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スパイの為のスパイス
呼び出された場所は12番街にある「19世紀風アメリカン・アイリッシュ料理」を売りにしている店だった。お互いの地元ではない中立地点。狭いしバーもないから先に行っているとまで言われたら、断ることが出来なかった。
昼間でも薄暗い店は、がたつく丸テーブルに洗濯されすぎてところどころ薄くなった白いリネンのテーブルクロスを掛け、アンティークのオイル式ランプを一つ置いているような席が10足らず。小さなベルを鳴らしながら扉を潜ったヴェラスコが、真っ直ぐ目的地を目指しても、給仕は知らんぷり。赤い別珍張りの椅子へ腰を下ろしてしばらくしてから、ようやく店の奥から現れる。
「コンビーフ・キャベッジ。ここの名物だ、後何か適当にワインでも」
対面のマレイは、メニューを見ることなくそう告げた。同じ物を、ただしワインではなくミネラルウォーターで、と頼んだヴェラスコに、「案外真面目なんだな」とあの取って付けたような笑みを向ける。
「この後もまだ仕事がありますから」
「遊園地の件か」
「いいえ。それは僕の管轄じゃない」
思わず蓮っ葉な語調を作れば、若い頃は海よりも深い色をしていたのだろう青い瞳が、抜け目ない輝きを帯びる。
「君は能力に見合うだけの役割を与えられていないようだな。違うか?」
変な御為ごかしを弄し絡め手で来られるより、こうして直球で攻められる方が余程いい。運ばれてきたエヴィアンのボトルからグラスに注ぎ、ヴェラスコはにこりと笑みを浮かべた。
「僕はあくまで広報官です」
リクルートなんて珍しいことではない。有能でさえあればいい。事実ハリーは、自らの才能を見込んで選挙対策委員会に引き込んだ。或いは可能性を青田買いした。
彼が望むだけの成果を出せているだろうか。そうだと信じたい。だが一番美味しいところはまず戦略官チームが口を付け、自らはそのおこぼれに預かるだけ。不公平さを感じないと言えば、嘘になる。
グラスで運ばれてきたワインを一口飲み下し、マレイはその端正な顔を漫画っぽい大仰さで顰めた。
「この店でもディゴ・レッドなんか出すようになったんだな」
もしもここにハリーが、或いはエリオットでもゴードンでもモーでも、誰でも構わないが、お馴染みの連中がいたら。「ディゴ(イタ公)」なんて言葉を耳にするなり、形式だけとは言え一応は窘めるだろう。
だが2つ向こうの席に陣取っているマレイの秘書はこちらを見向きもしない。一言も聞き漏らすまいと耳を澄ましていることは確かだった。だが一見するだけだと、何かごちゃごちゃと具の入ったポリッジに、ソーダ・ブレッドを浸して、黙々と口に運んでいる。同じく無言の運転手がつついているのは、多分ブラック・プティングのマッシュドポテト添え。美味そうだ、あれを注文すれば良かったと少し後悔する。
幸い、深く考え出す前に、コンビーフ・キャベッジとホットクロス・パンが運ばれてくる。甘いパンをちぎりながら、マレイが口火を切るタイミングもまた、悠長とは程遠い。
「昨年の冬季一時シェルター、主導したのは君だと聞いてる」
「あれはそちらの賛同があったから推進できたプロジェクトですよ。駅周辺はあなたの地元だ」
「いやいや、こちらこそ感謝しているんだ。甥の夫婦が電車通勤なんだが、去年は安心して利用できたと喜んでいた。いっそ恒常的に運用するのは?」
「そうしたいのは山々ですが、予算の観点から厳しいですね。取りあえずご存じの通り、真夏の2ヶ月間はシェルターを再会する予定です。この殺人的猛暑じゃ、死人も増える」
「是非とも頑張ってくれ」
見事なまでの他人事。市の予算と自分の財布を完全に別物だと思っている──本来そうでないと困るのだが。しかし。
当事者意識と言うものが徹底的に希薄な目の前の男を見ていると、誰かをぼんやりと思い出し、或いは差が朧げに浮かび上がってくる。
「知らないと思うが、以前君のご両親とは法廷で争ったことがあってね」
「どの案件です?」
「そう言われたら言葉に詰まるな。全く、シーロとカルラは手強かった。理想のタッグだ」
知っている限り、マレイ・コーポレート対様々な生活困窮者の勝敗は4対6。示談になった案件を含めれば、恐らくこちらの分が少し悪いと言えるかも知れない。
「君もビートン&オリアンで獅子奮迅の活躍だったじゃないか。ハリーの影に隠れていたのが勿体無い位だ」
「時には一歩下がる事が出来る人間こそ、法曹界では重宝されますからね」
いにしえのレシピを再現し、余り塩抜きをしていないらしい。皿の上のブリスケットは舌が痺れそうなほど。茹でられたキャベツにソースが掛かっていないのも納得の代物だ。だからこそ、ミネラルウォーターで流し込みながら、眉間に皺を寄せる建前になってくれるのが有難い。
「けれど僕は、昔から闘争心が強いんです。両親にもよく注意されました……実のところ、弁護士にはさほど向いていなかったのかも知れません」
「だから政治の世界に活路を見出した?」
こうして相手をまじまじ観察しながら食事をしたことが無かったので気付かなかった。だがマレイのテーブルマナーは、幼少期に家庭できっちり躾がなされていながら、敢えて気にしていないことが見て取れるものだった。
ハリーを始めとして、チームの中でこの無造作さを持つ者はいない。誰もが会食の席へ招待されると、一見気楽さを装いつつも、注意を怠ることは決してなかった。
嫌悪なんて強烈なものではない。ただ、観察し、朧げにだが意識していたのだと、今になって自覚する。
弱者の味方ヴィラロボス一家。人権派弁護士の自覚は今やズタボロだった。
「僕が市庁舎に入った理由ですか。忠誠心です」
「ハリーへの?」
「レッテルへの。馬鹿げていると思われますか」
「いや、若いと思っただけさ。若くて利口だ」
ひょいと肉の切れ端をつまみ上げて口へ放り込み、マレイは言った。
「君のような有能な人間を、どうして見つけられなかったんだろう」
「よく見ていなかったからでしょう」
「成程、一本取られた」
この流し目はやはり苦手だ。けれどもう、そこまで怖いと思うことは無くなった。
「遊園地の事でまた何か動いてるな。自然保護局の横槍が入ったか」
「あれはてっきり副市長の差金かと」
「ああ、彼女もごねたかも知れないな」
このクソ親父。怒りはいっそ闘争心を掻き立てる。世間では──市民としても、更に言えば法廷でも──諌められる類の感情かも知れないが、今やヴェラスコは己に許していた。35歳でフランケンシュタイン・コンプレックスを克服出来ていなかった方が、余程タチが悪い。
「まあ、誰であってもおかしくないとは思っていましたがね。取り敢えず、全てはもう済んだ話です。しかも至ってシンプルな方法で」
ヴェラスコが口の中で柔らかく解ける肉をじっくり噛み締めている間、マレイは散々詳細を聞きたそうな顔をしていた。やがて、これ以上物を食べる以外の目的で唇が開かれることは無いと理解したのだろう。白々しい程気軽な調子で、両手を掲げて見せる。
「つまり、今日言いたかった事はだな。我が陣営の広報官の席はいつでも空けてあると言うことだ」
「次に転職するなら前向きな理由にします。目下は主任補佐官を目指してるんです」
「覚えておこう」
席を立ったヴェラスコの後ろ姿に、マレイはしれっと付け足した。
「来期の市長として」
この程度で、勝負を仕掛けられたと思うのは、まだ己が未熟なせいだろう。捕まえたタクシーに揺られている間、ヴェラスコは己の行動と振る舞いについて考えていた。シンプルな飯を、上品に食べた。少なくともそれは間違いない。なら十分。また行きたい店だとは思わないが、行かざるを得ないだろう。そこでしか味わえないものがあるならば──例えそれがどんなに口に合わないものでも。
市庁舎へ戻れば、丁度市長オフィスから出てきたばかりのエリオットと鉢合わせした。
「マレイはまた、あのアイルランド料理屋へ連れて行ったのか?」
さらりと尋ねられて苛立ちは否応なしに増す。もう隠す必要はないので、ヴェラスコは素っ気なく「高血圧になりそうだった」と返した。
「ハリーに言う?」
「言わないさ。ただ、さっさと仲直りしてくれ。これ以上面倒を抱え込む余裕はない」
「あんたは僕を過小評価しない方がいい」
「逆さ。君がいじけて、自分を枠に押し込めているだけ」
一歩先を歩きながら、エリオットは微笑むばかりだった。彼の笑顔を見ると、いつでも思う。追いつこうと足掻けるこの場所は、自らにうってつけだと。
「良い加減、プライドを捨てろよ。ただ言えば良いんだ、オリバー・ツイストみたいに『お粥をもう一杯下さい』って」
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