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第102話
その日は穏やかな陽気に包まれていた。
肌寒くもなかったが、いつになく風が強い。
孝之は目的の駅より三駅手前で降りて、
駅を横切る川沿いの砂利道を歩いた。
緑の香りがする。
時折立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
青い風が優しく鼻を撫でる。
目を閉じると瞼に淡い、温かい光が注がれる。
なんとも言えない心地良さ。
もうしばらく、味わっていたかった。
歩みを進めていく内に
大きな桜の木が見えてきた。
あの、桜の木だ。
足早に近づこうとすると、
強い風が一吹き、孝之の足元を攫った。
乱される前髪をかき分け、首を横に振る。
うっすらと目を開けると、
木の下に人が立っているのが見えた。
「龍司」
呼び声は風にかき消された。
桜の木までまだ少し遠い。
身体を前に傾けながら、一歩一歩進んでいく。
”タカユキ”
あの声。あの響き。
すぐ近くで呼び止められたような気がした。
足を止めて顔を上げると、
遠くでこちらを向く龍司と視線が合わさった。
やっとのことで、木の下まで辿り着いた。
立ち尽くす男の薄茶色の髪は、
風に遊ばれ右へ左へとはためいている。
そんなことを気にも留めず、
龍司はただ静かに何度も瞬きを繰り返していた。
「葉っぱが、ついてる」
孝之は薄茶色の髪についた葉を指で摘み、
手のひらに収めた。
龍司は静かに頭を傾けて、ありがとうと呟いた。
「サクラは」
「妹に預けてきた」
「妹…桜、さん」
龍司は小さく頷いた。
サクラと桜のコラボだなと言って、
孝之は笑った。
何気ないやりとりが、
この奇跡の中で行われている。
ずっと昔から知っていたような
懐かしい感覚が、身体を包み込む。
孝之は桜の木から少し離れたところにある
川沿いの土手を指差した。
「そこで座って話そう」
その呼びかけに龍司は頷いて、
ゆっくりと歩いていった。
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