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第93話

「孝…之…」 「龍司……」 孝之の額から流れ出た汗が顎を伝い、 龍司の顔の上に落ちた。 龍司は2、3度瞬きをして、 目の前の現実を徐々に受け入れ始めた。 これは夢じゃない。 龍司は目を見開き、孝之の背中に回していた腕を引っ込めると 目の前の男を思い切り突き飛ばした。 孝之の身体はソファから大きく離され、 床に崩れ落ちた。 何が起こっているのか。 龍司は身を起こすとソファの背もたれにぴたりと背中を付けて、 何か恐ろしいものを見るかのような目つきで孝之を見下ろす。 「な…なに……なんで……」 「いや…リビングに来たら龍司がここで寝てたから…様子を見に来ただけで…」 「寝てた…?…俺…いつの間に…」 「俺も随分長いこと眠ってたみたいで…。その…ありがとう、看病、してくれて」 孝之は、ソファに来るまでの経緯を話した。 龍司は少し目を泳がせながら、 耳だけをこちらに傾けていた。 龍司は龍司で、着替えの途中で部屋を出てしまったことを謝った。 それで上が裸だったのか、と孝之は笑っていた。 床からゆっくりと立ち上がった男の 引き締まった身体は、少し汗ばんで光っていた。 それを一瞥して、またすぐに目を背ける。 「熱は…下がったの?」 「多分。身体はまだ痛いけど、頭ははっきりしてる」 「良かった」 「何から何までありがとう。こんな…遅い時間まで」 ふと壁にかかった時計に目をやる。 時計の針は、夜中の2時を指していた。 寝乱れた髪の毛を右手で払い整えながらソファから立ち上がると、 孝之はまた寝室の方に身体を向けた。 「風邪っぴきの家でも良かったら…泊って行けよ。お客さん用のエアベッドならあるから。持ってくる」 「え……」 「俺のベッドは…汗まみれだし、ちょっと譲れない」 孝之の言葉に、龍司は顔を上げた。 やっと落ち着いたと思った胸の鼓動が、 また騒がしく響きだす。 少し斜めに傾いた身体を、 足の裏で踏み返した。 拳の中で湿る掌を、 着ていたセーターの裾でこすり取る。 元々、そのつもりで支度をしてきた。 孝之の病状がどれほどのものなのか、 分からなかったからだ。 サクラにも事情を説明して、 ”お留守番”の準備をして家を出た。 気が付けば意識を手放していて。 気が付けば、夢でないことを確信した。 剥き出しになった現実は、空気にさらされて 肌にひりひりと纏わりつく。 「孝之…俺…なんか…寝言言ってなかった…?」 寝室に向かおうとする孝之に、龍司は声を掛けた。 絞り出すような声。 動揺は隠しきれなかった。 孝之はドアノブに手をかけて、 顔だけをこちらに向けた。 「いや…何も」 「そっ…か…ごめん」 そう言って、龍司はまた顔を背けた。 リビングの扉が、静かに閉まる音がした。

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