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納得と隠匿

 大音量で車内を流れるジョナス・ブラザーズに合わせて熱唱していた為、駐車場へ乗り入れるまで演説に気付かなかった。日曜日の昼前。市民がデモに参加しやすい時間だ。  真面目に耳を澄まさずとも、拡声器でひずむ切れ切れの断片から主旨を理解したので、ヴェラスコはテイクアウトの寿司を片手に裏口へ回った。  そう言う時は表から堂々と入りゃ良いんだよ、弁護士だから抗議活動なんか慣れっこだろう。以前ゴードンが憎たらしい事を言っていた。そうでなくても休日出勤なのだから、これ以上余計なストレスはごめんだった。  市長オフィスでは、うんざり顔のモーが帰り支度をしている。「まだ騒いでるんだな」 「仕方ない、市民の当然の権利なんだから。確かに、絶滅寸前の鳥の新天地を破壊するなんて、去年建ったマレイの住宅地へロードローラーを乗り込ませるみたいなものだし」 「俺は猫派なんだ」 「知ってる。と言うか、まだ帰らないで欲しいんだけど。さっきメールでファイル送っといただろ、確認して明日中に議員達へ配れるよう段取りを付けてくれ」  賭けてもいいが、ヴェラスコが執務室へ入る前に、モーが小声で呟いた言葉は「死ぬ」だった。アルカイダと戦い抜いた海兵隊も音を上げるほど、市庁舎での16連勤は辛いものなのだと理解すれば、少しは気も楽になる。  死にそうな顔をしているのは執務室のハリーも同じこと。頬杖つきながら虚な目で眺めるモニターを覗き込んでみれば、新しい駅に入る店舗の入札に関するPDFと並んで、ask.fmのツリーをスクロールしている。「店へ行って好みドンピシャの相手と会った時、話しながらどんな飲み物を飲む?」 「まさか本名でやって無いでしょうね」 「してないし、ナンパもしてない。気晴らしだよ」  8貫入りのパックを差し出しても、表情が晴れる事はない。「ゴマフヒメドリの生息地はここ以外だとメキシコのヴェラクルスしかない、たった2箇所だ!」  そんなこと、こちらも百も承知、対策を練る為、資料へ何十回目を通したと思っているのだろう。  風向きなのか場所が悪いのか、ドアを挟んだオフィスよりも、執務室の方が外の声がよく響く。朝からずっと攻勢に苛まれていたのなら、就労意欲が大いに削られるのも宜なるかな。 「会議室で食べましょう。あそこは静かだ」 「モーも誘うか」 「彼はとっとと仕事を片付けて帰りたいようです」  執務室を抜け、戻ってくるまでによろしく、と手を振った時、見上げてきたモーの表情と言ったら!  週末本来の静けさを保つ会議室は、すぐさま不必要な沈黙が注入される。機械的に寿司を口に運ぶハリーの顔は浮かないままだった。 「さっさと交通局の認可が降りれば楽なんですけどね」 「うーん」  鮮やかなオレンジ色のサーモンはレモンで締められていて、幾らでも食べることが出来る。そうでなくても余り上手くはない箸使いで、何度も米の塊を取りこぼしているのに、ハリーは全く意に介していなかった。 「抗議活動の予定は何時までだった」 「14時です」 「何でまた、そんな長時間の許可を出した。この暑さだ、参加者が熱中症で倒れるかも知れない」  自らの政策へ積極的に反対している市民の体調を心配する市長なんて、彼位のものだ。  そう言えば昔から、変に優しい所のある男だった。ケータリングケースの形状の不備で火傷をしたと、殆ど言いがかり同然の理由で訴えられたフードトラックの経営者を弁護していた時も、原告席に座っていた若いインスタグラマーを眺めながら呟いていたっけ。 「可哀想に。まだ若くて、しかも人に姿を見せるのが仕事なのに、火傷だなんて」  こうやって2人きりで食事をしていると、お互いがローファームで点数を稼ぐことに必死だった過去を思い出した。  或いは、果たされなかった未来を想像する。休日にこじんまりした、清潔なダイニングのカウンターで並んで腰掛け、SNS映えしそうな小洒落た寿司をつつく。その時己は彼をハニーと呼び、ハリーがダーリンと甘い声で返したのだろうか。  ハリー・ハニー。そんな機会は絶対に訪れなかっただろうと、今なら理解出来る。けれど、あの時は目が眩んでしまった。前途有望な市長であるだけでなく、美しく、ひたむきな心根を持つ男のファースト・ジェントルマン。  輝く世界をうっかり夢想してしまった。今は、人生には叶わない事だってあると知っている。「この前付き合ってた女の子、ケイラだったかしら」なんて首を傾げる母に、曖昧な笑みを返すことにだって、良心の呵責を感じなくなってきた。  風向きが変わったのか、拡声器の甲高いノイズと、内容の定かではない絶叫の破片が室内に忍び入る。ここから見えるでも無いのに、ハリーは音のする方向へと首を捻り、痛ましげな表情を浮かべた。  市民の責任を取る、苦しみを受け止めるのが彼の仕事だ。だが痛みを抱えるのは、無力でか弱く、いかにも手を差し伸べてやりたいと思えるような人々ばかりでは無い。そんなこと、法廷でうんざりするほど見聞きして来ただろうに。 「いけませんよ、市長」  マヨネーズの絡むねっとりしたアボカドをミネラルウォーターで流し込み、ヴェラスコは言った。 「一々気にかけていたらきりがない。計画はもう止まりません。後は落とし所を決めるだけです……もう決まっていますけどね」 「そうだな」  頷きながら、ハリーもプラスチックのケースにべたりと落ちていたマグロを、不安定な箸捌きで漸くつまみ上げた。 「ショー・マスト・ゴー・オンか」 「そこまで大袈裟なことは言いませんが」  長テーブルに投げ出していたスマートフォンにテキストがポップアップする。『デスクトップに保存したファイルが開かない、壊れてるらしい。拡張子がどうとか言ってる』  壊れたんじゃ無くて壊したんだろう。それにしても、人が食事しているのを邪魔してはいけないと、海兵隊では教えないのか。液晶画面を伏せ、ヴェラスコは顎裏に張り付いた海苔を舌先で乱暴に擦り落とした。 「ねえハリー、僕の考え過ぎだったら良いんですけど。ここのところあなたは、少し柔になってます……正確には、市長になってからって事ですが」 「まあそれは、市長になったからだろうな」  箸先から滑り落ちそうになる、短冊切りにされた赤黒い生魚を、更に赤い舌が迎えに行くようにして口へ収める。伏せられた長い睫毛を見て感じるのが色気では無く疲弊なのがもどかしい。 「弁護士の仕事は謝っていないように見せかけて、お互いの妥協点を探る事だった。政治家も似たようなものだと思っていたが、真逆だな。謝りながら相手を叩きのめさなきゃならない」  そう、太腿に大袈裟な包帯を巻いたティーンの男の子を後目に「彼はインフルエンサーを名乗り、将来の収入に関する逸失利益を求めていますが、実際の彼のチャンネルの動画再生回数は最高でも5桁に届くかどうか。どこにでもいる、ありふれた自己顕示欲の旺盛な10代の少年なのです」なんて朗々と一席ぶち、老人が多数を占める陪審員をまんまと丸め込むことは許されない。  けれど、その過激な攻めの姿勢に浸りきる、自信たっぷりな笑みこそ、ヴェラスコが隣でいつも眺めていたハリー・ハーロウの表情だった。エリオットやゴードン、忠実なモーですら知らない姿。  何だこれは、嫉妬か。それともノスタルジーか。前者なら子供っぽ過ぎるし、後者ならば余りにじじむさい。 「今でも妥協は必要ですよ。それに、謝らないでいる図々しさも重要です。貴方の十八番だったでしょう」 「分かってるさ、全く。一度許嫁になったからって、最近君はちょっと態度が大きいぞ」  可愛くない、とぶつぶつ零すハリーに、ヴェラスコは思わず苦笑を浮かべた。 「僕だって、もうこの世界の水を飲んでますからね。可愛げだって無くなりますよ」 「ローファームでの君は本当に可愛かったのに。何でも吸収しようと、僕について回ってた。今じゃ自分1人で片付けようとするだろう」 「広報官なんて所詮は雑用係ですから」 「もっとエルやゴーディを頼れよ。彼らも君のことを可愛がってるから、幾らでも重要な仕事を任せてくれるぞ。遊園地について自然保護局との交渉だって、本当は君に」 「ちょっと待って下さい、自然保護局?」  瞠目するヴェラスコの顔を見つめ、ハリーはあからさまにしまったと言う表情を浮かべた。 「まだ話してなかったか」 「聞いてませんよ。あれ、もう終わってたんですか」  ああ、とかうう、とか、天井を仰いで言い訳を探すこの男の姿なんて、金輪際見たくなかった。憤慨の余りぱちりとテーブルへ箸を戻し、ヴェラスコはシュプレヒコールよりも遥かに強い語調で声を張り上げた。 「やっぱりあなたは、ここの所腑抜けてますよ!」

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