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地獄からの使者!
「このコロナ後のご時世に……と言うか、21世紀に入ってから、遊園地で水飲み場なんか使う人間いないでしょう」
「これは誠意だよ。遊園地で買うコーラがぼったくり同然の値段である事に対する……外部からの持ち込みも禁止だったよな?」
「そこは交渉で何とか出来ます。大体、そんなもの設置する位なら、トイレを増やした方がよっぽどいい」
こちらを振り返り加勢を求めるゴードンの出立を見遣り、エリオットは肩を竦めた。臙脂やワインレッドではない、赤い、血よりも赤いスーツ、多分ヴェルサーチ。この日の為に購入した訳ではなさそうだ。よくこんな服持ってたなと思わず感嘆の溜息が漏れる。
「確かに、昔の遊園地には必ず水飲み場があったね」
ハリーはそれ見たことかとゴードンに指を突きつける。幸いスパイダーウェブが飛び出してくることはない。恐らくマスクの下では、満面の笑みを浮かべていることだろう。
真っ赤なスーツの男に対峙するスパイダーマン。コミコンへ行くような玄人が愛用する店の通販で買ったらしい。最近のコスプレ用品の質の良さは目を瞠らんばかりだった。執務室の柔らかい明かりに照らされても、合皮と化繊の組み合わせは安っぽさを感じず、縫製もしっかりしている。生地の発色は鮮やかだ。何よりも、がっしりと引き締まった体躯は、ぴったり身体に沿い、輪郭を露わにする衣装を堂々と着こなして見せる。
「どんな格好かは当日のお楽しみ」なんて言っていたから、星条旗模様のスーツでも買ってくるのかと噂していた。いや、1人モーだけが「もっとくだけた、仮装とかかもしれません」なんて言っていたので、もしかしたら事前に相談を受けていたのかも知れない。
素っ頓狂な出立ちでも許される。ディーン副市長の誕生日パーティーでは。ルールさえ守っていればいい。今年のテーマは「赤と青と白の舞踏会」、恐らく昔ニューヨークであった、伝説のパーティーを捩ったのだろう。
去年の「ホラー」では彼女自身、エルヴァイラも腰を抜かすような派手なゴシック調メイクとうず高く盛り上げたヘアスタイル、胸と脚を大胆に見せる黒いドレスで迎えてくれた。この日ばかりは右も左も関係なく、目立った者が勝ちだ。せいぜい派手な装いをして、報道陣に写真を撮られまくればいい。
「スパイダーマンとは考えましたね、少し子供っぽいようにも思えますが……同じ赤青白でも、キャプテン・アメリカにすれば良かったのに」
「キャップだと共和党員みたいだから」
「口の部分は? 水分を摂らないと熱中症になるからね」
「大丈夫、ほら、上手く隙間があるんだ。ストローを貰うよ。それにどうせ、あそこは夫婦揃って更年期だから、いつも通り凍える位冷房が効いているさ」
ハリーが腕を上げて、マスクの口元にあるスリットを捲って見せている間に、モーは甲斐甲斐しく脇の下の皺を直してやる。最近彼が、忠実を通り越してイエスマンになっていないかと周囲の懸念はあるが、エリオットはさして心配していなかった。これからますます、他の側近達はハリーに対して口喧しくなるだろう。となると、止まり木は頑丈な位が丁度いい。
「チャックを上げますよ」
「やれやれ、本物のヒーローはどうやってこんな動きにくい格好で、あんな激しいアクションをしてるのかな」
命じられるまま従順に頭を押さえ、ハリーは声を弾ませた。
「それにしても、ブライズの驚く顔が早く見たいよ。彼女、絶対僕の身体は魅力的だと思ってるだろ?」
「そうだね。スタンは鯨みたいな腹をしてるから」
最後の仕上げ、じりじりと背後のチャックは閉じられ、肉体を封じ込める。後頭部の湾曲で突っかかったのだろう。モーは金具をつまむ指に力を込め、ぐっと思い切り引っ張り上げた。
ぶちん、と固い音が響いた瞬間、その場にいた誰もが最悪の事態を見ずとも理解した。やらかした本人が、最も現状を飲み込めていなかったに違いない。
手の中に残る、ちぎれたファスナーのつまみを呆然と見つめていたモーはだが、持ち前の回復力の早さをしっかり発揮する。
「ドライバーを取ってきます」
「な、なんだ、もしかして壊れたのか?!」
ドアへと走る秘書の緊張しきった後ろ姿に、ハリーは声を上擦らせる。
「残念ながら、そうらしいね」
きょろきょろと、見えない位置にあるファスナーを見ようと振られるハリーの背後に周り、エリオットは事故現場を覗き込んだ。
「ああ、これは酷い」
「今と全く同じ事になってるネタ動画を、TikTokで観ましたよ」
おっとり刀で駆けつけて来たゴードンは、明らかに事態を面白がっている。
「あれもスパイダーマンの衣装だったな」
最後までチャックが噛み合った状態で壊れたことは、いっそ救いだろうか。コミックでも、映画でも、ピーター・パーカーはいつだって三枚目的な役回りだ。フィクションだと笑って楽しめる話でも、現実だと絶望でしかない。普段から楽観主義を認じているハリー本人ですら、さながらスパイダーセンスが強烈に反応したかのように、頭を抱えている。
「何グズグズしてるんだよ、モー。そろそろ行かせないと遅刻じゃないか」
己のデスクで忙しなく立ち動くモーの立てる、どたん、がしゃんと騒々しい響きに、ソファで待ち構えていたヴェラスコが胡乱げな声が重なる。本来は彼がハリーとパーティーへ行く予定だったのだが、仕事が溜まっているとか何とかごねて、ゴードンが代打を務める事になったのだ。
「緊急事態だ、市長の衣装が壊れて中に閉じ込められた」
「はあ?」
身を傾け、開きっぱなしのドアから様子を覗き込んだ時、童顔に似合わない眉間の皺は益々深くなる。
「何だあれ、ボンデージ?」
結局一際大きな破壊音を響かせた後、モーは文具一式を、入っていた引き出しごと抱えて駆け戻って来た。
「ドライバーは無かったので、何か代わりになるものを」
「何で金槌常備してる癖にドライバーは無いんだよ、そっちの方が絶対使用頻度高いだろ」
「もういい、ゴーディ。壊すのは帰ってからにしよう」
恫喝するゴードンを手で制し、ハリーはずれていたマスクの頬を引っ張って、目の位置を直した。
「脱げない事を除けば仮装は完成してる、このまま行く」
「だが、その状態だとトイレにも行けないよ」
「何も飲まずに我慢するさ」
エリオットは素早く行動した。引き出しの中から掴み出した鋏を入れたのは、薄くて伸縮性が高い、化繊を使われている肘の部分だ。ざくざくと刃で切り裂かれ、ハリーは尻尾を踏まれた猫じみた悲鳴を上げた。
「やめろ、エル!」
「ハリー、諦めよう。こんな事を言うのは申し訳ないが、やはり市長が着るのに、ヒーロースーツは卑猥だ。ボディラインが出過ぎている」
「もっと安っぽくてピチピチの衣装を着てる客なんか一杯いるさ。君は過保護すぎるよ……今腕の毛を切っただろ」
「すまない。くそっ、固いな」
流石専門店の品、フェイクレザーは頑丈で、なかなか鋏が入らない。ぐいぐいと、生地と肌の間に突き入れて動かしていれば、モーが「市長が怪我します」と慌てて制止する。彼が切れ目の入ったレザーを両手で握り、腕まで一気に引き裂いた時には、流石にハリーも言葉を失ったし、周囲も思い切り慄いていた。
結局、顔だけ残してスーツを着る事に(スパイダーマンは亜種が数え切れない程あるから、中にはそう言うキャラクターもいるだろうと無理矢理説き伏せた)びりびり、じょきじょきと体に張り付く生地を皆で破いていたら、不意にゴードンがくすくす笑いを漏らす。
「しかし、今のエルの焦りっぷりは傑作だった」
「最悪さ、全く」
ぶすっとした口調で、直立不動の姿勢を取らされたハリーが呟く。
「僕は大丈夫だった」
「明日のイーリング・クロニクルの一面が、脱水症状で担架に乗せられて運び出される、漫画の主人公の格好をした君の写真になっても良いならね」
「本当に過保護だ、子供扱いして」
後ろへ跪き、背面の特に大きな人造皮革をべろりと捲るエリオットへ首を捩りざま、まさしく赤ん坊じみたむずかりが上げられる。
「これからママって呼んでやる」
「せめてパパにしてくれないか」
脱衣はようやく半分ほど、この調子なら車を飛ばしても少し遅刻になるかも知れない。「ヴェラ、君も手伝ってくれ」エリオットの呼びかけに、だらけた物腰で部屋へ踏み入れた足の動きを、ヴェラスコはすぐさま止めた。
「うわあ、エグいパンツ穿いてますね」
恐らく衣装に下着の線を出さない為だろう。いつもは身につけないTバックの扇情的なショーツに、エリオットはその時まで気付かなかった──鼻先が触れ合うような位置に突きつけられている、巨大で張りのある尻は何にも包まれず、全く剥き出しだったと言うのに!
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