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第8話
おかしい。何かが起きている。
大学からまっすぐに自宅に帰り、デスクにかばんを置く。スマホを見るが、要からの連絡は無い。あの雨の日、絵を買った次の日からだ。
「すいません、少し用事ができました。
しばらく夕飯を作れそうにないです。また、連絡します」
というメールが来てから、四日目の木曜日。この四日、要からの連絡はまったくない。研究室にもゼミがある日だけしか来ていない。
いったい何をしているんだ?
構内で見かけることはあったから授業には出ているし、大学にも来ているはずだ。
仕方なく、シャワーを浴び、一人の部屋で缶ビールをあける。カップラーメンにも飽きた。
スーパーに寄るきにもなれず、結果、冷蔵庫にはなにもない状態が続いている。仕方なく菓子箱にあったピーナッツの袋をあける。
再びスマホを見るが、なんの連絡もなかった。
ベッドに入ると、体がうずいた。要の体温が思い出される。しばらく寝返りを繰り返したものの、寝むれる気がしないので、仕方なく研究資料を取り出して読みふけった。
ちらちらとスマホが気になる自分が嫌になる。それでも資料に夢中になりだすと、雑多なことは忘れて、いつの間にか眠りについた。
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翌日。
今日こそは何が起きているのか聞きだそう。要を捕まえればいいだけだ。ゼミもある。
授業を終えて研究室へ帰ろうと講義棟を出ると、要の姿が見えた。女子生徒に囲まれている。どうやら一緒に学食へ行くらしい。
俺が他の人間と食事をすると怒るくせに、自分はちやほやされながら食事をするとはいいご身分だ。腹が立つ。
でも、そうか、あれか、彼女でもできたのか?
俗にいう魔法がとけたってやつか?俺への憧れと恋心がごっちゃになっていたのが、恋心が覚めたってことなのかもしれない。そもそも、俺に執着する理由もまったくわからなし・・・。
憧れは理解できる。俺、助教授だし、そこそこ成果も出しているし。
おかしな形で混じってしまった恋心が抜けたんだろう。
で、しでかしてしまった色々に困って、俺から逃げているのかもしれない。
最悪だ・・・・
しでかしたのは要だけではない。要にさらした醜態は、できれば思い出しなくなかった。
なかったことにできるんだろうか?要がなかったことにするなら、できるかもしれない。
学部長には関係を知られてしまっているが、家で起きた数々の恥ずかしいできごとまでは知られていないのだし。ただ別れたってことで、済むはずだ。
そうか、終わったのか。それならそれで、気持ちを整理すればいいだけだ。
高校を卒業してから恋愛を避けていたせいもあって、自分の恋愛観を忘れていた。
「好きです。付き合ってください」そう言われて、まあいいかなと思って付き合った彼女たちは、しばらくすると「もう無理」と言って別れを切り出してきた。
何がいけないのか、いまだによくわからない。ただ、見た目や雰囲気はよくても、その先、彼女たちが求めるものは俺には無かったんだと思う。
与えられた愛を返すことは俺には無理だから。
それでも、一応話がしたいと思って、ゼミ終わりに要を呼び止めた。
しかし、帰ってきた答えは、「すいません、急いでいるんで」だった。
足早に俺を後にする要の後ろ姿をみると、ツンと冷たい何かが体の中に走ったきがした。
🔷
酒のストックもなくなり、帰りはスーパーに寄った。スーパーのローストビーフも捨てたもんじゃない、そう自分に言い聞かせて食事をすました。
明日は土曜日・・・大学に行って自分の研究を進めたかったが、電気系統の点検ということで今週末は研究棟に入れない。
ベッドに入ったものの、さっきから寝返りを繰り返すばかりだ。
「あ・・・スペアキー」
別れるのはかまわないが、家の鍵は返してもらわないと困る。
どうしようか。郵便受けに入れておくようにメールしようか。
でも・・・・。
時計をみると23時だった。さすがに帰っているだろう。直接受け取って、ついでに要の家に残したままの衣類などを受け取ってくればいい。
そう思い立って、7階へ向かった。
チャイムを押しても、ノックしても返事がない。まだ帰ってないようだ。外泊だろうか?
「はぁ・・・」
なんだかむなしくなって、ドアを背にずるずると座り込む。
夜になって雨が降り始めたらしく、ザァザァと音がしている。そのまま座り込んでいると、風が吹いてきて、外から雨のしぶきが吹き込んできた。
「なんか・・・・嫌な感じだ」
胸がざわつく、なんだろう、この感じ。ああ、そうだ。子供の頃感じたことがある。
夜の裏山を初めて見た時だ。昼間とは違って真っ暗でおそろしいあの裏山。
体の中に痛みの波のようなものが広がっていく。胃がすくむ。たまらなくなってひざを抱え込んでうずくまった。
寒い、寒い、寒くて体が震えそうだ。
「蒼?」
揺さぶられて、顔をあげると要がいた。どうやら座ったまま眠りこけてしまっていたらしい。
「こんな所で何やってるんですか?風邪ひきますよ」
「おまえこそこんな時間まで何して・・・っていうか、おまえ、びしょ濡れじゃないか。しかも・・・ん?土の匂いがする。あっ、足、泥だらけだ」
「とりあえず、家に入りましょう」
家に入ると、要は脱衣所へ一直線にむかった。風呂をためているらしい。
俺はどうしたらいいかわからず、玄関に立ったままうごけずにいた。
しばらくすると、下着すがたの要が顔を出した。
「蒼、何してるんですか?早く来て。お風呂たまりました」
困惑しつつも、言われた通り風呂場へいく。
「やっぱり、蒼の体すごい冷たいですよ」
そういいながら、慣れたてつきで俺の服を脱がしていく。
「先に湯舟入ってください。俺、シャワーで汚れおとしますから」
「うん・・・」
湯舟に入ると、冷えた体が一気に温められてジンとしびれた。
シャワーで汚れを落とした要が湯舟にはいってくる。
俺の後ろに座ると、いつものように抱きしめられた。首筋にキスを落とされる。
「首まで冷たいですよ。俺を待っててくれたんですか?」
「・・・いや、スペアキー返してもらわないと、って思って」
「え?」
「だって、普通思うだろ、この一週間まったく連絡ないし、話そうとしても急いでどこかいっちゃうし。別れることになったんだって思って・・・」
「それで?スペアキーを取りきたってことですか?」
要の声のトーンが落ちる。
怒らせたか?
でも、そう、言わなくちゃいけないことがある。俺はそういう人間だって、分かっていたはずだ。要から愛されても、愛を返すことはできない人間だ。
ちょうどいい機会だろう。そろそろはっきりさせておく必要がある。
要はまだ若い。俺にずっと執着していていいわけがない。
「要、俺はおまえを愛せないよ。体はまあ、受け入れられるし、言えと言われれば好きだともいえる。飯もうまいから、ここへ来るようになった。でも、それだけだ。それ以上は俺の中にはない。だから、簡単に別れも受け入れられる」
「・・・・」
「前に少し話しただろう?俺は叔父の家で育った。別に両親と死別したわけじゃない。今も、生きているよ。
俺は・・・俺は、少し変わった子供だったらしい。
小さいころから植物が好きで、道端に生えているもの、公園に生えているもの、なんでも知りたがった。読み書きを覚えるのも早くて、図鑑を読めるようになると、その興味はさらに増していったらしい。
自分の足で行けるところなら新しい植物を求めてどこへでも行ってしまった。
両親はしょっちゅう警察に捜索願を出すはめになった。他人の家にも入り込むから、何度も頭を下げるはめになった。
そのうち母親はノイローゼになったそうだよ。
見かねた叔父が父に俺を自分の家に預けるように言ったらしい。
俺が預けられたのは小1だったかな。
叔父も俺と同じタイプの人間だったらしい。子供の頃、叔父を見放さなかったのは兄である父だけだったらしくて、恩があったと叔父は言っていた。
叔父の家は、人里から離れた場所にあってさ、裏が山で、俺はすぐにそこが気に入った。
怒鳴ってくる母親も、拘束する父親もいなくてせいせいしたのを覚えてる。
叔父は研究所に勤めていて、帰ってこない日もあったけど、お手伝いさんが日中家のことはやってくれたし、夕飯と翌日の朝食も用意されていたから、飯にも困らなかった。
自分のことは自分でやれたしね。学校へ行く以外は、山で過ごした。
人のぬくもりなんてまったく知らずに育ったんだ。
だからさ・・・俺は・・・・俺はだれかを好きになるってことがよくわからないんだ。
愛が何なのかもたぶんわかってない、そういう人間なんだよ。
要が俺を好きだと言ってくれる気持ちが、どんなものなのか、俺にはわからない。
そんな俺に、愛を返すことなんてできないんだ。いいかげん、俺に執着するのはやめた方がいい。なにもいいことなんて起きないよ」
一気に話し終えると、どんな返答が来るのか怖くなって体が強張った。こんなことを他人に話すのは初めてだ。心が疲れる。もういいだろう。
「・・・・」
「・・・・」
風呂場の換気扇のモーターの低い音だけがしばらく鳴っていたが、ぎゅっと後ろから回される手の力が強くなった。首筋にキスが落とされる。
「おい、俺の話、聞いてたのか?」
「聞いてましたよ。体、あったかくなってきましたね」
「おまえなぁ・・・・」
「初めてあった日のことを覚えてますか?」
「初めて?講義でか?」
「違いますよ。やっぱり覚えてないですよね。俺が高校三年の時なんです」
「高校?」
「俺、昔から割となんでも簡単にこなせるんです。少し練習すればなんでも平均よりうまくやれました。成績も上位、運動も上位。顔もそれなりにいいせいか、女性からもモテましたし。苦労知らずってやつです。
そのせいか、夢中になれるものなんて何もなくて、自分が好きなことが何かがずっとわからなくて、大学どこにいこうか決められずにいました。
下岡高校に通っていたんで、とりあえず、大学ってものを見てみようかなと思って、一番近くて有名な上岡大学を見にきたんです。
三年になってすぐだったんで、5月くらいだったと思います。
バス停から正門まで行く坂道に、昔、藤が自生してたの覚えてますか?」
「ああ、あったな。少し前にダメになったやつ」
「藤の花が重さに耐えられなくなって、俺が通るときにちょうど落ちてきたんです、木の上から。俺の顔の高さで止まったんですけど、俺はめんくらって立ち止まりました。
そしたら、後ろから蒼がぶつかってきたんですよ。
書類を読みながら歩いてたみたいで、ぶつかった拍子に書類が散らばってました」
「覚えてないな・・・」
「蒼、ぶつかった俺のことなんて一切おかまいなく、藤の花に見とれてたんです。落とした書類もそのままで、しばらく魅入ってましたよ。
俺が書類を拾って手渡すと、我に返ったみたいで、「どうも」だけ言って大学に入っていきました」
「そんなことあったのか」
「たぶん一瞬のできごとだったと思うんですけど、俺にとってはすごく長い時間でした
藤の花に見惚れている蒼が、なんだか人間に見えなくて、藤の精がいたらこんな感じかな?とか、もしかして本物の精霊?とか、その短い間に色々考えました。
蒼が落とした書類の中に住民票とか経歴書とかが混ざっているのを見て、とっさに蒼の名前とかその他読めるものは全力で読みました」
「いや、ダメだろ。個人情報勝手にみたら・・・」
「それから、大学の見学に来たことも忘れて、すぐに家に帰って、蒼のことをかたっぱしから調べました」
「え?いや・・・話がおかしな方向にいってない?」
「もう夢中でしたよ。蒼の研究のこと知って、文献あさって、でも全然理解できないから、さらに他の本読んで理解してを繰り返してた日々、楽しかったです。
上岡大に入学して、蒼の授業を受けている自分を想像しただけで、体が熱くなりました。やっと見つけたんです。俺が好きで、食事も忘れて夢中になれるもの」
「ちょ・・・なんか怖い・・・・」
「だから初めに言いましたよね?ずっと我慢してたって。高三から我慢してたんですよ。資料室で我慢できなくなった俺の気持ち、想像するの難しくないですよね?」
「想像したくないわ!」
「蒼は植物が好きで、夢中になると食事も忘れてしまいますよね?俺にとっては蒼がそれなんです。研究対象の植物は蒼に愛を返してくれますか?」
「いや、愛って・・・植物に愛はないだろ」
「そうです。研究対象から愛は返ってこなくても、蒼は植物が好きで、もっと知りたくて、もっと関わっていたくて、興味はつきないですよね?」
「まぁ・・・そうだけど」
「はい。だから、蒼から愛が返ってこないことは、俺にとってはそんなに問題じゃないんです」
「え?いや・・・わかったような・・・・わからないような・・・・」
「俺は、蒼がそばにいて、蒼に触れて、蒼が知れればいいんです。蒼でやりたいことも、もっといろいろあるんです」
「まった・・・いや、え?俺が研究対象ってこと?」
「そうです」
「まてまて、おまえ、バイオテクノロジーがっつりやってるじゃん。それは?」
「蒼のそばにいるのに必要だからです。蒼の話す内容を理解できないと、蒼を知っていけませんし、同じ分野にいたほうが何かと便利なんで」
「便利って何?」
「蒼を独占しやすいでしょう?実際、院生になったから二人きりになる機会が多いわけですし。このまま蒼が教授になって、俺が助教授になれば、職場もずっと一緒です」
「怖いよ・・・おまえ、怖すぎるよ!なにそれ、ストーカーどころの話じゃないじゃん。マッドサイエンティストってやつじゃないの?」
「なるほど、そうですね。愛のマッドサイエンティスト。確かにそうですね」
「そうですね、じゃない。もう、俺は出る!」
勢いよく立ち上がると、ふらっと眩暈がした。要に抱き留められる。
「のぼせちゃいましたか?なら、立ったままにしましょう」
「は?」
「言いましたよね?蒼でやりたいことが色々あるって。まだ、お風呂でしたことないので、ちょうどよかったです」
「ちょうどいいって・・・ちょ、触るな!」
「あったまった体、やわらかいです。ほら、もう入りそう」
「んぁ・・・さわ・・・るな・・・んあっ」
「いきなり指が三本もはいりました。今日は今までで一番奥まで入りそうですね。でも、久しぶりなんで、ゆっくりしますね」
「はぁ・・・はぁ・・・ああん・・・あぁ!だめ・・・だめ・・・・」
「蒼・・・好きです・・・一生離しませんから・・・・」
「ひゃぁ・・・あぁん・・・・そこ・・・だめ」
「俺と別れるなんて、考える必要ないです。はぁ・・・はぁ・・・・俺も・・・もう・・・蒼、すごい、締め付けてくるから・・・」
「あああああ!」
🔷
「蒼、大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけ・・・あるか・・・いつもいつも・・・・」
「シャワー浴びて、でましょう。俺も今日は限界です」
ベッドに入ると、二人してぐったりだった。
俺がぐったりしているのはいつものことだが、要がぐったりしているのは珍しい
「そういえば、おまえ、今週何してたんだ?」
「あぁ・・・ほとんど畑にいました」
「畑って大学の?」
「そうです。あの藤をなんとか移したくって、月曜日にみにいったんです。先週末大雨だったから、やっぱり枝ごと落ちちゃってて、急いで作業にとりかかりました」
「移すって、藤を?藤は根を切られるのを嫌がるからな・・・かなり無茶したな。正門の藤の時も、俺でさえ諦めたのに」
「はい、大変でした。かなり深く掘らないといけませんでしたし、新しい土壌の用意も必要だったんで。林さんが手伝ってくれたんですけど、途中でぎっくり腰になってしまって・・・。俺のせいで負担かけちゃったんで、そのまま畑の管理もしてたんです。
だから、全然時間なくて。すいませんでした。ちゃんと話せなくて。
今週末も台風の予報だったので、どうしても今日中には終わらせなくちゃいけなくて」
「言ってくれれば、俺だって少しは手伝ったのに・・・・」
「いや、蒼はただでさえ忙しいですし、それに、そんな細い腕じゃあ土運べないでしょ」
「バカにするな、俺だって男だぞ」
「藤、ちゃんと根付いてくれるといいんですけど・・・・」
要はそのまま寝てしまった。かなり消耗していたんだろう。藤の植え替えなんて、成功する確率はかなり低い、時期も悪いし、そもそも人の手でどうにかできるような品種でもないのに・・・こいつは・・・。
頭に触れると、さらさらと髪が指の間を通った。寝てしまった要の腕に顔をうずくめる。暖かい。久しぶりの体温に心が緩んでいくのを感じる。
俺が研究対象か、そうだとしたら、その気持ちは理解できる。
ずっと見ていたい、もっと知りたい、その存在が無くなったら生きていく意味を見失う。
こいつにとって、それが俺なんだろうか?
もしそうなら、俺が返せることは、研究対象として存在し続けること、それだけだ。
「蒼・・・そんなにスリスリされたら、可愛くて、またしたくなります」
「寝たんじゃなかったのか?もういいから、早く寝ろ」
要がぎゅっと抱きしめてくる。包まれた全身がその体温を感じる。
「蒼も抱きしめてください。離れないって、誓って・・・・」
「はぁ・・・まぁ・・・研究対象が無くなる絶望は理解できるから、お前が望む限りは、そばにいるよ」
要の大きな背中に手を回す。開いた体に呼応するように、体の中から暖かい何かがあふれてくる。
要ならずっとそばにいてくれるんだろうか?
誰もいることができなかった、この俺の隣に、ずっとずっとずっと・・・・。
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