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01. 出会いと運命
体が怠い。あまり寝られず、せめて食事だけでもと無理矢理胃に流し込んでいる。こんな気持ちのままでは腹の中の子にも影響してしまうとわかっていたが、どうしても立ち直れずにいた。彼と番になってから久しく使っていなかったチョーカーをタンスの奥から取り出して装着する。冷たい無機質のそれはサイズこそぴったりだが、なんだか窮屈で呼吸が慣れるまでしばらくかかりそうだ。
外へ出る時は抑制剤を欠かさない。チョーカーは自分の身を守る為に必要不可欠であるが、それは同時に自分がΩであると公言しているのも同然だ。だからできるだけ首元が隠れる服を来て露出を避ける。
そうして久しぶりに出た外は雲一つない晴天で、休日の日中という事もあり子供連れとすれ違うことが多かった。なるべく長居は避けて買い物が済んだら早く帰ろうと、パーカーのフードを怪しくない程度に深く被って足早に目的地へと急ぐ。だが、それがいけなかったらしい。すれ違い際に肩をぶつけてしまい予期していなかった衝撃によろめいた。
「ーッ!」
「っと、」
「…すみません…っ」
すかさず自分より大きな体にしっかりと支えられる。慌てて顔を上げれば頭一つ分見上げる先に優しそうな風貌の男性がいた。
「いえ、気にしないでください」
柔らかく微笑む彼の腕の中から逃れるように素早く離れた。衝撃で落ちたフードを再び深く被って歩き出そうと踵を返した時だった。
「…ねえ、君」
落ち着いた雰囲気の食事処やスーパーが点々と建つ静かな路地。これでも人混みを避けるためにできるだけ人の通りが少ない道を選んでいる。だから背後から掛かった声が自分に向けられたものだとすぐに察した。
「……?」
振り向いてまだ何かあっただろうかと何も言わずに彼を見詰めれば、一瞬視線を逸らした後ゆっくりと口を開いた。
「初対面で余計なお世話だったら申し訳ない。その…体調がすぐれないんじゃないかと思って…」
顔色が悪いのも体調が悪いのも自覚していたが、まさか見ず知らずの男性に言い当てられるなんて思ってもいなかった。大丈夫だと返してすぐに離れるつもりでいたが、それができなかった。
「…ーう゛っ!」
「えっ、大丈夫!?」
突然の吐き気に視界が歪みその場に蹲る。先程の男性の声が頭上で聞こえたが、それに何かを返す事は到底できそうにない。気持ち悪くて仕方ないのに吐き出せない。朦朧とする意識の中で、心配する男性の声と体が浮遊感に襲われたのを感じる。けれど何もできなくて、ただただされるがまま彼の腕の中で項垂れる事しかできなかった。
「……ここ、どこだ…?」
見慣れない天井、慣れない香りは自分のものではなくて。違和感しかないこの空間にゆっくりと上体を起こしながらいつの間に眠ってしまったんだと記憶を辿る。確か名前も知らない男の人に助けてもらったんだったか。
「…あ、目が覚めましたか?顔色良くなったみたいで良かった」
ラフな部屋着に身を包んだ清潔感のある男性は未開封のミネラルウォーターを差し出しながらそう言った。見た目は三十代半ばくらいだろうか、端正な顔立ちでお人好しそうなのがわかる。
「すみません、助けていただいてありがとうございます…」
「当たり前の事をしただけです。とりあえず近かったので僕の家に運ばせてもらいましたが……こういう事よくあるんですか?」
「あ、いえ…ただの悪阻なので…」
「…あぁ、そうだったんですね」
言ってから後悔する。つまりそれは自分がΩだと言っていると同じ意味で、どんな目を向けられるかわからない。今の俺には番がいないのだから。そう思うと咄嗟に項を手で覆った。見られただろうか。彼が他人に対してそこまで干渉しない人物だと言うことを願うが、番無しの子持ちなんてとんだ訳ありだ。
「あの、本当にありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみません。失礼します…!」
どちらにせよもう二度と会わないのなら関係はない。ベッドから立ち上がって、何度も深く頭を下げつつ逃げるように背を向けた。
「あ、待って…!」
「っ!」
背後から腕を掴まれる。乱暴ではないけれど力強いそれにかくんと視界が揺れた。
「その…君にどんな事情があるのかわからないけれど、今日はもう遅いし君さえ良ければ泊っていってください」
確かにカーテンの隙間から見えた外は真っ暗になってしまっていた。振り返った先の彼は少し必死に見えて、余程お人好しなんだなと思った。けれど一晩とはいえど俺はΩだ。彼の性はわからないけれど万が一があったら取り返しがつかない。
「いえ、それは悪いので…」
「…そうですよね、すみません。我ながら軽率な発言でした。じゃあせめて家まで送らせてください」
承認欲求なのか、ただのお人好しなのか。怪訝な面持ちだったが、どうにも悪い人だとは思えなくてお願いすることにした。ただの直感だったが、彼はαな気がする。とはいえ夜道を一人で歩くのは正直不安だったので有り難いのは確かだ。
彼の車に乗せてもらい、住所を伝えるとゆっくりと走り出した。
「今更ですが、自己紹介がまだでしたね。名乗りもせずにすみません。俺は 朝日啓太 って言います」
「いえ、こちらこそ。…俺は、 片倉直 です」
覗き見るようにして見た彼の横顔は整っていて不覚にも見惚れてしまった。ほんの少し下がった目尻は、優しげな雰囲気を与えてどこかあの人を思い出すようで胸が締め付けられた。
「……余計なお世話だったらすみません。事情はわかりませんが、もし何か困っているのでしたら…俺に力になれる事はありませんか?」
その言葉に下心は感じなかった。ゆっくりと車が家の前で止まって、視線が交わる。顔も声もあの人とは全く似ていない。けれど身に纏う雰囲気がどことなく似ていて、俺はつい縋りたくなってしまった。
「これ、俺の連絡先です。いつでも連絡待ってますから」
「っ、…ありがとうございます」
自然と手を掴まれて名刺を渡される。一瞬触れられた事に驚いたが、久しぶりに感じた他人の体温は存外心地よくて、あっさりと離れていくのが寂しいと感じてしまうくらいだった。さっきから妙に頸が熱い。俺は深く頭を下げると足早に車を降りて、家の中へと向かった。
部屋に入るとすぐに鍵をしてその場にしゃがみ込んだ。先程渡された名刺にほんのり彼の香りが残っている。俺は早まる鼓動を感じながらそっとそれを顔に近付けた。不思議だ。番になる前ですらあの人以外のαの匂いなんて嫌いだったのに、落ち着く匂いだった。あの人と似ているわけじゃない。でも、あの人と同じ落ち着く匂いがした。
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