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08
何を自分がこんなにも緊張しているのかわからなかった。
けれど、今朝のハルベルとのやり取りがあったからだろうか。少しだけ様子のおかしいハルベルのことが気がかりだった。
……それだけだ。
教室を出た俺は、そのまま校舎内歩き回ってアンリとハルベルの姿を探す。
そしてようやく見つけたのは校舎裏だった。
まさかこんなところにはいないだろうが、他に思いつかなかったので念の為……そんな気持ちで覗いた校舎裏で、俺は見てしまったのだ。
まず視界に入ったのハルベルの後ろ姿だった。そしてその奥に誰かがいる。
そこにいたのはアンリではない。見知らぬ生徒となにやら密談を交わしていたハルベルはそのまま生徒になにかを手渡していた。その手元までは確認できなかったが、こんなジメジメとした薄暗い場所で声を潜めているハルベルはあまり見たくなかった。
「……」
ハルベルが無事ならそれでいい。
なにも見なかったことにして教室に戻ろう。そう踵を返したときだった。足元に落ちていた小枝を踏み慣らしてしまったのだ。
「誰だ!」
瞬間、ハルベルがこちらを振り返る。聞いたことのない声に驚き、俺はついそのまま足を捻って転んでしまう。
地面の上、尻餅を突く俺を見てハルベルはハッとした。
「……っ、リシェス様?」
こちらを見下ろすハルベル。その視線が突き刺さるように痛かった。
――なんだろうか、なんとなくまずい気がした。
「悪い、盗み聞きしてたわけじゃないんだ。お前のことを探してて……」
そう慌てて立ち上がった俺はハルベルに向かって弁解する。驚いていたハルベルだったが、俺の言葉を聞けば「ああ、そうでしたか」と安堵するように胸を撫で下ろすのだ。
なにを自分までこんなに動揺しているのかわからなかった。それでも、とちらりとハルベルの奥にいた男に目を向ける。
「そいつは……」
同じ制服に身を包んでいるところを見ると生徒のようだが、生憎その顔には見覚えがなかった。
背の高く、体格もいい男だった。学生と呼ぶには老けているような気もしたが、老け顔の学生など探せばいる。
それよりもだ。その生徒と目があった瞬間、ぞわりと腹の奥に気持ち悪い感覚が広がった。ずんと重苦しくなるような、そんな嫌な感覚だ。
そんな男と俺の間に立ったハルベルは「ああ」と微笑むのだ。そして、
「ああ、リシェス様は初めましてですかね。ユーノという僕の友人ですよ」
「……どうも」
ユーノ、と呼ばれたその男はこちらへと手を差し出してきた。分厚い手だ。格闘でもやっていたのか、こちらへと差し出される一回り大きな掌を見て思わず固まった。
「リシェス様?」
反応に遅れてしまっていたところをハルベルに名前を呼ばれ、はっとする。そして俺は慌ててユーノの手を握り返した。瞬間、包み込むようにぎゅっと握られる手に全身の筋肉が引き攣るような感覚に襲われるのだ。
――俺は、この手を知っている。
「……ッ!」
咄嗟に俺はユーノから手を離す。ユーノはなにも言わない。俺はやつの方を見ることはできなかった。
がさついた、全身を這う乾いた指。そんなまさかと思いたい。武器の手入れをする男の手は大体そんなものだとわかっていてもだ。
「……邪魔して悪かったな」
これ以上ここに留まりたくなかった。
――この男と一緒にいたくなかった。
「あれ? 僕になにか用があったのでは?」
「昼食を、と思っただけだ……大丈夫だ」
「……そうでしたか。これからでよければ僕も……」
「大丈夫だ。……せっかく友人と話してたんだろ?」
「リシェス様」と声をかけてくるハルベルを無視し、俺は半ば逃げるように駆け足で校舎裏から立ち去った。
ユーノというキャラクターはいなかったはずだ。だが、既存キャラクター以外にもモブ一人一人に名前があることを知っている。
なにかがおかしい。
違和感を抱いたのはこの世界線でも同じだ。
ハルベルが俺以外の人間とも交流を深めていようが俺の関与する部分ではない、そう思っていたが。
あの校舎裏で人目を盗んでなにをしてるのか。
ハルベルがやり取りしていたものはなんなのか。
アンリはどこにいった?
疑問は輪を掛けるように広がっていくばかりだった。
結局俺はその日、一人で食堂で食事を取ることになった。
本当は一人になりたくなかったが、もしあのユーノが前の世界線でなにかしら関係あったとして、ハルベルと一緒にいるのが怖かった。
その日の放課後、授業が終わってすぐ俺はアンフェールの元へと向かった。
一人になるのは嫌だったし、だからと言ってハルベルに会いに行くのも避けたかった。
俺の考え過ぎなだけかもしれないと思ったが、それでもだ。
――校舎内、執務室。
「リシェス様、会長に用ですか?」
「……ああ」
丁度扉から出てきた生徒会の役員は、俺を見てすぐに執務室へと入れてくれた。
「僕たちは出てきますので、どうぞごゆっくり」なんて言葉を添えて、そのまま生徒たちは出ていく。
執務室にはアンフェールだけが一人残っていた。
「なにかあったのか」
アンフェールは革製の椅子に腰を掛けたまま視線だけをこちらに向けてくる。どうやら丁度仕事が一区切りついたところだったようだ。俺は来客用のソファーに座る。
「別に、大したことじゃない。……それとも、忙しかったか」
「別に構わない。……俺も、そろそろ帰るところだった」
「……そうなのか」
「今日はあの使用人はいないのか」
もしかしてハルベルのことを言っているのか。
前のことをまだ気にしているのだろうかと思ったが、思いの外真剣な顔をしたアンフェールに言葉に詰まってしまった。
「……ああ、一人だ」
そう答えれば、アンフェールはそうか、だけ小さく呟くのだ。それから執務室内に静寂が戻る。
元々俺もアンフェールもお喋りな方ではないし、今更沈黙を気にするようなこともない――と思っていたのだが、今だけは無性に緊張してしまう。紙の擦れる音すらも全神経で聞いてしまうのだ。
どくどくと心臓が脈打つ。
「あの、アンフェール……」
「なんだ」
「……迷惑、だったか?」
机の上を片付けていたアンフェールが動きを止める。そのままこちらへとまっすぐに向けられる視線に、思わずぎくりとした。
「迷惑じゃない、と言ってもらいたいのか?」
「……っ!」
「――邪魔だったらそもそも生徒会室に立ち寄らせない」
相変わらず物言いは冷たいが、その言葉を聞いて胸の奥に穏やかな波が広がっていくようだった。
「……っ、そうか……」
ありがとう、というのも変な気がして、そのまま再び俺は黙り込んだ。
それからアンフェールが準備を済ませるまでソファーの上で待った。その後、アンフェールとともに執務室を後にする。
なんだか変な感じだ。赤い夕陽が射し込む通路、俺はアンフェールと並んで歩いていた。
「あれから、アンリのやつとは会ったのか?」
「……今日もうちの教室には来てたな。ハルベルと気が合うようだったけど」
「お前は?」
アンフェールの言葉の意図が分からず、思わず顔を上げる。アンフェールは眼球だけを動かして視線をこちらへと下げた。
「お前はあいつのことをどう思ってる」
それは嫉妬やそういう類の質問ではないような気がした。鋭い視線に見据えられ、思わず立ち止まりそうになるのを堪えた。
俺は、と言葉を探る。八代杏璃――あいつの存在に対して言葉を選ぶのなら、
「……不気味だ」
怖くもあり、眩しくもある。第三者視点で見ていたときとはまるで違う印象を与えてくるあの少年のことがわからない。この世界線だからそう思っているのだろうか、俺にはわからないが、少なくとも今俺の中でのアンリはただひたすらに『不気味』だった。
アンフェールは「なるほどな」と呟く。
「あ、アンフェールは……彼のことをどう思ってるんだ」
「概ねお前と同じだ。――あいつはまだ、なにか隠している」
「それは……」
シナリオ的なことを言っているのだろうか、と思ったが、アンフェールの表情からは好奇心とはまた別のものが伺えた。
「とにかく、無闇矢鱈と二人きりになるような真似は避けろ。……本当にただの一般人なのかどうか、それすらも怪しい」
警戒心の塊のようなアンフェールらしいと思った。ああ、と頷けば、そのままアンフェールに手を取られた。このタイミングで手を繋がれるとは思ってなくて思わず顔をあげれば、アンフェールは俺から視線を外し、ただ前を見ていた。
「……」
アンフェールの手だって皮は硬いし、大きい。けれどあのときユーノに感じた恐怖はなく、包み込むような力強さが逆に今の俺には安心感を強く与えてくれたのだ。恐る恐るその手を握り返せば、アンフェールは少しだけぴくりと反応する。けれどそれだけだ。
――アンフェールなりに俺を元気づけてくれているのだろうか。
そんなことを考えるだけで胸が苦しくなった。
俺達はそのまま寮舎まで人目を盗むように手を繋いで帰った。
そして、その日の晩はアンフェールとともに過ごすことになった。
自室に着替えだけ取りに帰って、そのままアンフェールの部屋に泊まる。
アンフェールが朝まで一緒にいてくれたお陰で大分気は楽だった。それでも不安は完全に拭えるわけではない。
ずっと、胸の内で嫌な予感だけは確かに残っていた。
――そして翌朝。
隣でアンフェールが起きる気配がして、つられて身体を起こした。
まだ窓の外は薄暗い。ベッドから降りようとしていたアンフェールは「起こしたか」とこちらを振り返る。
「いや……問題ない、俺も起きようと思ったところだったから」
「無理するな。別に寝ててもいい」
「……アンフェール」
「送れない時間には起こしてやる」
余程俺はまだ寝足りないという顔をしていたのだろうか。赤子でも寝かしつけるかのように頭を撫でられれば、自然と身体はベッドに沈んでいくのだ。
それからアンフェールの言葉に甘えて再び目を瞑る。次にアンフェールに起こされて目を覚ましたとき、アンフェールは既に制服に着替えていた。
「……おはよう、アンフェール」
「ああ、よく寝ていたな」
「……ああ」
昨日といい、誰かと眠ると深く眠りにつけることに気付いた。
けれど、今回はあの奇妙な夢は見なかったので今回は“ちゃんと”休めたのかもしれない。
温もりの残ったベッドから抜け出し、そのまま用意していた着替えをする。
いつもならハルベルが来て着替えを手伝ってもらっている時間帯だ。
……そういえば、ハルベルにアンフェールの部屋に泊まると伝えていなかったな。
そんなことをぼんやりと考えながらも、俺はこそこそと制服を抱える。そして、そのままちらりとアンフェールを見た。
「……なんだ」
「……ここで着替えてもいいのか」
「……」
俺が言わんとしたことに気付いたようだ。アンフェールは俺に背中を向け、「俺は別に構わないが」と口にする。
今更恥ずかしがるような間柄ではないと言われればそうだが、それでもやはりまだ慣れが必要であるのも事実だ。「隣の部屋を借りる」と言えば、アンフェールはそのまま黙って寝室を出ていった。……どうやら気遣ってくれたようだ。
そのまま制服へと着替え、そしてついでに身嗜みも整える。自分一人で着替えることは殆ど無かったお陰か少しもたついてしまったが、なんとか見れたものにはなった。
それから俺はアンフェールとともに部屋を出た。
「アンフェール、一度俺の部屋に戻ってもいいか」
「構わないが、どうしてだ?」
「……ハルベルに泊まりのことを伝えてなかった。もしかしたら部屋の前で立ち往生しているかもしれない」
この時代に携帯がないというのはなかなか不便なものだと思う。俺の言葉に納得したようだ、アンフェールは「勝手にしろ」と口にした。
相変わらず物言いは冷たいが、一緒についてきてくれるアンフェールは心強かった。
――自室前。
アンフェールとともに自室の前まで還ってきた俺だったが、そのドアノブを掴もうとして違和感を抱いた。――鍵がかかっていなかったのだ。
昨日の朝、確かちゃんと戸締まりはしていたはずだ。けれどハルベルは鍵を持っているからもしかしたら、と思いながら扉を開く。
「ハルベ……――」
る、と言いかけた瞬間、言葉は途切れた。
薄暗い部屋の中、明らかな異臭が鼻をついたのだ。この匂いには覚えがあった。錆びた鉄のような、饐えた匂い――死臭。
「……おい、どうした?」
背後からアンフェールの声が聞こえてきた。俺は、背後を振り返ることはできなかった。否、目の前から目を反らすことができなかったのだ。
薄暗い部屋の中、床の上でなにかが倒れているのを見つけてしまった。気付いてしまった。その人物を中心に広がる赤黒い血液の海、明るい茶髪は血液がこびり付いて黒く変色し、その顔にいつもの笑顔はない。
「……っ、退け、リシェス」
異変に気付いたアンフェールが俺の肩を掴み、強引に扉から引き離した。その反動で、俺はそのまま座り込んだ。
アンフェールが蹴り開いた扉、廊下の明かりがその暗い部屋の中をより一層明るく照らし出す。
そのせいで、より陰は濃く浮かび上がったのだ。
血溜まりになった俺の部屋の中、そこにはハルベルがいた――既に事切れたハルベルだったものが、ただあったのだ。
ハルベルが死んだ。
それも、状況から見てどう見ても誰かに殺されたのは一目瞭然だった。
脳味噌の奥が冷たくなっていく。驚くほど頭の中は静かだった。
――失敗した。
ハルベルの死に悲しむよりも先に、そんな言葉が頭の中に浮かぶ。
死体の前に座り込むアンフェールはこちらを振り返る。そして、「人を呼んでこい」というアンフェールの怒声に驚いて、「あ、ああ」と咄嗟に俺は頷き返した。
恐らくこの世界線は俺が求めていた世界線ではないということは一目瞭然だ。
今すぐにでも時間を巻き戻して一日目へと戻りたかったが、それでもこの世界で誰が殺意を持ってハルベルを殺したのか――それを知らなけらば今後の支障になる。
まだ朝の時間帯だ、いるはずの警備の兵を探すが、こんなときに限って見当たらない。
今になって自分が焦っていることに気付いた。指先が震え、呼吸すればするほど体内の酸素が薄まっていく。じりじりと首を締め上げられるような感覚に、汗が滲む。
「……っ、……」
誰か、この際誰でもいい。
そう人を探そうとしたときだった。廊下の突き当りを曲がってやってきた階段踊り場。
そのまま階段を降り、下の階へと降りようと足を一歩踏み出した矢先だった。強い力で背中を圧される。
そのままバランスを崩し、宙へと投げ出される体。咄嗟に手摺を掴もうと出を伸ばすが、遅かった。背後を振り返ろうとしたとき、窓ガラスから射し込む日光でその陰は一際黒く焼き付いた。
――この感覚には、覚えがあった。
リシェスとしてではなく、卯子酉としての記憶の中でだ。
「……っ、お、まえは……――」
そこに立っていたその男は、手にしていた手斧を杖のようについて落ちていく俺を見つめていた。そして、確かに目が合って――八代杏璃は微笑んだのだ。
それが、その世界線で俺が最後に見た光景だった。
次の瞬間、なにかが潰れるような音ともにその世界の俺は事切れた。
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