17 / 25

※市長オフィス・ウィズ・ヴェラスコ その1

 マレイの流し目は、もはや明確にこちらへ向けられる。大概は素知らぬふりを貫き、時に微笑みかけ、稀に情報を流してやり(エリオットやゴードンと示し合わせた、箸にも棒にも掛からない話や、警告を兼ねたブラフだ)また似たようなネタを貰う。  ハリーが気付いたのはいつだろう。相当早い段階だったのではないか。 「彼に抱かれたのか。あれだけ嫌がってた癖に」 「抱かれてませんよ。ただ二重スパイの真似事をしてるだけです」  モーのパソコンを借りて文章を入力し続けながら、ヴェラスコは相手と同じ気楽さで言葉を返した。定例記者会見の原稿は今日中にハリーへ渡さねばならない。15時提出、とリマインダーにはあったが、他ならぬマレイの秘書官と話をしていたから、現時点で既に1時間ほど押している。  余計な気遣いと塩辛い料理で顔が浮腫みやすくなったからと言って、業務が減らされた訳ではない。最近休日の晩はパックして寝てるんです、と言えば、カウチに腰掛けていたハリーはそっくり返る勢いで笑った。 「ここのところ、あのおっさん、市長選への野望を一切隠さなくなってきましたよ」 「こちらへ圧力をかけてるつもりなんだろう。気が早いな、選挙活動開始まで後一年以上はあるのに」  予想はしていたが、出来れば在って欲しくはなかった可能性を目の前に突きつけられても、ハリーは呑気なものだった。コーヒーを取りに来たとの名目で、彼がここへ居座ってもう20分。マグカップの中身は禄に減っていない。 「一年あれば、親愛なる多数党院内総務殿を口説き落として翻意させられると思うか」 「口説くと言っても言葉だけじゃないんでしょう」 「だって彼のあのギラついた目……無意識だろうから、余計にタチが悪いな。時々、ぞくっとなる事があるよ」 「止めてくださいね、本当に」  くそっ、仕事も禄に出来ない癖、OA機器がやたらと綺麗なのがムカつく。ヴェラスコと違い、モーはタイピングしながら屑の散る菓子を食べたりしないか、或いはこまめに掃除をしているのだろう。これだから軍人は。間違いやすい仕事は付箋に書いて張り付け、見えるようにしておいたら、というヴェラスコのアドバイスを受け入れている様子はないらしく、モニター周りもすっきりしている。お陰で画面の向こうで、愉快そうに細められたハリーの目とばっちり視線が噛み合った。 「君ももう、知ってるだろう」  彼が席を立って、そのまま執務室へ戻ってくれることを願っていた。だが市長がしたことと言えば、オフィスの扉の内鍵と、ブラインドを閉めるだけ。そのまま当たり前の如くこちらへ歩み寄ると、膝からデスクへ乗り上げた。文房具も全部引き出しに片づけておくという、本来の席の持ち主の癖のお陰で、どっしりとした体躯を阻むものは何もない。メモ帳もペンも置いておかないなんて、あの男が電話応対もまともに出来なくて当然だ。  ぎしりと軋むスチール製のデスクなどお構いなしに、ハリーは四つん這いのまま、一歩こちらへとにじり寄った。 「最近の様子を見ていて分かった。君、実は信じられない位マゾヒストだな」 「どちらかと言えばサディストだって周りからは言われるんですけど」 「知能指数の高い人間は多かれ少なかれ、服従に対する快楽へ敏感に反応しがちなものなのさ」  顎をくいと掴まれ、真っ直ぐに目を覗き込まれる。素っ気ないふりを貫こうとした努力は徒労に終わった。眼差しは自然と、突き上げるようにされた大きな尻を、相手の肩越しにまじまじと鑑賞してしまう。ここのところご無沙汰で、正直なところ溜まっていた。 「君はマレイのあの色目にすっかり感服して、思ったはずだ。手強い存在はただ打ち破るだけに存在してるんじゃないとね」 「ええまあ、上手く懐柔できるなら言うことなしですが」 「そうじゃない、そうじゃないことは分かってるだろう、ヴェラ」  嫣然とした微笑が浮かべられたのは、欲情の匂いを嗅ぎ当てた証拠だ。  両耳を手のひらで覆われ、咄嗟の理解が追いつかなかった。お陰で「なにを」と疑問を放とうと無防備に開いた口へ、捩じ込まれる舌の侵入を許してしまう。  ぐじ、と生々しく下品な水音が、鼓膜を直に震わせる。己の舌を巻き込むようにして、上顎を舐められた。五感へ満遍なく反応するはずの意識が、聴覚へ一点集中させられている。悟った時にはもう遅い。    柔らかい唇の感触も、上がった体温から弾けるように発散されるフレグランスのマリン調なミドルノートも、確かに感覚器官は拾っている。けれど、じゅる、くち、と蹂躙される音が。脳を揺さぶる。シナプスが待ちかまえ、この刺激のみを捉えては、頭の中が一杯になるまで埋め尽くしてしまう。  何とか反撃しようとしたが無駄な足掻きでしかなかった。ハリーはキスが途轍もなく上手い。水気の多く分厚い舌は、相手の反応に合わせて動きを変えてくる。今もヴェラスコが気持ちいいと感じる舌の側面を自身の物と擦り合わせたかと思えば、身を震わせた途端ぱっと逃げていく。そのまま前歯の付け根をぐりっと舌先で抉られ、あ、と吐息を漏らした隙を逃さず、湧き上がる唾液を啜られ、そして飲み込まされた。その間も、ちゅく、べちゃりと泡立つような音が反響し続け、早鐘を打つ心臓は今にも破裂しそうだった。  一瞬で汗ばんだこめかみに張り付いた前髪を、掻き上げられる指先にすらぴくりと肩を跳ねさせてしまう。硬直したのは、彼の手がそのままこちらの股間に触れてきたからだ。勃起していることは、もはや言い逃れのしようがなかった。 「今日は僕に任せてくれ」  まだくらくらしている頭では、耳打ちの内容をはっきりと理解することが出来ない。ぼんやりと見上げれば、ハリーは今まで見たことない形で唇を湾曲させた──いや、この表情をヴェラスコは昔から知っている。法廷で言葉に詰まる相手側の証人を前にした時の横顔だ。輝く緑の瞳は猛烈なアドレナリンの放出で瞳孔が散大し、まるで森の奥のような深く恐ろしげな色に変わる。獲物ではなく、狩人の側に立った男の顔だった。 「いいね、ヴェラ」  頷くなんて選択すら与えられない。もう一度触れられた時は、ちらと舐められ啄むような甘ったるい接吻だと思っていたのに、間髪入れずじわりと下唇へ歯を立てられる。気持ちいい。これはまずい。理性は間違いなく警鐘を鳴らしているのに、ヴェラスコは肘掛けにしがみついたままの指一本すら動かせなかった。  宣言通り、ハリーは普段ヴェラスコがすることを何一つやらせてくれなかった。応接セットの3人掛けカウチでするのはこれが初めてではない。背もたれのお陰で、余り激しく動けないと以前から思っていたのが、今回見事に裏目へ出る。  シャツを脱がされ、露わとなったヴェラスコの上半身に、ハリーはくまなく愛撫を与えた。頸動脈の走る、服を着ても見えるところへわざと鬱血を刻まれ、そのまま顎へと舌を這わされる。軽く跳ね上がった足は、太腿の上へ跨がられているせいで全く抵抗の役割を果たさない。2インチ以上は間違いなくある身長差は思ったよりも遙かに相手へ有利に働く。今までは、彼が譲歩していたから好きに出来たのだ。その事実が焦燥を生み、やがて興奮を伴う緊迫へと変質する。  ちゅ、と音を立てて胸元に接吻された時には、「待ってくださいよ」と身を捩り抵抗したが、ハリーは上目の一瞥を投げかけて意に介さない。寧ろ頭上でまとめるようにして押さえ込まれた手首への圧が、一層強まっただけだった。  以前からちょくちょく弄られていたが、少し腹がむずむずするような瘙痒しか感じたことがなかった。それが今、芯を持った乳首の側面に唇を当てられると、くすぐったさが凌駕される。既にスラックスを突き破りそうなペニスが、ぴくりと反応を返した。信じられないことだが。 「ぅあ……ちょ、それっ……んっ……」  信じられないと言えば、ここを愛撫されて次々に生まれる快感の大きさだった。凝りを促すかの如く吸い上げられ、噛み解すように歯を立てられると、今まで感じたことのない、怖気に似た感覚が背筋を走り抜ける。この甘ったるい声を出しているのは僕か? 喉が引き攣れそうに乾くのと裏腹、口角からはつっと唾液すら溢れるほど感じ入っているにも関わらず、意識は完全に理解を拒否する。 「ひ、だめですって、ぇ、ハリー」 「駄目じゃない。気持ちいいな、ヴェラ?」  いつの間にか手の拘束は外され、反対側の粒も赤く充血するまでゆっくりと扱かれていた。剥き出しになった神経を直に触られているようで、正直辛い。  もはや苦痛を感じることすら無駄なのかもしれない。快楽を享受することに、脳の容量が全て使われているこの状況なのだから。

ともだちにシェアしよう!