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第四章(十五)眠れない夜

 その日の夜、(みゆき)は不安で寝付けなかった。  そこで、隣のベッドで寝ている三枝(さえぐさ)を起こさないように、そっと抜け出してリビングに行く事にした。  幸は気付かれないようにしたつもりだったが、その気配を感じて三枝は起きていた。  ただ、三枝は、幸はトイレに行ったのだろうくらいに思って、気にせずそのまま横になっていたのだ。  しかし、どうにも帰って来るのが遅いので、三枝もベッドから起き出す。  そして、ついでにトイレにでも行こうかと、部屋のドアを開けた。  すると、幸がぼんやりした様子でソファに座っているのが見えて、三枝が声をかける。 「どうした?」 「あ。ごめんなさい」  幸は、自分の所為(せい)で三枝が起きたのかと思い咄嗟(とっさ)に謝ったが、三枝にはなんの事か分からない。 「なんで謝るんだ?」 「えっと、起こしたのかと思って」  三枝が(たず)ねると、幸は申し訳なさそうに答える。  確かに、三枝は幸の気配で起きたのではあるが、謝られるほどの事ではない。 「謝らなくていいよ。幸の所為じゃないから」  三枝はそう言って、幸の横に腰を下ろす。 「何か考え事か?」  聞かれて、幸は考える。  確かに、幸は日下(くさか)判決(はんけつ)を聞いて、気持ちが落ち着かなかったのは確かだ。  しかし、ただ気持ちがソワソワして眠れなかっただけで、考え事をしていた訳ではない。 「なんだか落ち着かなくて」  幸は言葉を選んで答える。 「そうか」  三枝は軽く相槌(あいづち)を打つ。  幸が落ち着かない原因は、三枝にも分かっているので、理由を聞く必要はない。  ただ、タイミングが合わず、今まで聞けなかった事を聞くいい機会だと、三枝は幸に質問する。 「日下は、どんな父親だったんだ?」  三枝は、幸を保護した後、日下は勿論(もちろん)多田(ただ)にも会っている。  多田は会う度に、日下から幸を保護したのだから返せと言うが、そんな要望を聞き入れられる筈もない。  確かに、日下が虐待(ぎゃくたい)していたと(おぼ)しき証拠はいくらでもあったが、多田のやっている事も変わりはしない。  だから、三枝は幸を正式に引き取るべく奔走(ほんそう)したのである。 「暴力を振るわれていたのか?」  三枝が単刀直入(たんとうちょくにゅう)に聞くと、幸は無言で(うなず)く。 「多田が助けてくれたって、どうしてそう思うんだ?」  しかし、その質問に、幸は身構えて答えようとしない。  三枝も、幸相手だと、どう接した方がいいか分からず、困惑してしまう。  おまけに、幸が自分にいい印象を持っていない事を知っているから尚更(なおさら)だ。  このまま質問を続けても答えて(もら)えるとは思えず、三枝は気紛(きまぐ)れにリビングのカーテンを開けてみた。 「夜景、好きか?」  幸は、三枝に言われて窓の外を見る。  チラホラと見える街の明かりと夜空の星。  高層マンションから見る夜の風景は、とても綺麗だった。  幸は今までこんな景色を見た事がなかったので、不思議な感覚を覚える。 「はじめて見たので」  幸の答えは、好きとも嫌いとも分からず、三枝はその反応の薄さに苦笑した。 「まあ、俺は夜景なんてどうでもいいんだけどな」  三枝は、少しでも警戒を解いて貰う作戦だったが、あまり上手くは行かなかっと心の中でため息をついた。  それでも、三枝は、窓を開けると、バルコニーに出て幸を手招く。 「風、気持ちいいぞ」  幸は、三枝の誘いを断れずにバルコニーに出た。  しかし、初夏の夜に、肌を(すべ)るように吹く風は心地よくて、目を(つむ)ると、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。  三枝は、ガラスのサッシに両手を乗せると、無理と思いつつも幸に尋ねてみる。 「悪く言わないから、多田の事、教えてくれないか?」  三枝はなるべく優しい声で問いかけるが、幸は以前の事があるので慎重になる。  しかし、幸にも、これまでの三枝の態度から、自分を心配してくれているのは分かっていた。 「……お父さんから。助けてくれた……から」  幸は、考えた末に、三枝の質問に答えた。  三枝は、答えてくれた事は嬉しく思ったが、内容に(まゆ)(ひそ)める。  日下に酷い事をしされていたとしても、あんなにボロボロになるまで犯されて、助けて貰ったも何もないものだ。  三枝には、幸が何故(なぜ)こうまで多田を好きなのかが分からなかった。  幸の気持ちが知りたくて、三枝は否定的な事を言わず質問を続ける。 「日下に、そんなに酷い事をされてたのか?」  三枝に聞かれ、幸は悩んだ末に小さく頷いた。 「僕は……」  そして、幸が答えようと話しかけた時、後ろから大河(おおかわ)の声がした。 「何やってるの?」  大河はそう言いながら、二人の隣に来ると、そこから見る夜景の美しさに思わず声を出す。 「綺麗(きれい)!」  無邪気(むじゃき)にはしゃぐ大河と反対に、三枝はこめかみに手を当てて下を向いた。  大河に罪はないとは言え、二人の話がちょうどいい所まで来た時だったのだから、タイミングが悪いとしか言いようがない。  前回も同じような事があったと思い出し、三枝はため息をつく。 「なんで起きて来るんだよ」  しかし、大河は、どうして文句を言われるのか全く分からない。 「トイレに起きちゃいけないの?」 「間が悪いんだよ」  三枝はそう言って、幸に視線を流す。 「え? もしかして、何か大事な話でもしてたの?」  大河も、やっと察したようで慌てたように言う。  しかし、三枝も文句を言ってはいても、大河を責めてもどうしようもない事は分かっている。 「もういいよ」  三枝は、そう言うと、リビングに戻り、窓のサッシに手をかける。 「閉めるぞ」  その声に、二人がリビングに戻ると、三枝はピシャリと窓を閉めた。  そして、三枝はカーテンを閉めながら、背中越しに幸に尋ねる。 「眠れそうか?」 「……分かりません」  幸は、急に話を振られて戸惑うが、しばらくしてから、正直に答えた。  三枝は振り向くと、苦笑混じりに告げる。 「でも、明日は学校だから早く寝たほうがいいな」  もう、話す機会は過ぎてしまったのだから、他に声をかける事も思いつかない。  三枝は、腕を頭の後ろで組むと、背中を伸ばして大きく息を吐く。 「ベッドで横になっとくか?」 「あ。その前にトイレに」  幸はそう言って、ソファから立ち上がる。  それを聞いて、大河は勿論の事、三枝もトイレに行きたくなったが、二人は順番を幸に譲ることにした。  幸は、一足先にベッドに戻ると、布団を鼻の下まで上げて目を瞑る。  三枝に聞かれて、漠然(ばくぜん)と不安だった事が、ひとつの形をとって頭の中に渦巻(うずま)く。  日下が刑務所に入ったと言う嬉しい知らせにも関わらず、日下の名前を聞いた事が不安の原因だったのだ。  幸は、日下を(うら)んでいる訳ではないが、いまだに怖くて仕方がない。  離れているとは言え、考えるだけで体が震える思いがする。  それに、幸は、一年が過ぎた後、多田の所に帰れるのか、日下と暮らす事になるのかも分からない。  三枝は、未成年後見人(みせいねんこうけんにん)なので、幸が成人するまで面倒を見る事になるのだが、そんな事は知らされていないのだ。  幸は、色々考えてしまい、先程よりも眠れそうになかったが、三枝と話をする気分にもなれないので、寝ている振りで頭のてっぺんまで布団を被った。  そこに、三枝が戻って来た。  三枝はベッドに入るとすぐ、幸がまだ起きているのが気配で分かった。  しかし、わざわざ起こすのもどうかと、気付かない振りで寝ようと思ったが、気になってつい声をかけてしまう。 「話、いつでも聞くから。何かあったら言ってくれよ」  三枝は、ただ聞いてくれればいいと思っていたので、答えを期待してはいなかった。  なので、(あん)(じょう)、幸から返事はなかったが、気にはならない。 「じゃあ、電気消すよ。おやすみ」  いつか話してくれればいい。  三枝は、そう思いながら、手元のリモコンで電気を消した。

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