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第3話
憚りながら異常に気付いたのは先週……年のせいか眠りが深く、一度寝付けば余程の事がないかぎり起きない体質ときて、深夜徘徊を察するのが遅れました。
ふだん葵は二階で、私は一階の和室で寝ております。
先週の月曜、凄まじい悲鳴に叩き起こされました。
血相変えて駆け付けた私が見たのは、狂ったように顔を叩いて暴れる孫の姿でした。
「早くとって!」
言ってる事がまるでわからず、おそるおそる尋ねました。
「一体何のこと?」
「私の顔にたくさんくっ付いてるちょうちょだよ、あっちこっち飛んでるじゃん、見えないの!?」
葵は顔面に蝶が張り付いてると言って譲らず、しかし私にはそんなもの見えません。
常軌を逸した場面を目の当たりにし、孫の気が触れてしまったのではと危ぶみました。
それから葵は叫んで暴れ、羽交い絞めで制す私を振りほどいて顔をかきむしり、だしぬけに気を失いました。
翌朝にはけろりと目覚め、昨日の事を覚えているかと聞けば、「あのね、変な夢を見たの」と決まり悪げに打ち明けるではありませんか。
その夢の内容がまた不可解と申しますか、そこはかとなく不気味なのです。
夢の中の葵は屋敷の北側を歩いております。
やがて行く手に蝶が現れ、幽明境を異にする軌跡を辿るようにして、黒い蝶が描かれた襖に突き当たります。
現実の屋敷に蝶の襖はございません。小山内家は藩主の姻戚にあたる格式高い武家。代々質実剛健を尊び奢侈を嫌うがゆえ、花鳥風月を模した華美な襖絵は存在しないのです。
葵が襖に手を掛けたのを見計らい、隙間から蝶の大群が飛び立ちました。蝶の群れは葵を包み、好き放題に翻弄します。
襖の合わせ目の向こうには一人の女が座し、妖しく微笑んでいたと言います。
私が指摘するまで夢遊病の自覚症状はございませんでした。夜な夜な屋敷を歩き回っていても、明け方には布団に戻っていたから気付かずいたのでしょうね。
あの子が誘われた座敷は何処なのでしょうか。
私が知らない開かずの座敷が、屋敷のどこかにあるというのでしょうか。
半年前から孫の夢見の悪さを案じ、心療内科の先生に診ていただいたものの一向に改善されず……追い討ちをかけるように夢遊病が発覚し、もはやどうすればよいかわかりません。
懸念は他にもあります。葵が見ているのがただの夢ではない疑いです。
思えば妙に勘が鋭い子でした。物心付くまえからおかしなことをしたり言ったり……何もない暗がりを指して人がいるとか、天井を見上げて佇んだりとか。
……いえ、偽ってはいけません。恥を忍んで相談するなら全て詳らかにせねば礼儀に悖ります。
葵が狂ってしまったのは、この家のせいかもしれないのです。
息子夫婦が孫を初めて連れて来た時、あの子は澄んだ瞳をぱっちり開き、居間の欄間を見詰めてただ一言「ちょうちょ」と呟きました。
欄間に彫られていたのは伝統的な唐草模様で、蝶々などどこにもいないのに。
あの時から葵にはこの世ならざるものが見えていたのかもしれません。実親が手放した理由も、あるいは。
葵に霊感が芽生えた元凶がこの家にあったら。それが離婚の真相なら、どう償えばよいのでしょうか。
孫を送り届けた息子は「コイツは母さんに懐いてるから」と弁解しました。嫁はただただ恐縮しきり、「よろしくお願いします」と頭を下げました。
両親に手を引かれた葵は意固地に唇を引き結び、いじらしく俯いて。
尖った目に一杯涙をためて。
小さい体で一生懸命踏ん張って、世の中の理不尽と戦っておりました。
あの時心に誓ったのです。
このさき何があろうとこの子の味方でいようと、小山内の当主として……祖母として最愛の孫を守り抜こうと。
世間には予知夢や虫の報せと呼ばれるものがございます。ギリシャ神話に登場する蝶の化身プシュケは魂の運び手……ならば黒い蝶は不吉の兆しでしょうか。
このさき葵に何かあればとても生きて参れません、息子と疎遠になった今ではただ一人の身内を失うのが怖いのです。孫の成人を見届けるのだけが老後の楽しみなのです。
心配症とあきれましたか。
過保護とお笑いになるでしょうか。
膝枕でうたた寝する理一くんの頭をなで、「うちの宝や」とはにかんだ正一さんになら、必ずおわかりいただけると信じてやみません。
お願いします正一さん。
理一くん茶倉さんに、当家にお越しいただけませんか。
ぜひとも葵に会って、詳しい話を聞いてほしいのです。
この頃の葵はとみに無口になり、私との会話さえ避けている節があります。
夜毎見る夢のせいか不登校の契機となった出来事のせいか推し量れねど、あの子が心配なんです。
茶倉さんは確かな実力をお持ちの一流霊能者だと伺いました。長野の集落では祟り神と戦い封じ、岩手の寒村では神隠しに遭った子供を取り返したと記事に書いてありました。
その評判に嘘偽りなくば葵を悩ます霊障も必ずや解決してくれるはず。
無理なお願いなのは百も承知です。そこを何卒、旧友の誼で取り持ってくださいませんか。もちろんお礼はお支払いします。ご返事お待ち申し上げております。
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