとくか?」  今からでは、病院も開いていないし、薬局もう閉まっているだろうから、三枝の提案を受け入れるしかない。 「じゃあ、それ持って来て」  応急処置を終えると、三人三様の事を思いながら、ソファに腰掛けていた。  幸は沢井(さわい)の事。  三枝は今後の事。  そして、大河は幸が飛び出す前の事。  大河は聞かない方がいいと思ってはいたが、どうしても気になって幸に問いかけてしまう。 「でも、いきなり飛び出すなんて何があったの?」  大河の頭の中には、三枝の言った不穏(ふおん)な言葉が渦巻(うずま)いていた。  しかし、幸は、大河に尋ねられると、言いにくそうにコップを握り締めて、テーブルに視線を落とす。 「それは……」  三枝は、幸と大河を代わる代わる見てから、ため息をつく。 「話したくないってさ」  それに、幸は小さく(うなず)いた。  以前、(めぐみ)が自分に冷たくなった時も、失踪(しっそう)した時も、幸が誰かに抱かれた事が原因だと思っている。  多田のところであった事が悪い事だとは思っていないが、大河が知れば、幸の事を嫌いになるような気がして怖かったのだ。  大河は、幸が体を(こわ)ばらせるのを見て申し訳なさそうに謝る。 「変な事聞いてごめんね」  そして、幸の肩を抱き寄せる。 「セクハラ」  それを見て三枝が突っ込むと、大河が不機嫌な顔で睨みつけた。 「うるさい!」 「幸。嫌だったら言ってもいいんだからな」  続ける三枝に、幸は顔を赤くして首を横に振った。  大河はそれを見て、(さら)に幸の頭を()でる。 「幸はいい子だね」  三枝は、それを見てため息をつくと、ソファから立ち上がった。 「幸。一緒に風呂入るか?」  それを聞いて、幸は驚いて顔を上げた。  三枝は何気なく言った言葉だったが、幸の中で風呂に入るという事は性行為(せいこうい)と同じ事をさすのだ。  驚いてこちらを見る幸に、三枝はしくじったと言う顔になる。 「セクハラ!」  大河に言い返されて、三枝はばつ悪そうに頭をかく。 「ええと、先に入るか?」  それに、幸は、戸惑(とまど)いながら頷いた。 「ちょっと前に自分で言った事も覚えてないなんて。そんなに抜けてて大丈夫なの?」  風呂の準備が出来て、幸がバスルームに消えると、大河が開口一番そう言った。 「うるせえな。これでも敏腕(びんわん)弁護士で通ってるんだよ」  それに三枝が言い返すが、大河は続ける。 「敏腕? 悪徳の間違いじゃなくて?」 「ちゃんと法律は遵守(じゅんしゅ)してるんだから問題ないね」  三枝は答えながら、カップを片付けにキッチンに立つ。 「汚職(おしょく)で捕まった政治家の弁護したって聞いたけど」  大河は、その背に向けて声をかけながら、自分もソファから立ち上がった。 「依頼されたんだし、別に問題ないだろ」  そう言いながら、三枝が洗い物をしていると、大河がコップを奪い取った。 「絶対やってるのに無罪になったって」 「すごいだろ?」 「すごいわけないでしょ。国民の敵め」 「敏腕って言ってくれよ」  そう言って三枝がリビングに戻ろうとする背に、大河が大きな声で告げる。 「この悪徳弁護士!」  こんな事を言い合えるのは二人が旧知(きゅうち)の仲だからで、別に喧嘩(けんか)をしている訳ではない。  大河も何か理由があるのだと信じているし、三枝もそれを心得(こころえ)ているから、気にせずにさらりと受け流す。 「やってないから無罪なんだ。問題ないだろ?」 「いくら貰ったの?」 「守秘義務(しゅひぎむ)があるから言えないな」 「この守銭奴(しゅせんど)め!」 「うるせえよ。悪徳なんて名前が独り歩きしたから、仕事が減って困ってるんだよ」 「むしろいっぱい来るんじゃないの?」 「言ってろよ」 「はいはい」  大河はそう答えると、すっかり冷えた料理を温め直し始めた。  大河に話す事はないが、三枝にも思うところは沢山(たくさん)ある。  三枝も、弱い立場の人の力になりたくて弁護士を(こころざ)したのだ。  昔は、悪どい事をやっている企業や政府などを相手に闘ったりもした。  しかし、正当な(うった)えをしている人々が高潔(こうけつ)な志を持っているとは限らず、就職について金銭について、相手方が提示してくる様々な条件に手のひらを返す依頼主も少なくなかった。  それも仕方のない事だと思っていたが、その原因の多くが、三枝の実家が手を回していた(ため)だと知り愕然(がくぜん)とする。  三枝は、結局、権力には逆らえないのだと痛感(つうかん)させられた。  このまま、弁護士をやめようと考えていた時に、三枝に声をかけて来たのが川上(かわかみ)だった。 「三枝の(せがれ)随分(ずいぶん)苦戦していると知ってな」  川上は法曹界(ほうそうかい)でも名の知れた政財界のドンだ。  三枝は何故(なぜ)そんな人物が自分に声をかけて来たのか分からなかった。  戸惑う三枝に、川上は、自分と敵対関係にある三枝隆文(さえぐさたかふみ)に煮え湯を飲ませてやりたいのだと告げる。  その時の川上は、三枝隆文も、自分の息子が悪人と言われる政治家の弁護をしたら、立場がないだろうと、そのくらいにしか思っていなかった。  どうせ、捕まった政治家は有罪になるだろうし、腕の良し悪しなどどうでもよかったのだ。  三枝はしばらく考えたが、川上の意図(いと)を理解し、依頼を請ける事にした。  しかし、請けるからには全力で挑む。  確かに、訴えられた政治家は色々な悪事を働いているようだったが、様々な角度から事件を見聞(けんぶん)証拠(しょうこ)を集めた。  裁判は証拠が全てだ。  検察側が提示した証拠の不備を指摘し、無罪を勝ち取る事が出来た。  川上は、まさか裁判に勝つなどとは思っていなかったので、無罪を勝ち取った三枝を面白いと思った。 「私の仕事を手伝ってみないか? 君にとっても、私の太いパイプは役に立つと思うがね」  三枝は、はじめ川上の誘いを断ろうと思ったが、この裁判で無罪を勝ち取った事で、今まで、不当な扱いに抗議して共に戦って来た相手から、手を切ると言われてしまった。  それも、一件や二件ではない。  理由を聞けば、三枝がスパイとして、自分たちを負けるように仕向けていたからだと言う。  意気消沈(いきしょうちん)していた三枝に、川上の言葉は魅力的に響いた。  三枝が川上から依頼を請けるようになったのはそれからだ。  今でも、依頼があれば、弱者の弁護をするのもやぶさかではないが、いつの間にか逆の立場に立つようになっていた三枝に、弁護を依頼しようと思う者も少なくなった。  三枝も訂正する気にもなれず、それからずっとこんな状態が続いている。 「まあ、味方ではいてあげるけどね」  準備を終えると、大河はソファに座って体を伸ばした。  それを聞いて、三枝は満足そうに笑う。 「お。俺の魅力(みりょく)に気付いたか?」 「誰が! この自信過剰男(じしんかじょうおとこ)!」  大河は手元にあったクッションで三枝を叩いた。 「この暴力女!」  そうやって、二人でクッションの応酬(おうしゅう)をしていると小さな声が聞こえた。 「あ……」  二人が声の方を振り向くと、いつの間に上がって来たのか、幸が心配そうに二人を見ていた。 「どうした?」 「幸?」  それに、まず三枝が声をかけ、ついで大河が幸の名を呼ぶ。  しかし、幸はどうしたらいいか分からず、視線を()らして(うつむ)いた。  そこで、三枝は、幸の家庭環境を思い出し声をかける。 「悪い。驚かしたな。でも、喧嘩じゃないから大丈夫」  それに、大河は言い返そうかと思ったが、場の空気を読んでにこやかに告げる。 「大丈夫。昔からの友人だからさ。こんなのじゃれ合いだよ」 「そうそう。中学からの知り合い」  三枝は幸に話しかけながら、大河からクッションを奪い取りソファに置いた。  しかし、幸はそれを聞いて、さらに疑問が浮かび、不思議そうに首を(かし)げる。 「結婚……」  思わず口に出したが、聞いてはいけない気がして、幸はすぐに口を閉ざした。  しかし、それを大河はしっかりと聞いていて「まさか」と言って笑い飛ばす。 「三枝と結婚するくらいなら、イモムシと結婚する方がマシ」 「こっちだって願い下げだよ」  三枝はそう言ってから、幸に笑いかける。 「夫婦じゃないけど仲はいいんだ」 「腐れ縁かなあ」  そう言って、なんとも言えない表情で笑う二人を見て、幸は友人と言う存在が、なんだか(まぶ)しいものに思えた。 「遅くなったけど夕飯にしようか」  大河がそう言って笑いかけると、幸は「はい」と返事をして俯いた。  それを見て、大河はソファに座ると、自分の隣を叩く。 「幸、こっちおいで」 「はい」  幸は、返事をして頷くと、自分の指定席であるソファの端に腰掛けた。 「じゃあ食べようか」  そう言ってから、大河は三枝を見る。 「ほら、何やってるの? 早く座りなよ」 「ほーい」  大河に言われて、三枝は自分の指定席である、ソファのL字に曲がった先の短いところに座る。 「じゃあ食べるよ。いただきます」  三枝は、二人が合掌(がっしょう)するのを見つつ、複雑な気持ちでため息をついた。

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