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第2話

翌日、研究室に行く気にはなれず、直接講義がある教室へ行った。今日は二コマ担当している。午前中は研究室に行かなくて済む。 ふと、女子生徒の甲高い声が聞こえて視線をやると、音橋の姿があった。ほかの生徒よりも頭一つ分くらい背が高いので、遠くからでもしっかりと見える。女子に囲まれて、なにやら楽しそうに話している。 そうだよな、あいつだってモテルよな。顔は整っているし、背も高いし、髪もサラサラだし。ああやって普通にしていればいいのに、なんで俺なんかを・・・。 物思いにふけっていると、目があった。慌ててそらす。しまった、見ていることがバレた。荷物をそろえて急いでその場をあとにする。これじゃまるで、俺が、あいつを気にしているみたいだ。 🔷 「先生、俺の研究テーマなんですが・・・」 「え?ああ・・・・えっと」 教職員用のレストランで昼を食べ、午後は仕方なく研究室へ行った。もちろん、院生である音橋がテキパキと作業をしていた。 気まずい、しかし仕事をしないわけにはいかない。授業の資料も必要だし、自分の研究テーマも進めなくてはならない。 「銀杏の木の雄雌について調べてみるのもいいかなって。最近、銀杏のにおいを防ぐため、街路樹の銀杏はすべて雄株じゃないですか。それって人工的に作られた環境なので、生態系への影響と、あと、大きなテーマにはなってしまいますが、雄の雌化についても調べたくて。魚はありますよね、性別が変わること。人工的に雄だけ集められ続けると、個体を保存するために、銀杏の木も何か変わるんじゃないかと思うんです」 雄の雌化って、それ言う?昨日の今日だろ。俺を雌にでもしようとしてるわけ? 「そ、そうだね・・・おもしろいテーマだね。ただ、雄の雌化は進化の過程で起こることだろうし、誘発するにしても、院生の研究テーマとしては少し重いかな。それよりもこの間話していた、光合成量についての方が現実的じゃないのか?」 よかった。普通に話せている。そうだ、俺はこいつの先生だし、こいつもやらなくてはならないことはある。 一線超えて、おかしなことになってはいるが、お互い目を瞑ってやり過ごすことがいいに決まっている。 「そうですか・・・。んー、わかりました。光合成量の方でやってみたいと思います」 「ああ、いいテーマだと思う。まだデータも少ない分野だし、うちの設備でもある程度結果を出せるしね。俺も昔、少しやったんだよそのテーマ。データどこだったかな。まだ学生だったから。論文一つ書いたから、一覧にあるかな」 懐かしい。そういえば、大学で手に入る植物の光合成量をかたっぱしから調べていた時期があった。構内に街路樹、庭園、畑まであるからいろんな植物が手に入るのが面白くて、夢中になっていたんだ。 「あと、先生、今日夕飯一緒に食べませんか?」 「うっ・・・」 デジャブか。腰に回された手に体が硬直する。しまった、今はこいつと二人きりだった。ちらりと後ろを見る。開いている。ドアが今日は開いている。よかった、逃げられる。 いやまて、よかったのか?この状況を誰かに見られたらどうなる? 「商店街でいいお肉が安く手に入ったんです。ローストビーフ、先生好きですよね?」 耳元で話すのはやめてほしい。息が耳にかかってくすぐったい。 ローストビーフ、確かに好きだ。だがなぜこいつが知っている?大学でローストビーフを食べたことはない。たまに寄るスーパーのお惣菜コーナーで買って食べるくらいだ。 「スーパーのより絶対おいしいですよ。俺、結構料理得意なんです。先生、コンビニの弁当多いですし、夕飯はお酒とお菓子で済ましたりしてそうで心配してたんです。スーパーに行くのもお酒買う時だけみたいですし」 怖いわっ、なんでおまえが俺の夕飯事情について知っているんだよ。 「えっと・・・その・・・今日は予定があって・・・・」 「嘘はいけませんよ。俺、先生の予定、全部把握してますから」 そうだった。こいつ、俺のスケジュール見れるんだった。ゼミや授業の準備を手伝わせるのに都合がよくて、スケジュールを共有できるようにしたんだった。 「とりあえず、離してもらえるかな。ほら、ドア開いてるし、だれか入ってきたら困るだろ」 腰の手を解除しようと試みるも、びくともしない。なんて馬鹿力だ。 「夕飯、俺の家で食べるって約束してくれたら離します」 「いいから、離せ・・・」 「暴れないでください。昨日逃げられちゃったんで、今日は逃がしたくないです」 「この、馬鹿力が!離せーーーー」 「先生、いい匂い。キスしたくなります」 「バカ、やめろ、くすぐったい。首を舐めるな!」 なんとか音橋の腕から逃れようともがいていると、コンコンとノックされる音がして、息をのむ。 「月島助教授いるかな?この間の報告書を確認したから持ってきたよ」 学部長だ。まずい、こんなところを見られるわけにはいかない。 「音橋、離せ、学部長来て」 小声で抗議する。 「じゃあ、約束してくだいよ。夕飯一緒に食べるって」 小声の押収が続く。 「月島先生?入るよー」 やばい、来る。焦っているのは俺だけなのか?音橋には一向に腕の力を弱める気配がない。 「わかった。食べるから!」 間一髪、学部長が資料室に入る直前に腕の拘束がとける。 「なんだ、いるんじゃないか」 「すいません。その、資料に没頭していて」 「若いってのはいいもんだね。お、君が月島ゼミの初院生かな?」 「はい。音橋要です。よろしくお願いします」 「おお、月島先生もイケメンだけど、君もなかなかのイケメンだね。生物学科に華が増えるのはいいね」 「ありがとうございます」 「じゃ、がんばってね」 「はい」 このやろう、さわやかな笑顔をふりまいてるんじゃねえよ。変態のくせに! 学部長が出ていくのを見て、どかっと椅子に座る。疲れる・・・ 昨日から疲れっぱなしだ。チラリと音橋を見ると、ニコリとこちらに笑顔を向けてゼミ室へ出て行った。作業に取り掛かるんだろう。 「はぁ・・・・」 仕事だ。仕事をしなくては。夕飯からは絶対に逃げてやる。 昨夜あまりよく眠れなかったせいか、時折来る眠気をブラックコーヒーで撃退し、なんとかやらねばならないデスクワークを片付けた。 夕方6時。そろそろ帰宅する時間だ。 「先生、そろそろ帰りましょうか」 資料室に顔を出す音橋にビクッとする。一緒に帰るわけにはいかない。こいつの家で夕飯なぞ食べれば、間違いなく、そのあと食べられるのは俺だ。 「そうだな。その前に、この資料学部長に届けてもらえるか?間違って入ってたんだ。さっきの報告書と一緒に」 「わかりました。行ってきます」 ゼミ室を出ていく音橋を確認して、俺はダッシュで家路についた。 マンションまではバスで20分と電車で15分。大学が丘の上にあるため、最寄りの駅まではバスに乗るか、歩くしかない。 タイミングよくバス停につくとすぐにバスがきた。次のバスまでには20分ほどある。 音橋が追いかけてきたとしても間に合うことはないだろう。 バスが出発すると、ほっと肩の力が抜けるきがした。今日はゆっくり眠れそうだ。 🔷 「・・・・なんで・・・・なんでおまえが・・・・いるんだよ!」 マンションに帰り着くと、エントランスで音橋が俺を待っていた。 「俺、バイクなんで、先生より早く着くんです。バイクだと15分くらいで、近いんですよ、大学」 くそ、バイクという手があったか。俺のマンションを知っているとは・・・。 いや、驚くまい。こいつは変態なんだ。そのくらいの情報知っていて当然なんだろう。 とにかく、こいつをかわしてマンション内部へ逃げ込めば俺の勝ちだ。マンション内部へはカードキーを持っている人間しか入れない。 セキュリティがしっかりしているマンションを選んで正解だった。俺をつかまえにきた瞬間に、ダッシュで入口へ行き、中に入る。それしかない。 「じゃ、いきましょう」 ピッ。ん?ピッって?え?ちょっとまて、なんで中へ入ってく?そのカードキーはなんだ? 「先生、早く」 「う・・・うん」 予想外の出来事に思考回路が停止する。とりあえず、うながされるままにマンションへ入ってしまった。いや、ここ、俺のマンションだから、間違ってはないんだけど。 そのままエレベータに乗り込むと、音橋が7階のボタンを押した。 「いや、俺の部屋は9階だから」 9階のボタンに向かっていた俺の手ががっしりと掴まれて停止する。 「俺の部屋は7階です」 「は?なんて?」 「俺の部屋は7階ですよ。今年の四月に引っ越してきたんです。ここ人気で空きがずっとなかったんですけど、今年やっと空いたんで」 「同じマンション?」 「そうですよ」 嬉しそうに笑う音橋に、ぐったりと力が抜ける。9階のボタンを押そうとした腕は、まだ音橋に掴まれたままだ。 「先生の出すゴミ、コンビニの弁当とビールの缶とお菓子の袋ばっかりなんですもん。心配してました」 ああ、そういうことか、それで俺の夕飯事情を知っていたということか。なるほど。いや、納得している場合じゃない。怖いだろ! 「人のゴミを探索するな」 「すいません」 にっこりと笑う音橋に舌打ちをしてみせる。結局、掴まれた腕が解放されることはなく、そのまま引きずられるように音橋の家にたどり着いてしまった。 「あがってください」 「わかったから、手を離せ」 「離せませんよ。離したら逃げるでしょう?」 当然だ。ドアはまだ後ろにある。逃げるなら今しかない。 「困りましたね。ご飯食べてくれないなら、仕方ありません。このままベッドへ行きましょう」 「ちょ・・・ちょっとまった」 担いで連れていかれそうになるのに必死で抵抗する。が、ふわっと体が持ち上がる。 「わかった。食べる。ご飯食べる。腹減った」 「はい、じゃこっちです」 ため息を深くつきながら、靴を脱ぎリビングへと入る。整頓された部屋の隅に、筋トレマシーンが並んでいる。こいつ、鍛えているのか。どうりで歯が立たないわけだ。 「ビール飲みますか?」 「うん」 グラスとビールが用意される。仕方なく飲み始めると、ずいぶんのどが渇いていたことに気づいた。 キッチンで作業している音橋を横目で見ながら、かばんから論文を取り出す。こいつがいなければ読み終わっていたはずの論文だ。 「なんの論文読んでるんですか?」 「発展途上国における教育のマネージメント」 「教育学?」 「最北大の吉沢助教授ってなってるな。なかなかいい論文だ」 「発展途上国ですか・・・。月島先生が開発した新種の菜の花「蜜菜(みつな)」で、チアパムの平均寿命伸びましたもんね。あれはほんとすごいですよ。俺、先生はいつかノーBル賞取るんじゃないかって思ってます」 「賞に興味はないけど、蜜菜がどうなってるかは気になるな」 「今年も夏に行くんですか?」 「ああ。子供たちが食べているのは自生してる菜の花だからな。汚染や寄生虫も気になるし、毎年視察に行く必要があるんだよ。できればほかの植物も試したいしな。国から許可とるの難しいんだけど」 「俺は夏休み嫌いです。先生と会えないから」 やめろ。そんな寂しそうな顔をするな。なんか悪いことしているみたいな気分になるし、毎年そう思われていたかと思うと、背筋がゾクっとする。 「おお、ローストビーフうまそうだな。いただきます」 話題を変えるために、視線を料理へ向ける。 「うまっ」 なんだこれ、やわらかい。スーパーのとは全然違う。ローストビーフって本来こういう味なの? 「喜んでもらえて光栄です」 本当にうまい。一緒に出されたポテトサラダもうまい。学食の付け合わせのポテトサラダとは次元が違う。 「おまえも食えよ。こっちばっかり見てないで」 「もぐもぐしてる先生、なんかリスみたいで可愛いです」 ブッ。思わずビールを吹き出しそうになる。リスに例えられたのは初めてだ。 こいつより低いが、身長は174センチある。小さいわけじゃない。確かに、こいつみたいな筋肉はないけど、小動物に例えられ、可愛いといわれる筋合いはない。変だ、こいつの頭はやっぱり変だ。 食事を済まし、そのまま帰るのも気が引けて、片付けは手伝うことにした。黙って皿を拭いていく。 「今、俺、すごく幸せです。先生が隣で、俺の洗ったお皿を拭いてるなんて、夢みたいです」 「やめろ。幸せオーラをだすな。うっとおしい。よし、終わった。俺は帰る」 「先生!」 「いい加減にしろ。腕を離せ。俺を羽交い絞めにするな」 「すいません。今日は夕飯だけと思ってたんですけど、我慢できそうにないです」 「怖いわ。おまえ、食欲満たしながら、何考えてたんだよ」 「先生の細い指先とか、白いうなじとか。どうしても目に入るから・・・」 「いいから離せ」 「我慢できません」 「我慢しろ」 「今我慢したら、また、資料室でおそっちゃいます」 「お・・・おまえ・・・それはダメだろ」 「はい。俺もダメだと思います。だから、今、するしかないんです」 「ちょ、ちょっと待て、ほかに対策を考えよう」 そう反論している間にもグイグイとベッドルームへ引きずられていく。 「うわっ」 視界に天井と完全に欲情した音橋の顔が重なる。 「まて、こら、触るな。脱がすな・・・・」 「先生、好きです」 「んっ・・・ん・・・・あっ・・・・やめ・・・・まて・・・・・」 話し合おうとする口は塞がれ、言葉は舌でからめとられる。撫でるようなしぐさで体中をかき回されて、力が抜けていく。 「あ・・あぁ・・・んっ・・・・だめ・・・やだ・・・そこはっ・・・・んん・・・・・」 指の刺激だけで、体がびくっと跳ねる。 「昨日より、感じてますね。慣れてくると、もっとよくなると思いますよ」 幾度となく囁かれる愛の言葉、包み込む大きな手、ビクつく体、絶え絶えの自分の息と喘ぎ声。何もかもが甘くとろけていくような錯覚。体が犯されるほど、頭の中も犯されていくようだ。 今、何時だろう。繰り返される愛撫から解放された一瞬、正気に戻る。というか、何度目だ。終わりはいつ来るんだ? 「もう・・・無理・・・・っあ・・・あぁ・・・・んっ・・・・」 「すいません。でも、もう少しだけ・・・・」 結局そのまま、俺の意識はフェイドアウトした。

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