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第四章(十二)沢井との思い出
この日、三枝 は家に帰らないと言う事だったので、幸 は大河 と二人だけで夕飯を食べた。
しかし、夕飯を食べ終えても、幸はモヤモヤとしたものを抱えて、一向に落ち着かない。
沢井 と自分との関係も分からなければ、そもそも「恋愛」がなんなのかさえ分からないのだ。
三枝に聞けば、沢井への思いは気の迷いだと言われるに違いないと思うが、大河はどう思うのか答えが知りたいとも思った。
それに、今日は、三枝もいないので、聞くには絶好のタイミングだ。
幸は、ここで聞かねばと思うのだが、大河に、ここに来るまでの事を言えば嫌われるのではないかと思い、勇気が出ない。
そこで、悩んだ末に、沢井の事は出さず「恋愛」とは何かと言う事だけ聞いてみようと考えた。
しかし、幸が心を決めて口を開きかけた時、そのタイミングで大河が声をかけて来た。
「ケーキ食べよう」
「あ……」
幸は聞きそびれて小さく声を出す。
「おせんべいも買って来てるけど、ケーキ、今日が賞味期限だから先に食べようと思って。嫌だった?」
聞かれて、幸は首を横に振る。
「いえ。食べたいです」
「無理してない?」
言われて、もう一度首を横に振る。
「えっと、考え事をしてたので」
「そう。じゃあ準備するね」
食器を用意しながら、大河が戸棚を指差す。
「おせんべいはここに入ってるから、いつでも好きな時に食べてね」
「ありがとうございます」
二人は、ケーキを食べる準備を整えて、ソファに腰を下ろした。
「食べようか。ここのケーキ、美味しいんだよ」
大河はそう言って幸を見る。
「美味しい?」
「美味しいです」
幸は一口食べて顔を綻 ばせた。
「良かった」
そう言って、大河もケーキを口に入れる。
それを見て、今なら聞けるかと、幸が「恋愛」について大河に尋 ねようとするのだが、またタイミング悪く、話すのを遮 られてしまう。
「そう言えば、幸の誕生日っていつ?」
大河は、ケーキを食べている事で、なんとなく誕生日を連想したのだが、幸には何故 、聞かれたのかが分からない。
おまけに、幸は二回目も聞くのにしくじり、複雑な顔でフォークを皿に置く。
「三月三〇日ですけど……」
それを聞くと、、大河は残念そうに、フォークを皿に置いた。
「残念! お祝いしようと思ったのに、もう終わってたのか。もっと早く聞けばよかった」
それに、幸はすまなそうに謝る。
「ごめんなさい」
「いや、こっちこそ祝えなくってごめん」
大河は顔の前で手を合わせた。
それから、合わせた手を離すと冷蔵庫を指差す。
「冷蔵庫のケーキ。食べちゃっていいからね」
しかし、幸は、箱にケーキが三つしか入ってなかったのを見ているので、大河に言われて困ったような顔になる。
「三枝さんのは……」
「気にしなくていいよ」
そう言って、大河がケーキを頬張 った。
そこで、幸は、話が落ち着いたのを見て、もう一度だけ聞いてみようと口を開いた。
「あの、聞きたい事があって……」
「何?」
大河がフォークを咥 えたまま答える。
「えっと……。恋愛について……」
幸がやっと聞けると思った時、玄関 のドアが開く音がした。
しばらくして、リビングのドアが開き、三枝が顔を覗 かせた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「あれ? 今日帰って来ないんじゃなかったっけ?」
幸は複雑な顔で挨拶 を返し、大河は驚いたように顔を向けた。
それに、三枝はコンビニのレジ袋を持ち上げて答える。
「キャンセルが出たから、早く終わったんだ」
その後、三枝はテーブルを覗いて、不思議そうな顔で大河を見た。
「今日、誰か誕生日だっけ?」
「別に。たまには、ケーキもいいかと思って」
「俺のいない日に?」
「幸と二人で親睦を深めようと思って」
大河に言われて、三枝はため息をつく。
三枝も、幸と親睦を深めたいと思い、なるべく早く帰るようにしているのだが、それでもあまり話す時間がとれないでいる。
それもあってか、いまだに幸に懐いて貰 えず寂しい思いをしているのだ。
せめて、自分のいる時に親睦を深めてくれればと思うが、いつ帰る事が出来るか分からないのだから、それが無理な事も知っている。
それなら、今だけでも会話に加わろうと、温めた弁当をテーブルに置いた。
「で、何を話してたんだ?」
三枝は、ソファに腰掛けて弁当を開く。
それに、大河は思い出すように空を見た。
「えっと、幸の誕生日が三月三〇日って言うのと……」
三枝は、大河が考えている間に、白身フライを一口食べる。
それから、三枝が白飯に箸 を伸ばしかけたところで、大河が思い出して大きな声で告げた。
「恋愛について!」
その言葉に、三枝が思わず箸を止める。
「恋愛?」
「幸が知りたいって」
「えっと……」
幸は、大河が三枝に話すのを聞いて、耳を赤くして俯 く。
それを見た三枝は、幸の過去を考えて、複雑な気分になった。
三枝には、どう言う経緯 でそんな話になったのかは分からないが、幸が自分に聞いて欲しくないと思っている事だけは分かる。
「食べたら席外すから。二人でゆっくり話せよ」
「なんで? 恋愛経験豊富な三枝の話が聞きたいんだけど」
興味津々 で大河が尋ねるのに、三枝はため息をつく。
「恋愛なんて、一度もした事ないよ」
「え? 一度も? 学生時代モテてたのに、付き合った事もないの?」
「勉強が忙しくて付き合う暇 なんてないよ」
「でも、あんなに頭いいなら、勉強する必要ないんじゃないの?」
大河に言わせれば、模擬試験で毎回全国一位をとる相手が、それほど勉強する必要があるとは思えない。
しかし、三枝はひどく当たり前のように返す。
「勘違 いするなよ。勉強してたから頭がいいんだ」
確かに、そう言われればそうだ。
それに、恋人がいなかったのなら、三枝とよく一緒にいた大河が、嫉妬 の視線を向けられてたのにも納得が行く。
「恋愛経験って本当にないの?」
大河が同じ事を尋ねるのに、三枝は面倒臭 そうにため息をついた。
「ない。それより、大河の方が結婚してたんだから、恋愛経験あるだろ?」
確かに、大河は、死別した夫とは大恋愛の末に結婚したのだから、恋愛経験はもちろんある。
しかし、大河は、三枝の面白い恋愛話が聞けると思っていたので諦めがつかない。
「でも、三枝だって、よくお泊まりしてるし、恋人いるんでしょ?」
「仕事だって言ってるだろ」
「ホントに?」
「本当」
そんな他愛 もない会話をしているうちに、三枝は弁当を全部、食べ終えた。
それから、ケーキが載っていた皿に視線を向ける。
「ところで、俺のってあるの?」
「ない」
それを聞いて、三枝は弁当ガラを持って立ち上がる。
「どうせな。期待なんてしてないよ」
そう言って、キッチンに向かう三枝に、幸が声をかけた。
「あ、あります」
そして、冷蔵庫からケーキを取り出して三枝に渡す。
「お、ありがとう。幸は大河と違って優しいな」
三枝はそう言って、大河に嫌味たらしい視線を送った。
「嫌なら食べなくてもいいんだよ」
「いるに決まってるだろ」
三枝はそう言うと、大河に背を向けて、ケーキを一口頬張った。
「うまい」
結局、幸は、恋愛の話は聞けずじまいで終わってしまった。
その後、風呂に入る順番になって、幸は湯船 に浸 かりながら考える。
自分が好きなのは、沢井だと言う事は分かっている。
しかし、三枝やカウンセリングで言われ、沢井が自分をどう思っているのか分からなくなっていた。
沢井の気持ちを確かめる為 にも会いたいと思うのだが、三枝に言っても許す筈 がないし、一人で行こうにも裏口の鍵 を電子ロックに変えられ、マンションから出る事も出来ない。
仮に出る事が出来たとしても、沢井のアパートの場所も分からなければ、密売組織の事務所の場所も分からなのだ。
会えないのだと思うと、より一層 、会いたいと言う気持ちが増してくる。
沢井が幸を騙 していたら、もし嫌いだとしたら、そんな考えが頭の中を渦巻 く。
幸はそれを振り払うように、頭を何度も振ってから湯船を出ると、シャワーのコックをひねった。
しかし、シャワーを浴びていると、沢井との風呂場での情事が思い出されて一層つらくなる。
「沢井さん」
幸は沢井の事を思いながら、自分の後ろと前に手を滑 らせる。
「沢井さん……」
そして、幸は、初めて自分自身を手で慰 めた。
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