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07
アンフェールとは一悶着あったものの、表向きは落ち着いたようだ。
同時攻略の方法なんて攻略サイトにも載っていなかった、けれどこれからはフラグ管理も気を付けなけらばならないのか。
――夜、自室。
まだアンフェールに触れられたところが熱い。
色々あってドッと疲れたから早めに休もう。
寝巻きに着替えて、ベッドに潜り込もうとした俺はふと昼間ハルベルに貰った香油のことを思い出す。
――そういえばあの香油、せっかく貰ったんだから使うか。
再び体を起こし、俺は制服のポケットに入れたままになっていた小瓶を持ち出す。
相変わらずいい匂いがする。それをベッド側のサイドボードに置き、俺はそのままベッドへと潜り込んだ。
――その晩、夢を見た。
夢というよりも、卯子酉丁酉としての記憶の断片を覗いているような、そんな不思議な夢だった。
夢の中での卯子酉丁酉は冴えない大学生だった。二つ下の妹がいて、あのゲームを押し付けられる。
最初はただの暇潰しだった。いや、待て。本当に暇潰しだっただろうか。
なにかを忘れているような気がする。だって俺はなにがあろうとも自らBLゲームをプレイするような男ではなかった。
――決定的ななにかが欠けている。
そうだ、あの世界の俺は――卯子酉丁酉はどうしているんだ。
もしかしたらこちらの世界が夢で、卯子酉丁酉としての俺が現実ならば。
必死に掘り返そうと夢の中、記憶を辿っていく。
けれど、面白みのない、大学とバイト先と実家を往復するだけの日々を繰り返すばかりで。
何故俺はあのゲームをプレイしようとしたんだった。妹に押し付けられて、『なんだよあいつ』と一人ごちながらパッケージを眺めていたのだ。
そして、そこで夢は一度途切れる。
次に気付いたときは大学の中、学生たちに紛れて俺は一人で歩いていた。
もう授業もない、このあと一緒に過ごす友達もいない――それに、■■■に見つかるのが面倒だったから逃げるように俺は歩いていた。
駆け足気味に階段の段差に足をかけたときだった。なにかに背中を強く突き飛ばされた。
振り返ったその先、そこに立って微笑んでいたのは――。
「……ッ!」
どくん、と大きく心臓が脈打ち、上半身が跳ねるように飛び上がる。
――今のは、なんだ。
心臓から血液が押し出されるように鼓動は加速し、開いた毛穴から汗が溢れる。
辺りを見渡せば、相変わらずそこにはもう見慣れたリシェスの部屋が広がっていた。
「――夢、だよな」
夢というよりも、俺の中に残っていた卯子酉の記憶の一部を覗き込んだような感覚だった。
けれど、最後に見た大学構内で突き飛ばされたときの記憶――もしかして、俺はあれで死んだというのか?
世の中に異世界転生というジャンルのネット小説やアニメが溢れていることは知っていた。
なんらかで命を落とした主人公が異世界・或いは既存の作品の中で目を覚ますというのが定石だった。
ここが本当にゲームの中だとして、卯子酉丁酉が本当の俺だとしたら、卯子酉丁酉は死んでいるということなのか。
だとしたら、ここは地獄か?もしかしてもう一生俺はこの世界から抜け出せないのか?
「……」
――やめよう。
考えようとしても明らかに記憶が足りない。
あのとき俺を突き飛ばした人物の顔も逆光で見えなかった。
忘れているなにかを思い出そうとしてもノイズが走る。
決めつけるにはあまりにも情報が足りない。
とにかく、少しずつでもいいから記憶を探らなければ。
恐らく、そこに俺が何故この世界にいるのかが分かるはずだ。
あまりにも生々しい夢のせいで、すっかり神経は昂ぶってしまい二度寝することはできなかった。
水を飲んで落ち着かせている内にハルベルが迎えに来たようだ。
扉がノックされ、『リシェス様』とハルベルの声が聞こえてきた。
「少し待っててくれ」
そうハルベルに声をかけ、俺は立ち上がる。
――どちらにせよ、やることは変わらない。
俺は生き延びなければならない。
生存した結果どう未来が変わるのかはわからない。そもそも未来があるのかもわからない。
手探りではあるが、それでも前を進むしかないのだ。
ハルベルと食堂へと向かっている途中、いきなり背後から肩を掴まれ、心臓が停まりそうになる。
振り返ればそこには八代杏璃がいた。
「おはよう、リシェス君」
「アンリか……おはよう」
「ハルベル君も」
「ええ、おはようございます」
「二人とも今から食堂行くの?」
アンリの問いかけに、俺の代わりにハルベルが「ええ、そうですよ」と人良さそうな笑顔で応える。
「アンリさんはお一人ですか?」とアンリの周囲に目を向けるハルベル。アンフェールと一緒ではないのかと少しドキドキしたが、あいつの姿は見当たらない。
「本当はその予定だったんだけど……なんだか急用があるみたいで」
「……そうか」
急用ってなんだろうか、そんなイベントあったか?
考えてみたが思い出せない。
「よかったら、僕もご一緒してもいいかな?」
ハルベル君、とアンリは俺の隣にいたハルベルを見た。
――何故そこでハルベルに尋ねるのか。
ハルベルも同じことを思ったのだろう、戸惑いながらも『どうされますか』とこちらに目を向けてくるハルベル。
なんとなく胸の奥がざわついたが、ついでだ。アンリの好感度は保っていた方が良いだろう。
それに、アンリを目の届かないところで一人にしていた方が気になる。
「構わない、好きにしろ」
「よかった~……ありがとう、リシェス君っ!」
「……っ! だ、抱きつくな……っ!」
「あ、ごめんね……ここじゃあまりスキンシップとかって厳しいのかな」
ごめんね、と照れたように笑いながらアンリはそっと俺から離れた。まだアンリの温もりが腕に残っているようで、落ち着かない気分だった。
八代杏璃というキャラクターはこんなにスキンシップが多いやつだっただろうか。
思いながらも、この空気を変えたかった俺は「良いから行くぞ」とアンリを置いて足早に食堂へと向かうことにした。
◆ ◆ ◆
この前と同じように、アンリの相手はハルベルに任せて俺は朝食を済ませることにした。
けれど、なんだろうか。この前よりも明らかに二人が親しげに話しているのを見て、なんとなく落ち着かない気分になる。
なんて思いながら、ちら、と二人に目を向けたときだった。向かい側に腰をかけていたアンリと目があって、アンリはにこりと微笑みかけてくる。
その笑顔になんだか嫌なものを覚え、俺は咄嗟に視線を逸した。
が、逃げられなかった。
「そういえばリシェス君、今日はなんだか雰囲気違うね」
そんなふんわりとした話題を投げ掛けられ、飲みかけていたスープが喉に詰まりそうになる。
小さく咳き込み、「そうか?」と聞き返せばアンリはうんうんと頷くのだ。
「アンフェール君となにかあった?」
「……っ、げほ!」
「あ、り、リシェス様、大丈夫ですか?」
二口目を喉奥へと押し込もうとした矢先、単刀直入に突っ込んでくるアンリに思わず咽せ返る。
慌てるハルベルに「大丈夫だ」と声をかけ、俺はアンリに目を向けた。
「アンフェールのやつがなにか言ったのか?」
「ううん、何も言わなかったよ。けど二人とも、なんだか様子がおかしいし……それに」
「それに?」
「……アンフェール君も雰囲気が柔らかくなったみたいだったから」
「ほら、ここ最近なんだか疲れてるようだったし」とアンリは思い出しながら言うのだ。
どこまでが本気なのかわかりにくいが、別に俺とアンフェールの仲は公言してる。触れられたくないと思うのは実際に『なにかあった』からだ。
「……別に、大したことはない。あいつも最近忙しかったんだろ」
「ふーん」とアンリの視線が突き刺さる。
そして、いきなり立ち上がったアンリの手がこちらに伸びてきた。
首筋に触れられそうになったところでハルベルがアンリの手を掴んだ。
「アンリ様、どうかされましたか?」
「……ああ、リシェス君の頬が柔らかそうだったから触ってみたくなっちゃって」
「ごめん、つい僕のいた世界での距離感になってしまって」とアンリは肩を落とすのだ。それからそのまますっとハルベルから手を離した。
「ごめんね、リシェス君。もしかして嫌だった?」
「馴れ馴れしく触れられるのは好きじゃない」
「そうだよね、ごめんね」
「……他のやつにはするなよ。相手によっては懲罰房行きになる場合もある」
度を越した潔癖症で、自分の認めた婚約者以外の人間に気安く触れられるだけで殴り、罵詈雑言浴びせるやつもいる。――それは原作のリシェスでもあるが、今は俺だ。そこまで目くじらは立てないが、やはり心臓には悪い。
後頭部にハルベルの視線を感じながらも、俺はアンリを許すことにした。
それにしても、そんなに分かりやすいのだろうか。
恥ずかしくないわけがない。それでも、アンフェールの方も落ち着いているのだと聞いて安心した。……そうでなくては困る。
それからなんとなく妙な空気のまま食事を終え、俺達は席を立った。
――寮舎、食堂前。
「それにしても、今日はなんだかリシェス君いつもと違う匂いがするね」
「ん、ああ……まあ」
恐らくハルベルから貰った香油の匂いだろう。
自分ではあまりわからなかったが、アンリが気付くくらいだ。
「僕好きだな、この匂い」と言いながら、猫のように擦り寄ってきたアンリはすんすんと人の首筋に鼻先を近付いてくる。
「……っ、だから、断りなく嗅ぐなと言ったばかりだろ!」
「あ、ごめんね……えへへ」
「……っ、……」
――あざとい、とはまさにこのことなのかもしれない。
ただ単に俺が耐性がないだけかもしれないが、あまりにも無邪気な一挙一動に良くも悪くも心が乱される。
と、そんなときだ。
「アンリ様」と俺とアンリの間に割って入ってきたのはハルベルだった。
「リシェス様はこのあと私用がありまして、申し訳ありませんが僕たちはこれで」
なんだ、私用って。
思わず顔をあげる俺を無視して、ハルベルの言葉に「ええ、そうだったの?」とアンリは寂しそうに眉尻を下げる。
「ええ、では失礼しますね」とハルベルはそっと俺の肩に手を触れる。どういうつもりだ、と目線を上げれば、ハルベルと目があった。
けれどあいつはそれに答えることはなく、そのまま「行きましょう、リシェス様」と微笑むのだ。
「じゃあまたね、リシェス君」
「あ……ああ」
けれど、これ以上アンリにかき乱されるのも心臓が保たない。
――助けてくれたのかもしれない。
そう、自己完結させて俺はハルベルとともに食堂前を後にした。
気付けば辺りに人の気配はなくなっていた。
道中会話らしい会話はなく、黙ったまま俺の手を引くハルベルになにか異様なものを感じた俺は咄嗟に「ハルベル」とやつを呼び止める。
人気のない通路内、そこでようやくハルベルはハッとしたように足を止めるのだ。
「リシェス様……」
「……お前、どうした? なんか様子変だぞ」
「申し訳ございません、僕……」
言いながらも俯いていくハルベル。どうやら、絶賛自己嫌悪に陥っているようだ。
確かにハルベルらしくない行動ではあるが、あのままだと完全にアンリのペースだった。それを助けられたのだと思えば、いちいち目くじらを立てる気にはならなかった。
「別に構わないが……お前があんな態度を取るなんて珍しいな」
それは主人だとか立場云々を抜きにしての純粋な疑問だった。
それまではアンリと親しげだと感じていた分余計ハルベルの行動が際立って見えたのだろう。
ハルベルは「ええ」となんとも言えない顔で頷いてみせるのだ。
「その、僕自身もよく分からないのですが、その……」
「なんだ。……別に叱らないから言え」
「……何故だか、リシェス様とアンリ様が一緒にいるのを見ていると、自分が自分でなくなるというか……」
「……?」
「そ、そうですよね。分かります、リシェス様がそのような反応をされるというのも。僕も、変なことを言っているという自信はあります」
なので、その。とごにょつくハルベル。その頬は居た堪れなさからじんわりと赤らんでいっている。
「不安になるというか、『このままじゃいけない』と頭の中で声が聞こえてくるんです。リシェス様とアンリ様を近づけちゃダメだって……」
言いながら、冷や汗を滲ませるハルベル。その視線は落ち着きなく動き回っていた。
自分でも戸惑っているのだろう、言いながらも顔色が悪くなっていくハルベルを見て、俺はいつの日かの自分を見ているような気分に陥るのだ。
「……ハルベル」
「も、申し訳ございません、リシェス様。このようなこと、リシェス様に言うべきでは無いとわかっていたのですが……」
「申し訳ございません」と謝罪を繰り返すハルベルの腕にそっと触れる。すると、驚いたようにハルベルはこちらを見た。
せっかくの色男も台無しだ。俺はこんなハルベルの顔を見たのは久しぶりのように感じた。
「いや、いい……正直に話してくれてありがとう」
「り、しぇす様……」
「人には合う合わないがどうしてもあるだろう。……ただそれだけだ、あまり気に病むな」
「確かに、いきなり手を引かれたときは驚いたけどもな」と冗談ぽく付け足してみるが、こちらを見下ろすハルベルの表情は変わらなかった。
「……違います、リシェス様」
「え?」
「…………」
ぽつりと呟いたハルベルだったが、次に「なにか言ったか?」と顔をあげたときにはいつものハルベルがそこにはいた。
「いえ、なんでもありません。……僕の無礼もお許し下さりありがとうございます、リシェス様」
「あ、ああ……」
「……っと、すみません、もうこんな時間でしたか。このままでは一限目の授業に遅れてしまいます、急ぎましょう」
そう、なにもなかったかのようにハルベルは俺に声をかけてくるのだ。
――本当に、なにもなかったかのようにだ。
さっき、絶対になにかを言っていたよな。
それも、あまり聞かないトーンだったからこそ余計胸にしこりのような形で残っていた。
もしかして、俺はなにか選択肢をミスしてしまったのだろうか。しかし、今のところハルベルは元気そうだし……。
そんなことをぐるぐると考えながらも、俺はハルベルに引っ張られるような形で校舎まで向かうことにした。
それから、今朝のことは本当になかったみたいにハルベルはいつも通り俺と接してくれた。
だからこそ、あいつ自身に抱いた違和感のことなどすっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだ。
いくつかの授業も終え、休み時間。
飯はアルフェールと食おうか、と思いながら教室を出る。
その前にハルベルに声をかけようかと、やつの教室へと向かってみたがどうやら丁度入れ違いになったようだ。ハルベルの姿はそこになかった。
「ハルベル君なら、さっき例の転校生が迎えに来てどこかに行ってたよ」
ハルベルのクラスメイトは不思議そうな顔をして教えてくれた。
例の転校生というのは言わずもがな、アンリのことだろう。
なんだか胸の奥がざわつく。
嫌な予感を覚えながらも、俺は「ありがとう」とだけ言ってそのままハルベルの教室を後にした。
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