97 / 103
第四章(十五)眠れない夜
その日の夜、幸 は不安で寝付けなかった。
そこで、隣のベッドで寝ている三枝 を起こさないように、そっと抜け出してリビングに行く事にした。
幸は気付かれないようにしたつもりだったが、その気配を感じて三枝は起きていた。
ただ、三枝は、幸はトイレに行ったのだろうくらいに思って、気にせずそのまま横になっていたのだ。
しかし、どうにも帰って来るのが遅いので、三枝もベッドから起き出す。
そして、ついでにトイレにでも行こうかと、部屋のドアを開けた。
すると、幸がぼんやりした様子でソファに座っているのが見えて、三枝が声をかける。
「どうした?」
「あ。ごめんなさい」
幸は、自分の所為 で三枝が起きたのかと思い咄嗟 に謝ったが、三枝にはなんの事か分からない。
「なんで謝るんだ?」
「えっと、起こしたのかと思って」
三枝が尋 ねると、幸は申し訳なさそうに答える。
確かに、三枝は幸の気配で起きたのではあるが、謝られるほどの事ではない。
「謝らなくていいよ。幸の所為じゃないから」
三枝はそう言って、幸の横に腰を下ろす。
「何か考え事か?」
聞かれて、幸は考える。
確かに、幸は日下 の判決 を聞いて、気持ちが落ち着かなかったのは確かだ。
しかし、ただ気持ちがソワソワして眠れなかっただけで、考え事をしていた訳ではない。
「なんだか落ち着かなくて」
幸は言葉を選んで答える。
「そうか」
三枝は軽く相槌 を打つ。
幸が落ち着かない原因は、三枝にも分かっているので、理由を聞く必要はない。
ただ、タイミングが合わず、今まで聞けなかった事を聞くいい機会だと、三枝は幸に質問する。
「日下は、どんな父親だったんだ?」
三枝は、幸を保護した後、日下は勿論 、多田 にも会っている。
多田は会う度に、日下から幸を保護したのだから返せと言うが、そんな要望を聞き入れられる筈もない。
確かに、日下が虐待 していたと思 しき証拠はいくらでもあったが、多田のやっている事も変わりはしない。
だから、三枝は幸を正式に引き取るべく奔走 したのである。
「暴力を振るわれていたのか?」
三枝が単刀直入 に聞くと、幸は無言で頷 く。
「多田が助けてくれたって、どうしてそう思うんだ?」
しかし、その質問に、幸は身構えて答えようとしない。
三枝も、幸相手だと、どう接した方がいいか分からず、困惑してしまう。
おまけに、幸が自分にいい印象を持っていない事を知っているから尚更 だ。
このまま質問を続けても答えて貰 えるとは思えず、三枝は気紛 れにリビングのカーテンを開けてみた。
「夜景、好きか?」
幸は、三枝に言われて窓の外を見る。
チラホラと見える街の明かりと夜空の星。
高層マンションから見る夜の風景は、とても綺麗だった。
幸は今までこんな景色を見た事がなかったので、不思議な感覚を覚える。
「はじめて見たので」
幸の答えは、好きとも嫌いとも分からず、三枝はその反応の薄さに苦笑した。
「まあ、俺は夜景なんてどうでもいいんだけどな」
三枝は、少しでも警戒を解いて貰う作戦だったが、あまり上手くは行かなかっと心の中でため息をついた。
それでも、三枝は、窓を開けると、バルコニーに出て幸を手招く。
「風、気持ちいいぞ」
幸は、三枝の誘いを断れずにバルコニーに出た。
しかし、初夏の夜に、肌を滑 るように吹く風は心地よくて、目を瞑 ると、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
三枝は、ガラスのサッシに両手を乗せると、無理と思いつつも幸に尋ねてみる。
「悪く言わないから、多田の事、教えてくれないか?」
三枝はなるべく優しい声で問いかけるが、幸は以前の事があるので慎重になる。
しかし、幸にも、これまでの三枝の態度から、自分を心配してくれているのは分かっていた。
「……お父さんから。助けてくれた……から」
幸は、考えた末に、三枝の質問に答えた。
三枝は、答えてくれた事は嬉しく思ったが、内容に眉 を顰 める。
日下に酷い事をしされていたとしても、あんなにボロボロになるまで犯されて、助けて貰ったも何もないものだ。
三枝には、幸が何故 こうまで多田を好きなのかが分からなかった。
幸の気持ちが知りたくて、三枝は否定的な事を言わず質問を続ける。
「日下に、そんなに酷い事をされてたのか?」
三枝に聞かれ、幸は悩んだ末に小さく頷いた。
「僕は……」
そして、幸が答えようと話しかけた時、後ろから大河 の声がした。
「何やってるの?」
大河はそう言いながら、二人の隣に来ると、そこから見る夜景の美しさに思わず声を出す。
「綺麗 !」
無邪気 にはしゃぐ大河と反対に、三枝はこめかみに手を当てて下を向いた。
大河に罪はないとは言え、二人の話がちょうどいい所まで来た時だったのだから、タイミングが悪いとしか言いようがない。
前回も同じような事があったと思い出し、三枝はため息をつく。
「なんで起きて来るんだよ」
しかし、大河は、どうして文句を言われるのか全く分からない。
「トイレに起きちゃいけないの?」
「間が悪いんだよ」
三枝はそう言って、幸に視線を流す。
「え? もしかして、何か大事な話でもしてたの?」
大河も、やっと察したようで慌てたように言う。
しかし、三枝も文句を言ってはいても、大河を責めてもどうしようもない事は分かっている。
「もういいよ」
三枝は、そう言うと、リビングに戻り、窓のサッシに手をかける。
「閉めるぞ」
その声に、二人がリビングに戻ると、三枝はピシャリと窓を閉めた。
そして、三枝はカーテンを閉めながら、背中越しに幸に尋ねる。
「眠れそうか?」
「……分かりません」
幸は、急に話を振られて戸惑うが、しばらくしてから、正直に答えた。
三枝は振り向くと、苦笑混じりに告げる。
「でも、明日は学校だから早く寝たほうがいいな」
もう、話す機会は過ぎてしまったのだから、他に声をかける事も思いつかない。
三枝は、腕を頭の後ろで組むと、背中を伸ばして大きく息を吐く。
「ベッドで横になっとくか?」
「あ。その前にトイレに」
幸はそう言って、ソファから立ち上がる。
それを聞いて、大河は勿論の事、三枝もトイレに行きたくなったが、二人は順番を幸に譲ることにした。
幸は、一足先にベッドに戻ると、布団を鼻の下まで上げて目を瞑る。
三枝に聞かれて、漠然 と不安だった事が、ひとつの形をとって頭の中に渦巻 く。
日下が刑務所に入ったと言う嬉しい知らせにも関わらず、日下の名前を聞いた事が不安の原因だったのだ。
幸は、日下を恨 んでいる訳ではないが、いまだに怖くて仕方がない。
離れているとは言え、考えるだけで体が震える思いがする。
それに、幸は、一年が過ぎた後、多田の所に帰れるのか、日下と暮らす事になるのかも分からない。
三枝は、未成年後見人 なので、幸が成人するまで面倒を見る事になるのだが、そんな事は知らされていないのだ。
幸は、色々考えてしまい、先程よりも眠れそうになかったが、三枝と話をする気分にもなれないので、寝ている振りで頭のてっぺんまで布団を被った。
そこに、三枝が戻って来た。
三枝はベッドに入るとすぐ、幸がまだ起きているのが気配で分かった。
しかし、わざわざ起こすのもどうかと、気付かない振りで寝ようと思ったが、気になってつい声をかけてしまう。
「話、いつでも聞くから。何かあったら言ってくれよ」
三枝は、ただ聞いてくれればいいと思っていたので、答えを期待してはいなかった。
なので、案 の定 、幸から返事はなかったが、気にはならない。
「じゃあ、電気消すよ。おやすみ」
いつか話してくれればいい。
三枝は、そう思いながら、手元のリモコンで電気を消した。
ともだちにシェアしよう!