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深夜の告白

 最初のシンクタンクに入社したとき、上司に「君はこの業界に向いている」と言われた。「誘惑への克己心が強いからね」それがあの界隈に付き物だった、客体化された女性に対する反応という意味だったなら、当然だ。カミングアウトしていなかったと言え、エリオットは己の性的指向を確立していたから。  だが実のところ、話を誘惑全般に拡大しても、彼の指摘は当てはまるのかも知れない。無論魅力的なものには惹かれる。ただ少し、催す反応が人とは違うだけ。  市長付職員のオフィスに仮眠用ソファを置こうと言い出したのは誰だったか。犯人探しをしても始まらない。結局ここを用いる全員で200ドルずつ出し、アウウトレットで合皮の安っぽい品は買い込まれた。  誰か仕事中に潰れて、この時間まで起きられなかったようだ、なんて楽天的な考え方を、勿論エリオットはしない。ご丁寧にも、デスクランプは己の席のだけが点けられて、仄かな明かりが美しい筋肉の輪郭を舐めるよう浮かび上がらせる。部屋に漂う、普段なら自らが嗜む電子煙草のメンソールを含んだ紫煙。そう、今日は偶々、デスクに忘れてきた。おかげで息抜きが、少し物足りないものとなる。  色々と募らせて戻ってきた深夜1時、オフィスのカウチへ一糸纏わぬ上司がしどけなく横たわっていて、おまけに人のジュールを吸っている。現代のフィルムノワール、ミントの中からスイカズラの香りがしてきそうだ。 「お帰り。仕事は順調だった?」 「ああ」  こういう場面で、レイモンド・チャンドラーの小説の主人公ならどうするだろう。こうやって何気なく顎をくいと掴み、それから素っ気なく手放してデスク前の椅子を引く? 「君の方は。今日はそれほど立て込んでいなかったと記憶しているけれど」 「まあね。つまらない会議、つまらない慰問……いや、あれは興味深かった。あの通所型介護施設っていうのは、なかなか良いな。チャイナタウンの外にも広がればいいと思うよ」 「トーニャが聞けば喜ぶだろう」 「セックスも面白かった。ヴェラの奴、この前ちょっと懲らしめてやって以来、躍起になっててね。執務室の椅子が壊れるかと」  君にも見せたかった、と愉快そうに喉を震わせる姿は、けれど妖婦と呼ぶには、少し無防備すぎる。邪心もない──いや、ファム・ファタールの半分は、悪意なんて微塵も抱かないまま、男を籠絡するものだ。  起動したパソコンでメールフォルダを開き、未読分を確認しながら、次の言葉をのんびり待ちかまえる。正直、少し疲れたから、あまり能動的に構ってやるのが億劫だ。更に素直になれば、酒でも欲しい。美味いスコッチでも。  ふーっと格好付けた息の音と共に、メンソールの芳香が濃くなる。素肌と合皮が擦れる音がして、ちかっと背後が明るくなったのは、コーヒーテーブルに乗せたスマートフォンへ手を伸ばしたからだろう。 「それで……さっきインスタグラムを見た。ここのところ毎週抗議活動に来ている、ええっと、『イースト・アメリカン・コート・ブッシュ・アニマル・ライツ』だっけ、長い名前だな。あそこの代表達が反ワクチンの集会に参加して、インタビューを受けている動画、じわじわ拡散されてるな。あのカナダの、女性蔑視主義的な大学教授のセミナーでの写真も。これはガセじゃないのか」 「全部本物だよ。セミナーの方は反ワクチン仲間の付き合いで行っただけで、今は関わりがないらしいけどね。だが調べもせずのこのこ赴いた迂闊さが非難されるべきなのは変わらない」 「手厳しいな」  そうやって絡め手で攻勢を仕掛ける態度を、優柔不断と笑うことは簡単だ。けれどハリー・ハーロウは、かつてこの街で(例えニューヨークやシカゴと比べ然程大きくない街だと言え)敏腕弁護士として鳴らしていた。賢い法律家は弁える。だから彼が何か判断を下したならば、尊重しよう。過度に甘やかしてもやらないが。 「エル、そっちに行っても?」 「一枚でも服を着たらね」  いや、十分甘やかしているか。かつて働いていた職場の同僚が今の様子を目にしたら、顔を顰めるに違いない。  ごそごそと身じろぎの後、裸足の足音が近付いてくる。ハリーは本当に、一枚しか服を身につけなかった。それがワイシャツだとしたら、十分譲歩したと捉えてやるべきだろう。これ見よがしに指先へぶら下げていた下着を、デスクへぽとんと落としてみせたとしても。  椅子を回転させ、向き合ったエリオットの顎を掴み、ハリーは接吻を与える。先ほどやられたことを倍返ししたに過ぎない。軽く吸うだけで離れていった唇へ残る紫煙。自らは冷たいと感じるそれは、彼に含まれると甘さが勝る。 「彼は……彼女かな。仕事が早い」  ここまで露骨にほのめかす癖、プリーズやテルという単語は、意地でも口にする気がないらしい。熱っぽい吐息で濡れた粘膜を叩かれれば、エリオットが幾らかは心を動かすと熟知している。唇が艶やかに弧を描いたのを、触れ合う粘膜で知った。  布越しに手を腹へ当てたら、くすくす笑いで肩が揺れた。空調が十分に利いている室内は、蒸し暑い外から戻ってきたエリオットですら汗が引けば肌寒さを覚える。全くやんちゃだ。そっと撫でさすりながら、エリオットは頬に宥めのキスを与えた。 「冷やしたら腹が痛くなるよ」 「母親みたいな事言って」  そうぼやく割に、身は益々乗り出される。 「んー……でも、君の手は気持ちいい」 「おいで、赤ちゃん」  取った手を引いてやれば、大人しく膝の上に座り込む。再び温めるよう、庇うよう臍の上へ触れる手つきに、労り以上の意味が込められることは無いと、遂に認めたのだろう。背中に回される腕へ素直に身を任せ、肘置きに乗せた素足をぶらつかせる様子は、先ほどまでの蠱惑的な態度が嘘のように屈託ない。 「私は陰謀論者ではないけれど、ハリー。リチャード・ニクソンはウォーターゲートについて、実際のところ、どこまで関与していたと思う?」 「君の言いたいことは分かってる。どこまでの関与でしかなかったと見なされれば、彼は許されたか、だろう」 「その通り」 「大衆は一点の染みも許さない。もしも君に悪評が立てば、僕も地獄へ道連れだ」  最悪の仮定は、優しげな笑い声すら立てながら口にされる。 「ここは小さな街だからね」 「大丈夫、いざとなったら、私を切って、知らぬ存ぜぬを通せばいい。私は余所者だから、簡単だよ」 「そんなこと言うな」  首に腕を回し、ハリーはエリオットの肩に頭を預けた。   「僕が君に求めている責務は、君にしか果たせない。他のどんなアナリストでも駄目だ」 「光栄だよ」 「茶化さないで聞けってば。僕は馬鹿じゃないし、君が思うほど善良でもない。役割を持たない人間を側に置かないよ」  腹に置いた手を、あやすかの如く軽く叩く動きに変えれば、ハリーはうっとりと目を細めた。 「君は僕の優しい影、黒い物を全部飲み込んでくれる。ゴーディのあの猛々しさに、僕の闘争心は掻き立てられる。ヴェラの上昇志向は、思い出させてくれるんだ、理想を貫くってことがどういうことか」 「今は迷走しているがね」 「もう折れるさ。彼も大人なんだから」  指へ指を絡めながら、そう呟く滑舌は普段より鈍い。体温が高くなり、閉じられた瞼も陶酔から純粋な微睡みへと移行しつつあった。 「そう言えば、モーは?」 「え、モー……彼は、観賞用兼、僕のファン……」  ぐりぐりと頑是無い仕草で目を擦り、欠伸まで漏らす始末だ。日々の疲れは間違いなく、肉体へ蓄積している。早く上がる事など幾らでも可能な日に、ちょっかいを掛けようと待ちかまえていた彼が、途方もなく愛しい。不意にエリオットは、そう思ってしまった。 「今度、彼を家に呼ぼうと思うんだ……少し、絆され過ぎるかな」 「君が? それともモーが?」  深く穏やかな息と共に、ハリーは言葉を吐き出した。「気になるか」  エリオットは望まれるまま、全てを飲み込み微笑んだ。 「いいや、君の好きにすればいいよ。彼の忠誠心が深まることはあれど、君から離れていく結果にはならないさ……それに、君が彼へ心を開くことも、間違っていない」 「それを聞いて、安心した……」  あの図体の大きい秘書ならば軽々と抱き上げられるのだろう。寝息を立て始めたハリーを起こさず移動させるのは、エリオットにとって骨の折れる作業だった。結局、床へ落ちていた上着を腹へ掛けてやり、そのままデスクへ向き直る。  SNSのお祭り騒ぎを己の目で確かめると、眼鏡を外し、眉間を揉む。取り敢えず、今週の週末は市庁舎も静かになる。が、所詮一つタスクが片付いただけ。  影は明るい光の下でこそ目立つが、夜になれば闇と同化する。今のうちにやるべき事は、幾らでもあるのだ。

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