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第37話

「覚えが…ないです」 男は静かに呟くと、その場を立ち去ろうとした。 「あ、ちょっと…ちょっと待って」 行ってしまう。 今を逃したら、 もう会えなくなるかもしれない。 孝之は、慌てて男を呼び止めた。 振り返った男の顔は、 明らかに不快感を示していた。 「あなたが拾ったその猫に、会わせてもらえませんか」 「…は?」 男は目と口を同時に開いた。 自分が何を言っているかは分かっている。 けれど今はそうすることしか思いつかなかった。 「夢に、何度も出てきたんです。それで、その…子猫に謝りたくて。 勝手な事を言っているのは分かってる。けどどうか、お願いします」 孝之は、男に深々と頭を下げた。 また強い風が前から吹き込み、 孝之の前髪を大きく乱した。 前方から男の小さな溜息が聞こえてきた。 初対面の人間に自分の飼い猫に会わせてくれと言われて、 はいどうぞと言ってもらえるとは思っていない。 ただ、返事を待つしかなかった。 「…松島、龍司です」 孝之は勢い良く頭を上げた。 「松島…さん…」 ”天使”の、いや、飼い主の名前だ。 孝之は龍司の、少し息を含んだような声に身体を震わせた。 夢で何度も聴いた”あの声”で、やっと名前を知ることが出来た。 「…うち、ここから歩いて5分のところにあるので」 「…行ってもいいんですか」 「来たくなければ…いいです」 「行きます。ありがとうございます。ありがとう」 孝之は、もう一度深く頭を下げた。 ”天使”に会える。 ようやく、話をすることが出来そうだ。

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