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第10話
「どうした?」
ドライに疑問を無視、引手に指を掛けて襖を開く。
軽快に桟を滑った襖の向こうには、鏡台と文机、化粧箪笥を据えた座敷が広がっていた。調度品はどれも古く、百年以上は経ってそうな趣だ。
茶倉が物言わず座敷に踏み込み、中央の畳を見下ろす。
「手伝え。剥がす」
「無断で?」
「後で戻せばええ」
手分けして持ち上げる。畳の裏には矩形の羽目板が敷かれ、そこに思いがけないものが貼られていた。
「お札だ」
短冊形の符にゃ黒蝶を図案化した複雑な紋様が描かれており、読み解くのは困難だ。
茶倉以外は。
「|御厨《みくりゃ》」
札にしるされた蝶の翅を人さし指で辿り、表情を殺ぎ落として呟く。
「連中が絡んどったんか」
「誰?」
「稚児の戯の参加者に同じ名前のガキがおった。京都の陰陽師の倅」
「術者の子弟を集めた勝ち抜きトーナメントだっけ」
ちらっと聞いただけで詳細は知らない。が、茶倉と玄はその催しで知り合ったらしい。
「この札は御厨家が使とるもんや」
「さっき言ってた蝶の家紋の知り合いって」
無言で肯定する茶倉の横顔を窺い、遅まきながら報告する。
「居間で黒い蝶見かけたんだ。欄間んとこひらひら飛んでた、すぐ消えちまったけど」
「後出しやめろ」
「ごめんうっかり。あれってこの札と関係ある?御厨一族が差し向けた式神だったり……だとしたら悪いもんじゃねえよな」
「御厨は呪術に通じとる」
どきりとする。
「呪いをかけたってのか。葵ちゃん個人が狙われるわけ」
「可能性の話をしたまでや」
奥歯に物の挟まった言い方。どんな因縁があるのか、御厨一族に対し薄っすら嫌悪を持ってるのが伝わってきた。
「小山内さんがお祓い頼んだとか……じゃねえな、ボロボロだし」
「頼んだとしたら先祖やろ」
板に貼られた札は邪気の吸いすぎでどす黒く穢れ、今にも崩壊しそうに傷んでいた。
「剥がしちゃまずい?」
「そのままにしとけ」
「葵ちゃんの夢遊病は封印の札が傷んでたせい?新しいのと取り替えりゃ一件落着?」
『させるか』
背中に氷柱を突っ込まれた気がした。刹那、背後で乾いた音が響く。誰かが襖を叩き閉めたのだ。
「脅かすなよ」
「あかん!」
引手を掴むと同時に茶倉が叫ぶも遅く、襖がからから桟を走る。
「え?」
目の前に殺風景な襖が立ち現れた。
「どういうことだよ!」
むきになって襖を開ける、ただひらすらに開け続ける。開けても開けても襖が隔てる座敷は尽きず、廊下に出る事ができず混乱をきたす。
閉じ込められた。
無限に続く襖を憑かれたように開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けまくる最中、襖の白地にじわりと墨が滲んで蝶が浮かぶ。
「戻れ理一!」
力強く後ろ襟を引っ張られ、下がった拍子に襖の蝶がさまよい出て、一気に殺到する。
「っ、」
茶倉と背中合わせで漆黒の蝶に取り巻かれ、遠い過去の幻聴を聴く。
『すごいわ兄様』
『上手く描けたろ。本当は絵師になりたいんだ、父上と母上がお許しにならないけど』
『兄様ならきっとなれます』
黒い帳越しに垣間見た光景。幼い少年少女が寄り添い合い、筆を墨に浸して襖に蝶を描く。無邪気に戯れる二人の姿を蝶が覆い尽くし、新たな襖が開く。
「葵ちゃん!」
襖の向こうに葵ちゃんが倒れていた。俺の声に瞼が震え、ぼんやりした様子で起き上がる。
「なんで?部屋にいたのに……うわっ!」
黒い蝶が葵ちゃんに群がる。
「嫌だこっちくんな、あっちいけってば!お願い誰か助けて、怖いよおばあちゃん、ジュンっ、ジュンっ!」
蝶に襲われた葵ちゃんが悲痛に泣き叫び、友人の名前を連呼する。
『体を頂戴』
「ひっ!?」
転んで突っ伏す葵ちゃんが蝶に埋もれて見えなくなり、嫌な予感が弾ける。
「どけ!」
袋を下ろすや抜き放った竹刀を一閃、蝶を払って疾駆。後方の茶倉が扇状に呪符を展開、次々飛ばして援護する。呪符に触れた蝶々が霧散し、道が拓かれた。
「しっかりしろ、今助けにいく!」
どうにか座敷に辿り着き、葵ちゃんの全身に群がる蝶を薙ぎ払い、驚愕に目を見張る。
俺が支え起こした少女は葵ちゃんじゃない、別の誰かに成り代わっていた。
「誰だアンタ」
見た目は葵ちゃんだが中身は別人。
濡れた唇はぽってり赤く、光る鱗粉を塗した瞼の下の瞳はしっとり潤み、蠱惑的な色香が滴っている。
少女から女に羽化した何かが科を作り、慄く俺の手を控えめな乳房に導く。
『捕まえた』
嫣然と笑んで。
「戻れ理一!!」
背後の襖が連鎖的に閉じた。
半年前。体育館裏。ジュンに告白した。
『好きです。付き合ってください』
『え……』
ジュンが呆然と立ち尽くす。怖くて恥ずかしくて、俯いたっきり顔を上げらんない。
ジュンがぎこちない半笑いで聞き返す。
『何の冗談?』
『冗談じゃない。本気』
『好きって……恋愛的な意味でってこと?』
『うん』
クラスの子たちはうるさい。誰と誰が付き合ったとか誰に告ったとかそんな話ばっかしてる。
私はジュンさえいればそれでよかった。他はどうでもよかった。ジュンに気になる子がいると相談されたあの日までは。
ジュンが好きな人は私じゃなかった。当たり前だ、私であるはずがない。
私の一番の友達が好きな人は三年の先輩で、ジュンと同じ文芸部だった。
昔はよかった、難しい事なんにも考えず一緒に走り回っていられた。
ジュンはクワガタ獲りの名人で、私はそんなジュンが大好きで、ジュンがくれたクワガタを大事に飼っていた。
でもすぐにクワガタは死んじゃって、私とジュンは小学校を卒業し中学に上がって、ジュンには別に好きな人ができた。
『返事聞かせて』
勇気を振り絞って急かせば、ジュンが動揺露わにあとずさる。
『葵のこと友達だと思ってたのに、そんな目で見てたなんて気持ち悪い。酷い裏切り』
『違』
『だましてたんだ』
お腹がきりきり痛む。
反射的に伸ばした手を拒み、ジュンが凍り付いた表情で告げる。
『近付かないで!』
後の事はよく覚えてない。走り去るジュンの背中を見送り、慌ててトイレに駆け込めばパンツが真っ赤に染まってた。
初潮が来た。
最悪というほかないタイミングで。
私の心を置き去りに、私の体だけが女になっていた。
その日は早退した。洗面所で下着を洗ってる最中、涙があふれて止まらなかった。血はなかなか落ちずシミができた。
生理用品買ってこなきゃ。コンビニに売ってるかな?おばあちゃんに言わなきゃ……。
失恋しても朝は来る。
六時に起き、顔を洗って歯を磨き、おばあちゃんが作ってくれたご飯を食べる。
そのあと制服に着替え、「いってきます」と声をかけ玄関まで行き、ローファーを履いたところで動けなくなった。大嫌いな灰色のプリーツスカートに皺が寄ってる。
初潮が来たのは失恋のショックのせい?
本当のことなんて言えない。
言えるわけない。
言ったらおばあちゃんが哀しむ。
夢を見始めたのはその頃から。
私は真夜中の屋敷を歩いてる。ひんやりした北廊下を蝶が飛び、知らないお座敷に連れて行く。
襖の隙間はだんだん広がっていく。
現国の時間に習った胡蝶の夢を思い出した。旅人の一生は蝶が見ている夢か、蝶の一生は旅人が見ている夢か。襖を開けたらどっちが真実かわかるのかな。
私の人生が蝶の見ている夢なら、蛹の中で消えてしまいたい。
困らせてごめんジュン。
泣かせてごめんねおばあちゃん。
でも私、そんな悪いことしたかな?
私は私でいたいだけなのに、それさえ許してもらえないの?
なんだかとっても眠い。ここはどこ?体がふわふわして気持ちいい。男の子と女の子が襖に絵を描いてる。きょうだいかな?硯に溶いた隅に筆先を浸し、黒い蝶々を描いてる。
ここ……ひょっとしてうち?やっぱりそうだ、梁や柱の位置に見覚えある。
ふたりは背後にたたずむ私に気付かず、夢中で絵筆をふるっていた。
男の子が女の子の頬を汚す飛沫を懐紙で拭い、蕾が綻ぶように可憐な笑顔を引き出す。
『腹違いとは思えんほど仲が良い』
『片や正妻の子、片や遊女上がりの妾の子。家督を継ぐのは兄君か』
『然り、いかにご当主が溺愛してるといえど不具の体で子を生すのは困難』
『いやはや酷な仕打ちをするものよ』
『奥方さまの悋気は有名じゃからの。忠誠を証立てるにはああするしかなかろうて』
『ご当主にも謹んでもらわねば』
『あの御方は蝶々集めが趣味じゃからの』
『子供の頃から捕らえた羽虫の翅をちぎっておった、あるじを欺き逃げるのが小癪というて』
『城下で遊び興じるだけでは飽き足らず、吉原まで蝶狩りにいくとは度し難い』
大人たちの陰口が聞こえる。続いて響き渡ったのは赤ちゃんの泣き声。なんだろうと振り返り、後ろの襖をちょっとだけ開けて覗き、戦慄した。
『母を恨まないで』
紅襦袢を羽織った綺麗な女の人がいた。畳に敷いた布団の上には、素っ裸の赤ちゃんが寝かされている。
『小山内の奥方さまは大変嫉妬深いお方。ある子は毒を盛られある子は縊られ、妾が産んだ男児は皆殺されてしまいました』
さめざめ泣きながら匕首を持ち、まるまる肥えた脚をこじ開ける。
『どうして男に生まれてしまったの。家督争いの火種になりさえしなければ……』
恐怖で喉が詰まる。やめてと叫びたいのにできない。女の人が赤ちゃんの股に匕首をあてがい―
真っ赤な血が飛び散った。
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