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第五章 近いようで遠いような

「だからついてきちゃダメだって。いて、いてて」 「サクラ、サクラ。だめだよ。爪たてちゃ」 トイレに向かう孝之の後を追って、 サクラは必死に足に飛びついてくる。 見かねた龍司は姿の見えなくなったサクラがいたずらをしていないか、リビングから声を掛けた。 孝之が初めて龍司の家を訪れてから三ヶ月が経とうとしてた。 梅雨が明け、季節はすっかり夏の陽気に包まれていた。 あれ以来、孝之は月に一度、龍司の家に足を運んでいる。 サクラは孝之の顔を覚えたようで、 家に上がると飛びついて出迎えてくれるようになった。 家にいるとどこにでもついてくる。 今みたいに、トイレに入ってもだ。 「…ったく。お前には覗きの趣味でもあるのか?えぇ?」 抱き抱えた子どもに問いかけるように、孝之はサクラの顔を覗き込んだ。 それを見た龍司は肩を震わせて笑った。 「”覗き見女子”。そんな子に育つとは。やばいな」 「親の顔が見てみたい」 意地悪そうに視線をこちらに向ける孝之の顔を見て、龍司はとぼけた表情で首を傾げた。 龍司はキッチンに向かい、 飲み終わったガラスのカップを流し台に置いた。 泡立てたスポンジを左手に持つと足元にサクラが走り寄ってきて、 爪を立てては龍司の足によじ登ろうとする。 「あのさ、龍司」 龍司は持っていた泡だらけのカップを流し台に勢いよく落とした。 大きな音に、サクラがこちらの様子を伺っている。 「大丈夫?」 「大…丈夫。洗剤で、手が滑った」 ”リュウジ” 下の名前で呼ばれると、 いちいち反応してしまう。 最後に夢を見てからもう三ヶ月も経っているのに、まだあの声が頭の中でこだましている。 孝之が心配そうな顔をしてキッチンにやってきた。 流し台に転がったカップと持ってきた自分のカップを並べて、蛇口に手を掛けた。 「俺がやる」 「いいよ、さっと洗うだけだから」 「女子力男子、なめんなよ」 孝之は龍司の手から泡立ったスポンジを取り上げると、手慣れた様子で コップを洗い始めた。 孝之の顔を見ることが出来ない。 すぐ隣に立つ背の高さ、身体の厚み。 全てが夢の中の男と重なって見えた。 「…ありがとう、”孝之”」 孝之は何も言わず、龍司から顔を背けた。

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