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※ベッドルーム・ウィズ・モー その1

 窓から差し込む夜の光が、後部座席に鎮座するハリーの横顔を、次々に照らし付ける。ファストフード店の電光看板が放つ軽薄な赤と黄色、ガソリンスタンドの無機質なブルー。街灯の血の気が引いたような白。普段の彼ならバックミラー越しに、視線を合わせる事へ積極的だが、今は去っていく輝きを漫然と眺めているだけだった。会話もない。基本的に口数の少ないモーですら、少し気詰まりに感じてしまうほど、重苦しい沈黙で満ちている。  車が動き出して以来、市長の緊張はひしひしと迫り、まるで質量を持って背後から覆い被さってくるかのようだった。「僕の家で飲まないか」と誘われたのは初めてのこと。君以外でも、この職に就いてからは、と、市庁舎のある区画を抜け出してすぐに、ハリーは白状した。    一年半と少しの多忙な日々で、彼が男を家に連れ込む方法すら忘れてしまったとは思えない。寧ろこれまでしてきたデートと言うデートの概念が吹き飛んでしまっているのはこちらの方だ。どういう顔をして上がればいい? 彼のプライベートな空間に。ティーンのような煩悶が自分でも情けない。 「何か飲むものを買っていきますか」 「いい。家に幾らでもある」  酷く抑揚の薄い、干上がった喉から出しているような声で、ハリーは答えた。滅多に行使されない市長の送迎という役割を仰せつかったモーが、今夜ハンドルを握って以来初めて、エメラルドの瞳がこちらへ向けられる。 「君は? 何かいる?」 「いえ」  こう言うとき、気の利いた言葉を投げかけて場を和ませる才能というものが、己には徹底的に欠けている。返事を補強するために、モーは追い越し車線に入った。一刻も早くこの状況を打開するためなら、その次に待ちかまえている事への逡巡は棚上げしてしまおう。  とは言うものの、それほどゆっくりもしていられない。ハリーのコンドミニアムに着いた頃には、日付も変わろうとしている時刻だった。明日は土曜日と言え、2人とも登庁する。  普段は建物前に着いたらスマートフォンで連絡して降りてくるのを待つし、見送るときもエントランス前まで。彼の部屋のドア前までやってくるのは、これが2回目だった。初めては思い出したくもない。彼を無理矢理引きずり出して、望まない結婚をさせようとした。今度は自らが、彼に引きずり込まれる番だ。 「散らかってて悪いけど」  カードキーを押し当てるとき、ハリーはらしくもなく2回失敗してブザーを響かせた。招き入れられた居間は、言葉に反し整然としている。確かに本棚へ入りきらなかった単行本が床へ積まれていたり、部屋の隅に出張先で貰ったらしい、企業のロゴが入った手土産が紙袋のまま置いてあったり。その程度のものすら無いと、家具付きの空室かと勘違いしてしまいそうなほど生活感のない空間だった。 「酒はそっちの棚に。好きに飲んでくれ」  こちらを振り返りもせず奥のシェルフを示した指は、次いで奥にある部屋を指す。 「寝室に行っててくれてもいい……僕は先に風呂を浴びてくる」  彼がバスルームへ籠もって20分程の時間が最後のチャンスだった。なのに結局モーは、冷静さを取り戻せないまま、バカラのグラスに注いだバーボンをちびちびと舐めている。ベッドへ腰掛け、途切れることのないシャワーの水音に耳を澄ませていると、頭以外の場所も熱くなって堪らなかった。  寝室は居間と同じく、これまたシンプルな部屋だった。ベッドはダブル、頑丈な木製で、水色のシーツには皺一つない。先ほどまで身につけられていたシャツと靴下、下着が、他の汚れ物と一緒にランドリーボックスに突っ込んである様だけが、この部屋の主の存在を示すよすがだった。  それと、壁に貼られた映画のポスターも。ピアース・ブロスナンが演じた007。日焼けし色褪せた印刷や、押しピンで壁に直接留めてある扱い方も相俟って、その俗っぽさがこの部屋の清浄な空気へ余りにもそぐわず、面白い。 「モー?」  ぼやける音程で、そう何度か呼びかけられていたことに対する反応が、かなり遅れてしまう。慌ててグラスをナイトテーブルに置き、バスルームに駆け込んだ。 「ハリー、どうしました」 「いや、別に」  ほんの少しだけ開いた青いシャワーカーテンの向こうから届けられる声は、止まらない流水音を差し引いたところで、胸を殴られたかと思うような衝撃をモーに与える。 「一緒に入らないかと思って」  狼狽えたモーが後ずさる隙も与えない。にゅっと伸びてきた手にネクタイを掴まれる。頭を突き入れる格好へ思わず声を上げる前に、唇を押し当てられていた。  いきなり舌を差し込む性急な口付けから、辛うじて離れるまでに10秒。「待ってください、服を脱ぎます」  既に額へ張り付いた髪からは生ぬるい水が伝い落ちているし、ワイシャツはずぶ濡れ。挙げ句の果て、逃げる際シャワーヘッドへ頭をぶつけたものだから、あはは、とハリーは、今晩初めて屈託ない笑い声をあげた。    既にハリーは身を清めた後らしい。鼻先を押し当てた項には、涼しげなボディソープの匂いが残っている。「洗ってあげようか」と言われて流石に固辞したら、「なら君は洗わなくていいよ。君の匂いは興奮する」と言いながら、ぐっと背後へ凭れかかり、尻を下肢へと押しつけられる。 「香水が流れますね」 「香水? ……ああ、確かにあれも好きだけど、君自体の」  甘えるように喉元へこめかみを擦り寄せられ、すん、と小さく鼻を鳴らされたら、流石に赤面する。 「人間、他人の体臭に対して本能的な好き嫌いを感じるものらしい。僕にとって、君の匂いはきっと、遺伝子レベルで好感を持つものなんだろうな」    そこまで言われた後で「幾ら何でも熱に浮かされ過ぎだ。少し頭を冷やしたい」とはにかまれても、ブレーキを踏む気にはとてもならない。浮かされる位で丁度良いでしょう。これからもっと熱くなることをするんですから。そう言い募ることはせず、モーは掴んで導かれるまま、ハリーの胸に手を置いた。 「あ……」  既に固く尖っている胸の先端に指先で触れると、溜息のような喘ぎが唇から零れ落ちる。閉鎖的な空間で音が反響し、生活スペースにはたちまち淫媚な空気が満ちる。   「んっ……モー……」 「はい、ここにいます」 「それ、きもちいいから、もっと」  こね回され、根本を爪で軽く引っかかれ、拙いながらもめい一杯駆使される胸への愛撫だけではないのだろう。己の声へ煽られたのか、ハリーはずりずりと、程良く締まった尻を、緩く勃起した男のペニスへ押しつけた。彼が望んでいるのは、一体どちらの刺激か。  多分、全てが欲しいのだ。とんとん、と押し込むように乳首を潰してやれば、顎を仰け反らせて背後を見やる。宝石よりも目映い潤んだ瞳へ、胸の奥を鷲掴みにされた。顎を掴み、顔を捻るような勢いで再び接吻を交わす。ぐち、ぴちゃと舌の絡み合う粘ついた音に、腕の中のハリーは肩を震わせた。 「あ、んんう、はぁっ」  今日の彼は、いつものしなやかな獣じみた余裕が嘘のように、最初から切羽詰まっている。眉を寄せ、乱れる息で喘ぐ姿は、生唾を飲み込んでしまうほど扇情的だった。それは間違いない。  必死に求めてくるその姿はけれど、モーの中の獣性ではなく、庇護欲を煽った。全身を打つ生ぬるい湯のせいだろうか。愛を向ければ向けられるほど、脳は曇るどころか、くっきりと目的意識に目覚める。胸の奥から湧き上がる慈しみは全身へ回り、歯ぎしりしたい程のエゴとなって血肉を漲らせる。  この美しい男は自らのもの。例え世界中の誰もが彼に手を伸ばしても、彼が己に預けてきたものは、絶対に手放してはいけない。守りきらねば、何を蹴散らそうと。  舌で上の前歯裏の付け根を擦り、はっと震えるような息と共に唇が開かれれば、上顎から更に奥を。舌を絡めることに必死で、ハリーは唾液もまともに飲み込めないらしかった。だらだらと顎を伝う粘り気が、すぐさまシャワーに流されるのが惜しい。不満を表すように、一瞬外した唇を顔の輪郭に当て、がぶりと歯を立てる。  びくっと跳ねた腹へ回していた腕を緩め、手のひらを下へと滑らせる。手入れされている性毛の感触を過ぎた先には、外からの要因ではなくしとどに濡れる、熱い屹立が震えていた。力強く握り締めて扱けば、肩へ回されていた腕が慌てて引っ掻いてくる。 「や、ぁ、っん、待て、ひっ、モー、今はだめだ、すぐ、イキそう」 「大丈夫です、何回でも出来ますよ」 「ふ、ぁ、ああっ、でも、今日は、ベッドがいい」  そうボスに懇願されて、あまつさえ緑の瞳で見つめられれば、逆らうことなど出来はしなかった。思わず低く唸って、最後にもう一度、噛み付くようなキスを求める。

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