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5話 僕を買ってくれる?

 絵の軽快な話術に乗せられて、気づくと樹は5杯目のグラスを干していた。ひどく気分が良い。このままパリに移住してしまおうか。瞬間、戯れのような気持ちが湧き上がる程には樹はこの偶然の出会いを楽しんでいた。  「堅苦しいのはやめましょう、樹さん。絵と呼んでください。」 そんな気軽い申し出に悪い気持は起こらず、カイ、と小さく呟いてみる。  瞳の奥を輝かせて静かに微笑む絵の顔に、不思議な既視感を覚える。整った顔立ちと細い身体。おそらくどこかの芸能人にでも似ているのだろう。そんな風に雑に片付け、樹は腕時計に目をやる。  ここに来てからもう2時間が経とうとしているが、客は樹の他に誰も居ない。アルコールで熱った頭に好奇心が勝って樹は尋ねる。    「ビジネスは順調なのか。知る人ぞ知る画廊だとは思うが、表通りからは一等離れている。観光客にはまず見つからないだろう。地元の蒐集家ならまだしも。」  「店に興味を持ってくれて嬉しいな。樹さん。観光客はまずここには来ないかな。面白いアートを買い付けたらね、蒐集家の皆さんに一人一人、連絡をするんだ。彼らが店にやって来てくれたら、一日かけてアート談義をするんだよ。お酒を飲みながらね。もちろん、購入に繋がることもあるけど、そうではないことの方が多い。」  「じゃあ、やはり。」と言う樹を制するように絵は続ける。  「そう。だから僕は、アートだけを売っているのではないよ。僕自身を売っている。」  それはアートの知識をということか、と尋ねかけるも絵の艶っぽい悪戯な微笑みに、樹はふと押し黙る。  「ねぇ樹さん。樹さんも、僕を買ってくれるなら大歓迎だよ。そうだな、丁度今夜から明日、来客の予定はないんだ。樹さんの時間が許すなら、朝までゆっくり過ごせる。」  柔和な微笑みを絶やさずに、絵は樹の腕に人差し指を這わせる。  「旅の思い出だって、楽しんでみるのも悪くないんじゃない?」完全に硬直した樹の表情を見て、思わず絵は吹き出す。  「あははっ、冗談ですよ、Monsieur. フレンチジョークはお嫌いで?」  軽やかに言うと、カウンターの上で肘をつき、硬く結ばれた樹の両の手をそっと引き剥がして左手の甲に軽く口付け、にこりとする。    樹は真っ直ぐに絵の瞳を見つめる。すべてを見透かしているかのような樹の眼差しに、ポーカーフェイスが得意な絵も思わず本心が明け透けになっていないかとどきりとする。    「仕事柄、観察力には長けているつもりだ。 …そして探究欲もな。」  そう言うなり徐ろに立ち上がり左手で絵の両の頬を摘むと、尖った唇に音が立つようなキスをする。  「…フレンチキスじゃない方がよかったか?」  そう尋ねる樹に、瞬間、絵の鼓動は高鳴る。胸の内を悟られまいと一度静かに目を瞑り、それから悪戯に微笑みながら、  「かないませんね、Monsieur。どうぞこちらへ。」  樹の左の手を取ると、バーカウンターの奥のドアを開け、樹を誘い入れる。      

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