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第14話
あの日、朝目が覚めて、シャワーを浴びて、俺は無言で要の家を後にした。
それからあの家には行っていないし、要とは研究内容以外話をしていない。要が何を考えているのかわからなかったが、向こうは向こうで、同じように俺との接触を避けているようだった。俺と疎遠になっても、要は熱心に自分の研究を進めている。それだけが俺にとっては救いだ。
次の春から、大学を休職し、アグーラ支援へ行くことになった。気づけば冬が終わろうとしている。月島ゼミは、そのまま学部長が担当することになり、要の研究も学部長に任せた。いい結果が出ると期待している。
「片道三時間を毎週通ってるわけ?」
「仕方ないだろ、着替の交換とかあるし、総一郎が頼れるのは俺だけだからな」
一応の育ての親である叔父が大腸ガンで入院したと聞いたのは、叔父の友人である健兄 からだった。手術をすれば元の生活が送れるということだが、アグーラへ旅立つ前に一度会っておくように言われ、今は、健兄の車の中だ。
「まあ、大したことはなくてよかった。ガンって聞いたときは肝が冷えたけどな」
俺が初めて健兄にあったのは、叔父の家に来た次の日だった。俺とどう会話したらいいかわからなかった叔父が健兄を呼んだらしい。健兄は叔父と違っておしゃべりでにぎやかな人で、「おじさん」と呼んだら「なんだと?俺がおじさんだと?お前の目は節穴か?ケンニィと呼べ」と言われて、それ以来ずっと健兄と呼んでいる。今ではすっかり初老のおじさんだが。
思えば、俺を世話していたのは、叔父ではなく健兄だった気がする。学校の授業参観などに来ていたのは健兄だし、三者面談ですらこの人が来ることもあった。
懐かしい。育った町が見え始めると、過去のことが頭によぎる。
「そういえば、お手伝いさんは変わりないの?」
「ああ、節 さんか?あの人はそのまま雇ってるよ。あの人もいろいろあって、働けるのあの家くらいだからな」
「へぇ・・・」
生活感のないあの家を、まだ人が住んでいる形に保っていたのは、毎日淡々と通っていたお手伝いのおばさんのおかげだと思う。顔の左半分が火傷でただれた女性で、ニコリともしない鉄のような人だ。
「そういえば、総一郎が、自分が死んでも節さんはそのまま雇ってほしいって言ってたぞ」
「自分が死んだらって・・・手術で治るんでしょ?」
「そうなんだが、あいつ、昔から病院嫌いでな~手術を承諾させるのも一苦労だった。だからまあ、俺は死ぬとか思ってるんだろ」
「なんか・・・わかる気もする」
幼いころ、俺の奇行に手を焼いた母に連れられて病院を回っていたことがあった。真っ白な壁と、大人の作り笑いや、コソコソした雰囲気が大嫌いだった。
病院は家から一番近い町の総合病院だった。叔父は相部屋を嫌がって、個室を使っているらしい。健兄の後から中へ入る。叔父はベッドの上で背筋をのばして、学術書を読んでいた。
「久しぶり」
「お前か」
叔父が学術書から目線を上げる。相変わらず笑顔とは無縁の表情だ。
「調子はどうだ?」
「変わりはない」
手際よく洗濯物を回収し、新しい着替えを箪笥の中に入れている健兄の姿がどことなく要を思い起こさせて目をそらす。
「蒼は来月からしばらく海外だから、連れてきた。死ぬ前に言っておくことがあるんだろ?」
「ああ、手間をかけた。蒼、そこの引き出しに遺言書が入ってるから持っていくように。俺が死んだら俺の財産はお前に行くことになっている。言ってなかったが養子縁組してあるからな。節さんは死ぬまで雇ってやってくれ、ずいぶん世話になったし、あの人ほど都合のいい人間はいない」
養子縁組という話に驚きつつも、俺になんの相談もなく済ましているところが叔父らしい。入院で髪を切れていないのか、長く伸びている。色白の肌に、整った顔立ち。昔から俺はこの叔父に似ていると言われる。氷の女王の称号がふさわしいのはこの叔父の方だと俺は思う。
「髪伸びたな」
そういって叔父の髪を手に取る健兄の表情を見てはっとする。そうか・・・健兄が結婚もせずこの叔父のもとに通っているのは、そういうことなのだ。今までまったく気が付かなった。要とのことがなかったら、今も気づかなかったかもしれない。
「蒼、俺はまだ病院にいるから、お前は実家に帰れ。明日の朝迎えにいってやるから。ここからバスが出てるから一人でいけるだろ?」
「え?俺、あの家に泊まるの?」
てっきり日帰りだと思っていた。着替えも何も持っていない。そういうことは最初に言ってほしいものだ。
「車で話してて、お前は一回古巣に戻って一人でゆっくり考えた方がいいと思ったんだよ。いろいろあるだろ、考えること」
「考えることって言われても・・・・」
健兄は、たぶん要のことを言ってるんだと思うが、今さら考えることなんてない。
「ほら、早く行けよ、ここに来るのに時間かかったから日が暮れちまう。どうせ総一郎と二人でいたって、会話なんてないんだし。顔見て、遺言書渡したし、あとはいいだろ?」
健兄が俺と叔父の顔を見る。叔父は頷いている。確かに、話すようなこともない。同じ研究者であるが、物理学を専攻している叔父とはまったく話が合わないし、私生活について話すような仲でもない。俺がいない方が話が弾むのかもしれないと思い、仕方なく病院を後にした。
次のバスまで時間があったので、コンビニで最低限必要なものを買い、育った家に向かう。家に向かうというより、山に向かうと行った方がしっくりくる。
寒い日も暑い日も、ほとんど山で過ごしていた。家には食事など最低限必要な時しかいなかった。山の中の寝床にしていたボロ小屋は朽ち果てているだろうか。思い出すと、家に行くのも悪い気はしなかった。
バスに揺られて30分、懐かしい町に着く。町というよりは村といった方がいいだろう。バス停のある場所はそれでも民家が何件か集まって建っている。そこから歩いて30分。山へ向かう畦道を歩いていくと、あの家はそのままそこにあった。
「こんにちは。お久しぶりです」
「あら、どうも」
家に入ると、手伝いの節が夕飯を作っているところだった。俺が来ると健兄から聞いたのだろうか。または、誰も帰ってこないのに、明日捨てるとわかっている夕飯を作っているのかもしれない。彼女なら平気でやるだろう。課された仕事を淡々とやって帰っていく。自分が作った料理がこの家の人間に喜ばれたかそうでないかなど、気にせずに。まるで時がとまったこの家の番人みたいだ。
二階にあがって、自分の部屋に入ると、出たときと何一つ変わっていないように見えた。掃除はされていて、ホコリを被っている物はない。さすが家の番人だ。
時刻は四時。暗くなる前に山を見ておきたくて、荷物を置いてそのまま家を出た。
懐かしい道を山へ向かってたどっていく。杉林を通り抜け、しばらく行くと開けた場所に出る。横に小川が流れている俺のお気に入りのスポットだ。
今の時期は、花は見えず殺風景な印象だが、冬が終わると、黄色い花をさかせるオミナエシ、小さなイチゴをつけた紅花イチゴ、緑の絨毯を作る三つ葉など、美しい景色を見せてくれる。
よく座っていた巨大な石もそのままだ。この石に座って上を見上げると、林の中にぽっかりと丸い空が見える。ここから見る星も綺麗だった。
なんとなくそのまま、小川のせせらぎや、鳥の羽音、林を抜ける風の音を聞いていると、いつの間にか時間がたって薄暗くなってきた。
昼間は小春日和で暖かかったが、日がかげると急に寒さがましてくる。シャツの上にカーディガンを羽織、その上からウィンドブレイカーを着てきたが、まだ寒い。
それでもまだそこにいたくてじっとしていると、夜の気配が漂って来た。懐かしいい感覚だった。内臓がぞわっとするような不気味な感覚。
刻一刻と日が落ち、木々の影が伸びていく。そこかしこに夜の気配が漂い始め、夜に属する者たちの物音が聞こえてくる。
昼は死に耐え、夜が復活する。世界中で生きている人間は自分だけになったような、寒さが体を支配する。
「腹へったな」
さすがに寒くなって、体をさすりながら、わずかな月明りで見える道を辿り、家路についた。
作り置かれていた食事を食べ、シャワーに入り、布団にもぐりこんだ。懐かしい、子供の頃もこうやって一人で布団に入ったものだ。カーテンから漏れる明かりが少ない。今日は新月なのかもしれなかった。真っ暗な部屋の中、何の音もしない。息を殺して寝ていると、自分の心臓の音だけが聞こえてくるようだ。
「寒いな・・・」
冬用の布団をかぶっているのに寒い。
横になっていると、ふいに暖かいものが目から頬へ伝って布団に流れた。
涙なんて流すのは何年ぶりだろうか。
知りたくなんてなかった。どんなに布団をかぶっても消えないこの寒さの本当の名前が、「寂しい」だったなんて。要の体温を欲している自分に気づくと、涙は容赦なく流れてきた。
ずっと寒い家だと思っていた。ずっと、夜の山は寒いと思っていたのに。
俺は、寂しかったのか。感じていた寒さは寂しさだったのか。
「うぅ・・・・」
そんなこと、知りたくなかった。こんなに苦しくなるくらいなら、一生知りたくなかった。
できたての暖かい食事、隣に人がいるぬくもり、帰りたいと思う暖かな家。
蒼、と名前を呼ぶあの声。俺を思ってくれるあのぬくもりが、どうしようもなく恋しくなる。
知りたくなかった。気づきたくなかった。俺の中にも愛なんてものがあるなんて。
知りたくなかった。気づきたくなかった・・・・誰かを好きになる気持ちなんて。
「好きだ・・・・好きだ・・・・要」
でも、どうにもできない。俺から研究をとったら、それはもう要の好きな俺ではなくなるだろう。要はアグーラへ行くなとは決して言わなかった。そばにいてくれとは言わなかった。わからない、どうすればいいかわからない。俺に要を幸せにすることなんてできない。こんな俺に、あいつを幸せにすることなんて、結局できないんだ。
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