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第33話

改札を出るとすぐに、 駅を横切る川がゆったりと流れているのが見えた。 周りを見渡す限り、 桜の木は見当たらなかった。 誰かの服についた花びらが、 偶然自分の元に飛んできたのかもしれない。 孝之は、川沿いの砂利道をゆっくりと歩き始めた。 そういえばこんな砂利道を、 以前も歩いたことがあった。 あれは今からちょうど一年前だったか、 営業帰りですっかり気の抜けた状態だった。 着崩れたスーツの腕をまくりながら今みたいに砂利道を歩いていたら、 突然目の前に、 壁のようにそびえ立つ見事な桜の木が現れたのを覚えている。 そう。もう何度も夢に出てきている、 あの大きな木のような。 「…信じられない…」 孝之は視線をゆっくりと持ち上げたまま、 小さく呟いた。 桜の木は、まさしくそこにあった。 はらはらと花びらを落としながら、 風に吹かれて優しく揺れている。 なぜ思い出せなかったんだろう。 一年前にここで見たはずの、この桜の木を。 タカユキ。 タカユキ。 ふと、あの”天使”の声を思い出した。 ”天使”とはいつも、桜の木の近くで出会っていた。 自分に優しく語りかけてきたことや、 自分のことを知っていると言ってきたこと。 急にキスをしてきたこと。 好きだと、言ったこと。 この木が何かを教えてくれようとしているのか。 この木が、自分をここまで連れてきたのか。 ぐるぐると巡る思考に足元をふらつかせていると、 遠く砂利道の先から人が歩いてきた。

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