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第90話

”タカユキ…” 龍司。 龍司の声だ。 ”タカユキ…” 太陽の光が、瞼をあたためる。 緑の音。木々の囁き。 からりとした風が頬を掠める。 うっすらと目を開けると、 自分を覗き込む”天使”の姿があった。 「龍司…?サクラ…?」 「タカユキ…」 鼻の上に、ひとひらの桜の花びらが舞い落ちる。 ここは、夢の中のようだ。 熱で苦しんでいたあの時間はどこへ行ったんだろう。 鼻に乗った花びらを指で摘まむと、 ”天使”は孝之の唇に指を当てた。 視線を”天使”の顔に向けた。 ”天使”は眉を下げ、戸惑いの表情を浮かべている。 頬に手を添えると、ゆっくりと顔を近づけてきた。 あぁ、また都合の良い夢を見てしまった。 目を閉じようとするとすぐに顔を離される。 ”天使”は孝之の胸に頬を乗せ、鼓動に耳を傾けた。 「龍司…」 「おしえて…タカユキ…」 「何を…」 ”天使”はしばらく孝之の鼓動を味わうと、 また顔を近づけてきた。 会話は風の音に遮られ、唇を塞がれた。 身体はじわりと熱くなり、 その背中に手を回そうとしたが、 すぐに顔を離される。 「龍司……?」 「おしえて……」 強い風が、大量の桜の花びらを運んできた。 目に入らぬよう顔を横に振って、固く目を閉じた。 次に目を開けた時には、太陽のぬくもりも、 木々の囁きも。”天使”の姿も、見当たらない。 真っ暗な部屋。 見覚えのある、低い天井。 部屋の窓から入る街の明かりが、 微かに部屋を照らす。 先程のからっとした空気から一転、 じめじめとした空気が 身体に纏わりついて、心地悪い。 身体を起こすと、何故か上半身が裸だった。 着替えの上着がパサリと腹に落ちる。 熱さに耐え切れず、自分で脱いだのだろうか。 全く覚えがない。 「龍司…帰ったのか」 ベッドサイドにある間接照明を灯した。 食事を用意してくれたことは覚えている。 食器が見当たらないということは、 龍司が片付けてくれたのだろう。 その後のことを覚えていない。 何か、龍司と言葉を交わしたのか。 そのまま眠りについたのか。 夢と現実の区別の付かないうちに、 ”天使”に出会った。 何かを知りたがっていた、”天使”に。 ベッドからゆっくりと立ち上がると、 身体の節々が鈍い音を立てる。 着替えの上着を手に持って一歩ずつ、 重い足取りでリビングに向かった。 ソファに腰掛けようと照明をつけると、 孝之の横隔膜がぴくりと揺れた。 「龍司…」 小さく背中を丸めた龍司が、 ソファの上で目を閉じていた。

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