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03
ウネドリ――卯子酉と名乗る得体の知れない青年は異世界から来たという。
彼を学園の外の森で拾ってきたアンフェール様。本来ならば下の人間に任せておけばいいものを、真面目な性格が災いしてアンフェール様自ら卯子酉の世話をするようになった。
それだけならば生徒会執行部としての仕事の一環だと言われても納得はできた。けれど、それはあくまでも僕個人的の意見だ。
リシェス様はアンフェール様の側に卯子酉がいることを良く思っていないのは明白だ。
アンフェール様が卯子酉を優先する度にリシェス様の機嫌が悪くなっていく。
恋愛というものが、人を変えるというのはよく分かっていた。
ぽっと出の得体の知れぬ男相手に嫉妬されるリシェス様はあまりにも痛々しく、あまりにも哀れで、それでいてやはり愛らしかった。
「ハルベル」
「はい、なんでしょうか」
「……アンフェールは俺の婚約者だよな」
「ええ、そうですね」
「運命の番なんだよな」
「ええ、間違いありません」
「……なら、なんであいつがアンフェールの隣にいるんだ」
「この学園に慣れるまでの間、率先して会長であるアンフェール様が面倒を見られるとお伺いしてましたが――」
「そんなの、他の奴らに任せておけばいいだろ」
「……リシェス様」
このやり取りも、あの男がやってきてからもう何度繰り返したことだろうか。
本来ならばアンフェール様と過ごすつもりだった予定が狂い、すっかり臍を曲げたリシェス様を宥めるために予めこうなることを予期して準備しておいた菓子をリシェス様の座るテーブルに並べる。
「アンフェール様は良くも悪くも真面目な方ですから仕方ないですよ。それはリシェス様の方がよくご存知ではないですか」
「そうだが、……なんだ? あの丁酉とかいう男は。馴れ馴れしくアンフェールに近付いて……」
「もう少しの辛抱ですよ、リシェス様。きっと、アンフェール様もリシェス様と会えない時間が続いて気になっているでしょうから」
「……そうか?」
「ええ、そうですよ」
「…………なら、いいが」
そう、用意したティーカップに口をつけるリシェス様。その時はリシェス様も僕も、数日も経てば終わるだろうと思っていた。
けれど、実際はどうだ。
日に日に卯子酉とアンフェール様が親しくなられてるのを見て、『ああ』と思った。
アンフェール様が卯子酉相手に向ける目が、リシェス様がアンフェール様に向けられているときと同じ目をしていると気付いた瞬間、リシェス様のことが心配になったのだ。
腫れていた空に真っ黒な雲が掛かり、空気が湿気を孕んで重く淀んでいく。
嵐が来る。そんな僕の予感は的中した。
人が恋をした瞬間、転がり落ちていくようにままならないものだと知っていた。
今まで当たり前だった日常の全てが凄まじい速さで色形を変えていく。
リシェス様は敏い方だった。
それも、想い人であるアンフェール様のことになると尚更。
アンフェール様の好意が自分ではない者に向けられていると気付き、理解したリシェス様はアンフェール様を恨むことはなかった。
その代わり、矛先が向いたのはアンフェール様の隣を奪った卯子酉丁酉だった。
リシェス様はその自分の居場所を取り戻そうと、あるべき姿に戻そうとしたまでだ。けれど、それは他の人間から見れば褒められたことではなかったようだ。
どんな手でもいい、異物を排除してアンフェール様の心を取り戻す――そんなリシェス様の行動はアンフェール様からしてみれば許し難かったのだろう。
リシェス様がアンフェール様から婚約破棄を命じられたのは卯子酉丁酉がこの学園にやってきてから約一月ほど経った日のことだった。
ここ最近荒み、ろくに眠れていないというリシェス様のためにリラックス作用のある香油や紅茶を仕入れに街へと降りていたときだった。
夜、学園に戻ってきた僕に告げられたのは『アンフェール様がリシェス様に婚約破棄を申し出、暴れたリシェス様が懲罰房に入れられた』という信じられ難い話だった。
抱えていた買い物袋も投げ捨て、すぐに僕はリシェス様がいるという懲罰房へと向かった。
薄暗く、どこまでも冷たく淀んだ空気が流れるその地下へ続く階段を歩くに連れ、その空気に鉄の匂いが混ざっていることに気付く。
心臓は早鐘を打ち、階段を駆け下りる足は無意識に早くなった。
そして、本来ならば問題を起こした生徒が拘留されるというその懲罰房の一室。
薄暗いその牢の奥。血溜まりの中倒れているリシェス様を見た瞬間、脳の奥がぢり、と焼けるように熱くなった。
状況を飲み込むよりも先に、脳が強く揺さぶられるような衝撃を受けた。リシェス様が自害をされているなどと信じたくなかったのもあるだろう。けれどそれ以上に、血溜まりのリシェス様の姿を見た瞬間、
「――」
脳みそを揺さぶられるような強い目眩に立っていることができなかった。
脳の中にある明らかな異物。それを取り除こうと、目の前のリシェス様に手を伸ばそうとした次の瞬間、強制的に意識はぶつりと途切れた。
「――……っ、リシェス様ッ!」
咄嗟に声を上げたとき、周りを歩いていた生徒たちの目がこちらを向いた。
先程までいた地下懲罰房ではなく、青空の下の校庭の中。
何もない場所に向かって手を伸ばしていた自分の手の中からぼとりと落ちるパンの入った紙袋を見て、息を飲んだ。
「あの、ハルベル君……どうしたの?」
心配そうに声をかけてくるクラスメイト。
あまりにも呑気な彼らに我慢できず、その胸ぐらに掴みかかる。
「え、は、ハルベル君……?!」
「どうしたもこうしたも……っ、リシェス様はどこだ? あんな場所にリシェス様を閉じ込めるなんてどういう――」
「――俺がどうしたんだ?」
目を疑った。耳も、自分自身の全てをも疑った。
そこには血溜まりで倒れていたはずのリシェス様が以前と変わりないお姿でいらっしゃったのだ。
「り、しぇす……様……?」
「ハルベル……あまり外で騒ぐなと言ってるだろ。そんなんだからアンフェールから小言を言われるんだよ」
「……」
「……おい、ハルベル……?」
思わず目の前のリシェス様の頬に触れる。さらりとした、それでいて指先に吸い付くようなきめ細やかな肌は間違いなくリシェス様だった。
卯子酉とアンフェール様の仲に嫉妬したときにはあれほど血色悪かった肌も、拒食状態に陥り、ただでさえ華奢なのに更に痩せ細っていた体も、以前と変わりない健康的で美しいリシェス様がそこにいた。
「リシェス様……っ」
眼球の奥から涙が滲み、目の縁に溜まった涙がぼろぼろと溢れ出す。
悪い夢を見ていたのか、と堪らず目の前のリシェス様に抱きつこうとした瞬間、リシェス様に「なんのつもりだ!」とビンタされた。
その痛みに僕はやはり悪い夢を確信した。この世界には卯子酉丁酉なんて人物は存在しなければ、リシェス様はアンフェール様に婚約破棄を申し出されることもない。求めていた学園生活がそこには存在していた。
――ああ、よかった。やはり全て夢だったのだ。
そう僕はただ幸福を噛み締め、リシェス様がご存命であるこの世界に感謝した。
数日後、あの男――卯子酉丁酉が再び僕の前に現れるまでは。
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