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第36話
孝之は、思わず口に手をやった。
一年前にあった出来事を、ようやく思い出したのだ。
大きな桜の木の下に捨てられていた子猫。
偶然この木の前を通りかかった時に、出会っていた。
一度は抱き上げたものの、くしゃみが止まらず、泣く泣くそこに置いたんだ。
あれは風の強い日だった。
せめてもの償いに、持っていた今治製の新品の白いタオルを子猫にかけてやった。
その時言ったんだ。
お前、天使みたいだな、と。
「…あんたが……あんたが捨てたのか?」
男の表情が、みるみるこわばっていく。
「いや、違う。俺じゃない。俺じゃないけど…」
孝之は慌てて首を横に振った。
男は訝しげな顔で、孝之を見つめている。
動悸が激しくなるのを落ちつけようと、
孝之は大きく深呼吸をした。
誰が信じられるだろう。
拾われた子猫が飼い主の顔をして、
夢の中に出てくるなんてことを。
今こうしてこの場所で飼い主に会えたとして、あの子猫は自分に何を伝えたかったのか。
それを、この飼い主に、なんて伝えたら良いのか。
孝之はまた、大きく深呼吸をして息を整えた。
「俺は、孝之と言います。羽鳥孝之です。俺の名前を、どこかで聞いたこと…ないですか」
「…”ハトリ”…”タカユキ”…」
”タカユキ”
驚いた。
名前を呼ぶ声まで一緒じゃないか。
せっかく落ち着けた孝之の心臓の音も、
思い出したかのようにまた高鳴りだす。
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