15 / 25

美しき諍い野郎

「昨日の夜、寝言で『やめてくれよ、ハリー』って言ってた」  久しぶりに8時間熟睡出来た朝、鼻腔を擽る香ばしいインスタントコーヒーの香り、マグカップを差し出す非の打ち所がないハンサム。既に仕事用のチノパンと黒いポロシャツを身につけたヨルゲンセンは、開口一番そう言った。 「夢の中まで仕事に追われるなんて、大変だな」 「いや、仕事の夢じゃなかった」  マグを受け取ったのと反対の手で欠伸を押さえながら、エリオットは首を傾げた。 「何か……重いものに押し潰される夢を」 「それなら俺の責任だ。君を後ろから抱き枕代わりにしようとしたから、締め落とされると勘違いしたんだろう」 「私の寝込みを襲って闇討ちしようと?」 「そう、MACP(アメリカ陸軍格闘術)の上級編、ブラジリアン柔術の応用技で」  ふふっと上機嫌な笑みに吊り上がった唇は、謝罪の代わりにこめかみへキスを落とす。「早く帰ってくるなら連絡をくれ、夕食の支度があるから」とひらり、手を振る仕草ですら様になるのだから。  ルームメイトと妙な関係になってしまってもう一年近く。きっかけはありふれた同情だ。禁酒を破り、催吐作用のある薬と自己嫌悪で便器にしがみついて号泣していたヨルゲンセンを、介抱した晩のこと。憔悴消耗の限界だった彼をベッドへ招き入れ、横へ寝かせたのは、自殺してしまったらどうしようと本気で不安になったからだ。  一々記録をつけている訳ではないが、彼が夜眠れない子供の仕草で身体に触れてくるようになったのは数週間後。親愛の情を込めて、唇以外にキスをするようになるまでは更に数ヶ月を要し、今やエリオットが帰宅しない日ですら、ヨルゲンセンは己のベッドで眠らない。  これは余り良い関係ではない。もう明らかに清いお付き合いと呼べない状態へ陥ってすぐの頃、エリオットはちゃんと警告した。君の奥さんに対する忠誠心を挫くのは良くないし、私はゲイで、パートナー、とは言わないが、他に肉体関係を持っている相手だっている。  構わない、とヨルゲンセンはあっさり答えた。「テヘランの砂漠で凍えた夜は、皆当たり前みたいに身を寄せ合って眠った。俺はただ、他者との親密な関係を求めてる」 「何か抱きしめるものが欲しいなら、犬か猫でも飼うか、いっそ女の子と付き合ったらどうだい」 「君がいい、親友だから」  私は君の親友だったのかとか、添い寝なんて普通は幼稚園位で卒業するものなのだとか、軍隊って大変だなとか、続けたい言葉は山ほどあった。だがあの綺麗な顔立ちを心底の哀願に染め「君しか信頼出来る人がいないんだ」と言われてしまえば。  幸い、朝勃ちしていたら慌ててトイレに駆け込む程度の良心は残っているらしいので、まだセックス・フレンドではないと明言できる関係性へ踏み止まっている。  ゴードン辺りに露見したら「またあんた厄介な男を引き当てたな」と笑われるのが目に見えている。事実なのだからぐうの音も出ない。  それにこんな事を言ったら、ヨルゲンセンを傷付けてしまいそうだから黙っているが、それこそ犬を飼ってるようなこの気楽な関係は、正直悪くなかった。顔と身体の良い男は幾らいても邪魔にはなることはない。  そこに才覚が付随していたら、もう何も言うことはなかった。デスクトップモニターに表示されたPDFを見ながらハリーと云々していたら、次第に距離が縮まってくる。空調が効いた執務室で、いつの間にか肩が触れ合い、頬を寄せるような位置になり、遂にはデスクに手を付いて身を乗り出す姿勢で、画面を覗き込む。 「違うよヴァル、もう少しスクロールして」  最初、エリオットは自らが口走った言葉の意味を理解していなかった。はっきりと認識し、しかもそれがまずい事態だと悟ったのは、こちらをまじまじと見つめるハリーの表情が、にんまりしとした笑みに変わってからの事だった。 「とうとう彼とヤったのか!」 「ヤってない、変な勘繰りはよしてくれ」 「隠さなくても良いだろう。そりゃあ、あんないい男と一つ屋根の下で暮らしてたら必然さ。僕なら同棲したその日の晩にモーションを掛けてる」  咄嗟に身を逸らしたらネクタイを掴まれ、力任せに引き寄せられる。ヒューゴ・ボスのお気に入りが皺だらけだ、ヨルゲンセンも似合うと言っていたのに……彼はエリオットが何を着ても「君はセンスがいい」と褒めた。休日に彼が着る服を選んでやると、それは嬉しそうな顔をする。それだけ人との繋がりに飢えていたのだろう。余りにも可哀想だ。可哀想だと、可愛がりたくなってしまう。 「ハリー、本当に起こったことを、ありのままに話すからよく聞いてくれ。私たちの関係は現在何とも名状し難い。この一年で目に見えて回復してきたが、彼はまだ精神が不安定だ。彼と一つのベッドで横になり、彼が寝付くまで話をする。兄弟みたいにね。手を握ったり、ハグしたり、身体に性的な含み無しで触れる事もある。いいかい、彼は寂しいんだ。そして多分、私も少しだけ、素朴な人間性が恋しい時期に突入してる」 「素朴だって? 話を聞いている限り、君達の関係はかなり特殊なように思うが……彼の目的は? 君、利用されてないよな」  顎に手を当てて思案していたのはほんの短い間だけ。やがて、エメラルドの瞳がぱっと元気に持ち上がる。 「それで、僕とのファックは止めたい?」 「止める必要は無いと思う。彼はこの関係を知っている。君は嫌かい」 「僕は君の意見を聞いてるんだぞ、戦略官……いや、戦略的な話じゃ無いな。人間として、エリオット・ファーマーの気持ちを教えて欲しい」  私の気持ちか。今度はエリオットが考え込む番だった。  多分、というかほぼ確実に、ハリーは知っているだろう。世の中には、精神と肉体を然程連動させないで生きていける人間がいる。或いは、複数の精神軸で、1つの肉体を使い分ける事のできる人間が。  自分で考えておいて、さながらシリアル・キラーの釈明じみているが、実際そうなのだから仕方がない。ハリーは可愛い。ヨルゲンセンも可愛い。多分この2つの感情は、脳の全く違うところで発露したものだ。  普通の人間に言ったらひっぱたかれるか、警察へ通報されそうな弁解でも、目の前の男にだけは非難される謂れがない。まるで靴を選ぶような感覚で、部下の男達を取っ替え引っ替えして愉しむイーリング市初の市長。彼は自分の身体へ押し入ってくる誰もを愛している。  彼の下で働くようになって以来、この感覚が異常なのだと意識したのは、そう言えば初めてかも知れない。全く笑えてくる。そこまで夢を見ていたのか、猛然と妄信していたか。  けれど、別に覚める必要はない。寧ろ一生夢を見続ける事が、これを現実だと信じ込み続ける事が重要なのではないかと、エリオットは近頃頓に思うようになっていた。  人差し指の背で頬を撫でてやりながら、じっと待ち構えるハリーの目を覗き込む。 「だが、私は君の戦略官だ。まず君の意見を聞くところから始めるのが仕事だよ。君はどう? 私が他の男とベッドを共にするのは嫌?」 「嫌じゃない……別に、全然気にしない」  目を細め、今にも喉を鳴らしそうな口調で、ハリーは返した。 「知ってるだろう。僕達は似たもの同士だ」 「いいや、寧ろ真逆だと私は思うよ。君は手に入るものが全て欲しい。私は必要だと思ったものを全て手に入れる、それ以外はいらない」 「今更ミニマリスト宣言か? 引退したらサプールになるとか言ってた癖に」 「このままじゃ、生涯現役になりそうだ」 「下半身もそうである事を祈ってるよ。あの元陸軍少佐の為にもね」  猫と同じく、ハリー・ハーロウはただ甘えるだけの生き物ではない。キスを強請ろうと項に回された両手の指先が、カラーの隙間から潜り込んで軽く掻く動きをする──いや、結構本気で爪を立てられた。エリオットの唇を噛む時も、口元は確かに笑みを浮かべていたが、前歯はしっかりと肉に食い込む。 「君のことを逃してやる気はないよ、悪いけど」 「男冥利に尽きるね」 「勘違いしてるな、追われているのは僕じゃない。君の人生を滅茶苦茶にした後、栄光へと引きずり上げてやる」 「それはこちらの台詞だよ」 「信じてないだろう」 「信じているよ、可愛いハリー」  愛情を──少なくともエリオットが愛情と呼ぶものを──募らせれば募らせるほど、舌の根も乾かぬうちに唇が嘘を紡ぐ。悪意ではなく、冷静さ故に。「どうでもいい」なんて言葉の凶暴さを知っているから、敢えて口にはしないが。  もはやそんなもの、とっくに超越してしまっている。時計を見れば17時直前。今日は遅くなると、ルームメイトに連絡を入れなければ。そう頭の片隅で考えながらも、エリオットは深まる接吻を受け入れた。

ともだちにシェアしよう!