90 / 103

第四章(八)初めの一歩

 フリースクール初日を迎えた。  (みゆき)は、大河(おおかわ)の車でフリースクールに向かう。  しかし、幸は、自分で決めた事とは言え、いざ行くとなると怖くなって来た。  勉強については、進み具合によってクラス分けがされるので、(ほとん)ど授業を受けた事のない幸は、一番やさしいレベルのクラスから始める事になっている。  だから、勉強については、それ程、不安はないのだが、幸にとって周りに馴染(なじ)めるかが一番心配だった。  大河は、幸の様子を横目に見て、優しく声をかける。 「一番やさしいクラスって事はさ、幸みたいに学校行けなかった子もいるだろうし、気の合う子もいるかも知れないよ」 「はい」  幸は返事をすると、(うつむ)いて(ひざ)に乗せたカバンを握りしめた。 「着いたよ」 「あ、はい」  幸は考え事をしていたが、大河に声をかけられて、驚いて顔を上げる。 「大丈夫。職員室までは一緒に行くから。それに、今日は、学校が終わるまでここで待っておくよ。駄目(だめ)なら帰って来ていいからね」 「はい」  大河の言葉に後押しされて、幸は、覚悟を決めると、車を降りてカバンを背負(せお)った。  それを見て、大河は助手席側に回り込むと、笑みを浮かべて幸のカバンに手を当てる。 「じゃあ、行こうか」  そして、大河は幸を連れて職員室に向かった。  校舎は二階建てのこじんまりとした建物だ。  廊下もあまり広いとは言えず、二人がすれ違う時に、肩が当たらない程度の幅しかない。  道中の廊下(ろうか)には生徒がちらほらいたが、すれ違う時に例外なく幸を振り返った。  大人の女性に連れられて歩いているという事もあるのだろうが、恐らく一番の理由は幸の容貌だろう。  幸は大人しくて引っ込み思案(じあん)だが、それに反して薄茶色の髪と瞳は目立つだろうし、綺麗な容貌もあいまって、嫌でも注目を集める。  そもそも、不登校になったのは、それが原因の一つなのだ。  チラチラと向けられる視線に、幸はいたたまれなくなって俯く。 「幸。胸を張って歩けばいいんだよ」  大河は幸の様子に気付いて言うが、気にするなと言うのは無理な話だった。  その後も、大河は安心させようと話し掛けていたが、幸の頭には全く入って来なかった。  そうして、二人は職員室に到着した。  大河は入り口に立つと、事前に聞いていた担任の名を呼ぶ。 「おはようございます。斉藤恭平(さいとうきょうへい)先生はいらっしゃいますか?」  その声に、職員室中の人が振り向く。  その中の数人は、幸に気付くと視線を止めてその顔を見た。  編入学の前に写真も送っているのだが、教職員までもが生徒と同じような態度をとるのには、大河も閉口(へいこう)した。  続けて文句でも言ってやろうかと思った時、一人の男が立ち上がった。 「あ、私が斉藤です。お待ちしていました」  そう言って、眼鏡をかけたひょろりとした男――斉藤恭平が立ち上がる。  そして、斉藤は二人の方に歩み寄ると、幸の前で足を止めた。 「君が三枝(さえぐさ)幸君だね」  斉藤は(ひざ)を折って幸の目線に合わせると、(さわ)やかな笑みを浮かべた。  幸は、諸事情(しょじじょう)により「三枝」を名乗る事になっていたが、呼ばれる事にまだ慣れていない。  戸惑(とまど)いがちに小さな声で返事をすると、斉藤と目を合わせなように顔を(そむ)けた。  その態度に、斉藤は苦笑しつつも、すぐに大河の方に顔を向けて声をかける。 「お母さんは、書類に不備がありましたので、あちらで記入をお願いします。幸君は私が責任を持って預かりますので」 「分かりました」  大河は母親ではないと言おうと思ったが、いちいち訂正するのも面倒だと、何も言わない事にした。  そして、大河が言われた所に行こうとするのを幸が不安そうな顔で見る。  そんな幸に、大河は安心させるように笑顔を向ける。 「大丈夫。外で待ってるから」  幸は不安そうにしながらも、小さく「はい」と返事をした。 「三枝君は、ここに座って」  斉藤は幸を自分の席に連れて行くと、隣の椅子(いす)を指差した。  幸が戸惑いがちに、椅子に腰を下ろすと、斉藤は笑顔を向けて一枚のプリントを手渡す。  そこには、箇条書(かじょうが)きで三行の文が、読み仮名付きで書かれていた。 「これには学校の決まりごとが書かれているんだ。大事な事だから一緒(いっしょ)に読んでおこうか」 「はい」  幸がプリントを受け取ると、斉藤は顔を近付けるようにしてプリントを指差す。 「まず、他の子が、ここに来るまでの事は聞かない」  そして、次の項目を指差す。 「家庭の事は聞かない」  そして、最後の項目(こうもく)を指差す。 「最後に、争い事はしない」  それから、幸の顔を(のぞ)き込むようにして「分かったかい?」と(たず)ねる。 「はい」  幸が答えるのに、斉藤は笑顔を返す。 「教室に行こうか」  斉藤はそう言って立ち上がり、幸を連れて職員室を出ると、周りから見えないように、そっと腰に手を当てる。  そして、斉藤は教室の前で足を止めと、幸から手を離し、教室のドアを開けた。 「ここだよ」  そう言うと、幸の前に立って教室に入った。  教室に入ると、生徒たちの目が幸に集中して、ざわめきが起きる。 「席に着いて」  それを(しず)めるように斉藤が声をかけるが、生徒達は鎮まらない。  幸は俯いてはいたが、整った顔立ちは十分見て取れた。  それに、幸の容貌は小学生の頃よりも一層綺麗になっており、中性的な魅力がある。  着ている服も、淡い色合いのシャツとカーディガンの組み合わせで、中性的な雰囲気が増していた。  生徒たちは幸の性別の判別に苦しんでいるようで「どちらだろう」という声があちこちで上がっていた。 「静かにして!」  斉藤が今度は少し大きな声で注意をすると、話し声はなんとか鎮まった。 「転入生を紹介します。三枝幸君です」  静かになったのを確認してから、斉藤は幸を紹介した。  名前に「君」が付けられていた事で男子と分かり、女子は歓声(かんせい)を上げ、男子は落胆(らくたん)のため息をつく。 「うるさいですよ!」  斉藤は再び注意してから、幸に自己紹介をするように(うなが)した。  幸は頭を(さら)に下げて、小さな声で名乗る。 「くさ……三枝、幸、です」  幸の挨拶(あいさつ)が終わるや、一番後ろの席の身長の高い男子生徒が手を上げる。 「俺の隣に座れよ」  確かに、男子生徒の隣にスペースはあったが、空いた机が置いてある場所とは違っている。  しかし、男子生徒は、幸に声をかけるとすぐに立ち上がり、用意されていた机を自分の隣に持って行ってしまった。 「ほら、こっち」  それに、担任は(まゆ)(ひそ)めるが、諦めたようにため息をついた。 「じゃあ、三枝君はあの席に座って」  幸は担任にペコリお辞儀をすると、急遽設(きゅうきょしつら)えられた自分の席に腰を下ろした。 「俺、二年の西尾出流(にしおいずる)。出流って呼んでくれよ。よろしくな」  そう言って、出流が幸に手を差し出す。 「……よろしく、お願いします」  幸は緊張した面持(おもも)ちで挨拶すると、恐る恐る出流に手を差し出した。  出流はその手を握りしめて大きく振る。 「敬語、なしな」 「あ、はい……」 「分からない事があったら聞いてくれよな、幸」 「はい」  斉藤は二人のやりとりを少し見てから教室を見回すと、簡単に新学期の始まりの挨拶をして、(おもむろ)に教科書を開いた。 「では、国語の授業を始めます。今日は前回の続きから。西尾君は三枝君にどこからか教えてあげて」 「はーい」  出流は返事をすると、自分の机をピッタリとくっつけて、幸の教科書を開いてページを指差す。 「今日、ここから」  そう言って、出流が指差したページは、殆ど平仮名の簡単なもので、幸でも十分読めるくらいの内容だった。  それに、声をかけて(もら)った事が嬉しくて、幸は(かす)かに笑みを浮かべると、小さな声で「ありがとう」と礼を言った。 「気にすんな」  すると、出流は照れたように言って(ほほ)をかく。  それから、自分の席に置かれた電子辞書を持ち上げて幸に見せた。 「分からなかったら、これ使っていいからな」 「あ、はい」  幸は返事をすると、カバンから電子辞書を取り出す。  それは、この前の買い物の時に買って貰った物だが、優一(ゆういち)を思い出して懐かしい気持ちになった。  ぼんやりと見つめている幸に、出流は不思議そうに声をかける。 「どうした?」  それに、幸が首を横に振る。  その時、斉藤が出流の(そば)まで来て、机を軽く叩いた。 「じゃあ、西尾君。続きから読んで」  出流は嫌そうな顔で立ち上がると、たどたどしい調子で教科書を始めた。

ともだちにシェアしよう!