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馬鹿の大足狂騒曲

 抗議運動のピケも撤収した。そろそろ出発しましょう、と執務室のドアをノックしたのは3回。これ見よがしに左腕を確認し爪先を踏み鳴らすヴェラスコを尻目に、モーも内心やきもきしていた時の事だった。上着の内ポケットでスマートフォンが振動する。 「まずい事になった」  部屋に入ったモーが後ろ手でドアを閉めるや否や、ハリーは腰掛けていた事務椅子をくるりと回し、机の影から足を突き出した、文字通りプレーンな革靴は、トム・ブラウンで誂えたブラックタイによく似合っている。右の爪先にこびりついた白い汚れさえなければ。 「どうしたんです、それ」 「その……」  らしくもない躊躇いの後、ハリーは遠慮がちな手招きをして見せる。身を屈めた様吹き込まれた釈明を脳が理解した瞬間、モーは思わず頭を抱えそうになった。 「ちゃんと処理しないから」 「ゴミ箱に捨ててるよ、少なくとも自分の分は」 「この執務室に放置したら駄目です。袋に入れて持ち帰るか、別の所に捨てるか」  丸いプラスチックのゴミ箱を覗き込み、モーは一番上に乗っているティッシュの塊を睨みつけた。親の仇と言わんばかりに、何重にも固くくるまれているから、中身は判別できない。だから使用者が誰かも分らない。知りたいとも全く思わなかった。 「取り敢えず絨毯には殆ど零れなかったし、さっき拭いたから大丈夫だ」 「また機会を作ってクリーニングしましょう」  つかつかと扉に歩み寄り、モーは待機していた一味を呼び寄せた。 「何ぐずぐずしてるんです、今回ばかりは遅れたらブルックスも臍を曲げて……うわ」  ゴードンが言い終わる前に、モーはハリーの足からもぎ剥がした靴を、デスクに叩きつけた。 「市長が先程この部屋で、使用済みのコンドームを踏みました。代わりの靴が無いと出かけられません」 「予備は無いのかい」 「予備がこれなんだ。今日は雨だったから、靴に水が染みて……しかもペニーローファーだから、服に合わない」 「なるほど……」  さすがエル・エリオット。驚愕を理解へ真っ先に変換してみせた。神妙に頷き、自らが履いているスムースレザーのオックスフォード・シューズの靴紐を解く。 「ハリー、君の足のサイズは?」 「11インチ」 「意外と大きいな。私の靴では窮屈か」 「不用心ですよ、ハリー。その手のゴミはちゃんと片付けないと。僕は汚れ物は全部トイレに捨ててるので、容疑者じゃありませんからね」  偉そうに抜かした挙句、僕も9インチなので駄目ですと付け足すヴェラスコに、ハリーはじろりと剣呑な眼差しを突き刺した。 「この前ゴムが破れて中出しした時、そのままパッケージに包んで捨ててたじゃ無いか」 「市長に中出しってエロ動画のタイトルかよ」  片足で跳ねながら靴を脱ぎ捨てるゴードンは、厚かましくも眉を顰めている。 「まああんた、確かに避妊具無しだと興奮しますよね」  彼の靴は12、けれどウィングチップがどうしても気に入らないとハリーが駄々をこねる。 「今日はルイ・ブルックスの誕生会兼栄誉州民表彰会だぞ。彼がいなければ僕はこの地位に辿り着けなかった」 「でも君は彼の事を嫌っているだろう。恐らく逆もそうだ」 「だからこそきちんとした格好をしていく。後で笑い物にされたくない」  自らも屈み込んで靴を確認しようとしたモーに「君のは良いよ、大き過ぎてチャップリンみたいに見える」と先手が打たれる。 「磨いて何とかなりませんかね」 「時間がない。そもそも、精液がついた場合の靴の手入れってどうするんだ」  精液、のところで一瞬声が小さくなる事に同情と胸の温もりを覚えてはいけない。結局、一番上等でシックな感じのするエリオットの靴が代打を務める事になった。 「にしても誰だよ」 「今更犯人探しをしても意味なんてないさ」  未だ生乾きで、きゅうきゅう音を立てるハリーの靴へ無理矢理足を滑り込ませ、エリオットはゴードンの憤慨を嗜めた。 「これで皆学んだ、それが重要だ」 「寧ろ今まで、よく清掃人が何も言わなかったものですよ」  ヴェラスコが息を吐く。彼がタグホイヤーを確認するのは今夜何度目だろう。 「それと、気持ちは分かりますけど、セックスの後、余り部屋で香水を撒かない方が良いと思います。やってすぐだと分かるので、逆に気まずい」 「俺は最近デパートで、このCKエブリワンの匂いを嗅いで勃起しそうになった」 「あんたつくづく変態だよな、ゴーディ」 「うるせえよ、間抜けの小足」  ぶつぶつと言い合っている男たちを尻目に、モーは努力を続けていた。クローゼットから手入れ用具一式を取り出しての悪戦苦闘。クリネックスで悪臭を放つ黄味掛かった液体を掬い拭い、ステインリムーバーを付けてクロスで磨いてみたが、染みは余計広がった。クリームと靴墨を擦り込んだら、明らかに汚れの部分だけ不審な白っぽいてかりが浮いている、ように見える。幾らぴかぴかに磨き上げたエナメル靴がドレスコードだとしても、これはあんまりだ。 「駄目元だが、後でゴムのりを試してみたら? とにかく今は」  ひょこひょこと、普段のエレガントさも形無しな物腰で歩み寄ってきたエリオットが、顎で背後を示す。 「彼を手助けを頼む」  1.5インチ小さい靴に足を押し込もうと四苦八苦している市長の元に慌てて駆け寄り、膝を突く。 「やはりゴーディの靴にした方が」 「美学を貫くのは痛みを伴うものなんだ」  思いきりやってくれと言うので、ぎゅうぎゅう靴紐を締め上げる。まるで運命の靴を履かせる王子の気分。問題は見上げているシンデレラの顔が、盛大に顰められていること。  きっと本物の灰被りも、散々痛い思いをしたに違いない。ガラスのハイヒールだなんて、10メートル歩けば靴擦れだらけの血まみれになるだろう。  昔己がアフガンで用いていたように、ベビーパウダーでも振ってやったら少しはマシになるのかも……いや、あれが必要なのはエリオットだ。あのクールで利口で、銃火器なんて全く無縁に見える男が、塹壕足とは。  例え足がずたずたになろうとも、貫かねばならない美学があるとハリーは言う。事務椅子の腕置きを握りしめ、不機嫌そうに痛みを堪えている姿は、スポーツマンらしいがっしりした体格や、とことん男性的な面立ちにも関わらず、幼い子供のように見えた。ヴェラスコからスピーチ原稿を受け取る時ですら、まだ唇は尖っている。 「犯人をご存知なんでしょう」  こそっとモーが囁けば、ハリーは目を通していたカードからそっぽを向いた。 「今後は俺が、もっと念入りに確認しておきます」 「これでも泣き喚きたいのを我慢してるんだ。それ以上はやめてくれ」  クリップボードで秘書の頭をぽんと叩き、下目を投げつける時には、いつもの人気者、イーリング市の若き有能な市長、ハリー・ハーロウに戻っている。 「大体、あれは君のだったって言ったら、どうするつもりなんだ?」  事実、ハリーは立派にやり遂げた。市庁舎から車に乗り込むまではモーとヴェラスコに手を引かれていたものの、会場に着けば何事もなかったようにすたすたとホールを歩き回り、誰かに挨拶をして、挨拶をされて。  今夜の主役であるブルックスはバーボンをがぶ飲みしてすっかりご機嫌。バランスの悪い足元で懸命に踏ん張っているハリーの肩をバンバン叩き「君を推薦して本当に良かった」と、満面の笑みを浮かべる。 「私が思ったよりも遥かに、本当に遥かに、君はどでかいタマの持ち主だった。やり抜いてるな。大したど根性だ、リベラーチェみたいな女の腐った奴じゃなかった」 「これもひとえに、貴方や周りのサポートあってのことですよ」  一瞬よろけそうになった体躯は、後ろからベルトを掴むことで何とか支える。老眼と酔眼が重なるブルックスは気付かなかっただろうが、先程からモーが窺う横顔は、笑みながらずっと冷たい汗を滲ませているし、顔色も紙のようだった。  本人はまだまだ頑張るつもりだったのだろう。けれど流石にあんまりだと満場一致で周囲が決定する。スピーチを終えるや否や、後をエリオットに任せてホールから連れ出された時、とうとうハリーは癇癪を爆発させた。 「もう我慢できるか、一歩も歩きたくない! そもそもこんな所来たくなかったんだ!」 「あと少しだけ堪えて下さい」  ハリーが耐えていたのは、足の痛みだけではない。  そのままモーが膝裏と背中に腕を回して抱き上げた時、驚いたのは同伴していたゴードンだけ。「少し体調を崩されたようです」廊下をすれ違う人に彼が取ってつけたかの如く触れ回る間、ハリーはずっと、秘書の逞しい首に腕を回して、肩口に顔を埋めていた。カクテルパーティー効果とはよく言ったもので、彼が鼻を啜る音が周囲に漏れなかったのは、全くの僥倖だった。

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