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8話 君になら振り回されてみても
「樹さん。」名前を呼ぶ声で目が覚める。時計に目をやると秒針は22時40分を指していた。1時間は寝ていたようだ。
辺りを見渡すと、乱雑に脱ぎ捨てられていたはずの樹のスーツは丁寧にプレスされ、整然と掛けられている。小さなソファテーブルの上には350mlのÉvianと真っ赤なリンゴ、それから小さな焼き菓子が置いてあった。
「お目覚めですか。」微笑みながら温かく絞ったタオルを渡す絵の手慣れた様子に、改めてこれはビジネスだったのだと樹は自覚する。
「あぁ…すまない。すこし疲れていたんだと思う。今朝は早かったから。」ぼそりと言い訳をし、
「そうだ。君には…本当は値をつけるなど野暮なことはしたくないのだが。これで足りるだろうか?」現代アート1枚の価格はピンキリであるものの、おそらく大概の新人アーティストと、一部の中堅アーティストの小さな作品なら買えるほどの金額を樹は絵に渡す。
しばしの沈黙の後、絵はその差し出された樹の手を柔らかく押し戻しながら、
「言ったでしょ、僕。樹さん、初めてだから、そんなに取らないって。それにせっかくの素敵な時間の後すぐにこんなやり取りをするなんて、少し傷ついちゃうな。…早く帰りたくなっちゃった?」そう言いながら悪戯っぽく微笑む絵に、樹は戸惑う。
「そうだ、身体は…、身体は大丈夫か。すこし手荒にしてしまった自覚はあるのだが…。」大きな身体を小さく縮めて目を伏せて話す樹に、絵は思わず笑ってしまう。
「本当にねえ。樹さん、全然手加減してくれなかったね。お手柔らかに、って言ったのに。」
返す言葉もない、と項垂れる樹に、
「でも、悪くはなかった?」と絵は尋ねる。
「………、自分でも不思議だが。…快かった。」と樹が答えるなり、
よかったあ、と絵が笑顔になる。
「ねぇ、樹さん。いつまでパリにいるの?」
「来週の土曜の夜の便で発つよ。」
「そっか…じゃあ今日が水曜日だから…、あと10日はここに来れるね。土日も営業しているから。樹さん、今日はお支払い、いらない。だから代わりに、また来てくれる?」
どこまでも絵のペースだな、と思いながらも、またここで絵に会えるなら悪くない、と思い樹はこくりと頷く。
「樹さん、うれしい。」明るく応える絵の目の奥に安堵の色が浮かんだのを、樹は見逃さなかった。
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