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第3話

 足が垣根から離れ、体が宙に浮いた。重心が傾き、逆さになった拍子に烏帽子が脱げ、兎の耳と髻が顕わになる。烏帽子を取り戻そうとして伸ばした手は、虚しく宙を掻くばかり。あれよあれよという間に、屋敷の屋根ほどの高さまで舞いあがっていた。  見れば宇佐吟も、くるくると回転しながら浮いている。輝夜は懸命に腕を伸ばし、神楽笛の紐をつかみ、引きよせた。そしてヒシッと宇佐吟と抱きあう。 「ご覧ください、輝夜どの。月族の使者たちです!」  言われて背後を振り仰ぐと、視界のすべてが輝きに覆われ、思わず輝夜は息を呑んだ。  龍笛、尺八、箏に笙、羯鼓に琵琶に、笏拍子。雅な音楽が聞こえてくる。楽器を鳴らしているのは白兎。輿を担いでいるのも白兎。みな宇佐吟と同じで雅な織りの、袖のない袢纏を着ている。あれは間違いなく宇佐吟の仲間、月族兎組の隊列だ!  輿を担いだ白兎の一団が、輝夜たちの前で停まった。誰も触れていないのに、輿に下がっていた御簾がするすると巻きあがる。  宇佐吟が使者と挨拶を交わし、輝夜の束帯の袖を引く。 「お乗りくだされ、輝夜どの」 「わかった。宇佐吟も……」  一緒に、と輿の中へ促したとき。 「放てーっ!」  号令にギョッとして、輝夜は地上を凝視した。  一体どこに潜んでいたのか、兜と鎧に身を固めた何十人もの兵が弓を構え、次々に矢を放った。 「うわっ!」  御簾を射られ、体勢が崩れる。慌てて輿に飛びこむが、担ぎ手も慌てふためき、輿が激しく揺れ動く。琵琶も笙も弾き飛ばされ、月族の使者たちの連携が大いに乱れる。 「宇佐吟っ!」 「輝夜どのっ!」  手が離れ、宇佐吟が宙に放りだされる。助けようと身を乗りだしたところへ矢が飛んできて、輝夜の頭をギリギリ掠める。髻を結っていた紐が切れ、髪が風に掻き乱される。 「危険です、輝夜どの! 顔を出してはなりませぬっ」  神楽笛を振り回し、矢を叩き落としながら宇佐吟が叫ぶ。だがその宇佐吟を射落とさんとして、矢が束になって襲いかかる! 「危ない、宇佐吟────ッ!」  輿が空中分解するさまを、輝夜は瞳に映していた。  背景には、巨大な満月。どうやら自分は、落下している最中らしい。  もう駄目だ……と観念して、目に映る美しい光景に想いを馳せる。  あの場所へ戻れなかったな……、子孫繁栄の大役は果たせなかったな……、本懐を遂げられぬまま、死ぬのだな……と。  月族の役に立てなかった。愛する人と巡り会えなかった。無念で残念極まりない。  月族の長老も、稚球の養父母も宇佐吟も、たくさんの愛情を注いでくれた。だから輝夜は、愛を知らないわけではない。それどころか、真の愛に包まれた二十年だった。  愛とは、与えるほうも与えられるほうも、双方の心が豊かになり、互いが笑顔になることだ。生きる源であり、未来への活力を生む。それが、皆から授かった愛だ。  ただ、そういった種類の愛ではなく────周りの景色が見えなくなるほど一途な愛も経験してみたかった。燃えるような恋愛に、この身を投じてみたかった。  見つめあうだけで子を成さずにはいられないような恍惚を、体験してみたかった。  愛し愛されながら、身も世もなく悶えてみたかった。  そういう自分に、じつは憧れていたのだ。この体質に生まれてから、ずっと。 「無用の長物で……すまぬ」  落下しながら、宇佐吟に向かって謝罪した。ひとつも恩を返せなかったことが心残りでならない。宇佐吟がヒシとしがみつき、ぶんぶんと首を横に振る。 「なにを仰ります! 輝夜どのは、その存在自体が宝なのでございまするぞ!」 「宇佐吟には、苦労ばかりかけたな」 「苦労などと思ったこともござりませぬ。愉快な一生にございました」  はは、と宇佐吟が笑った。ここで笑われると、哀しみが倍増する。 「いつも私を助けてくれたのに……私は、お前に迷惑ばかりかけた」 「そんなふうに仰いますな、頼られて、嬉しゅうございましたよ」 「宇佐吟……」  このあと地上に叩きつけられる際に、宇佐吟の白い短毛が、土で汚れないように。  長く守り続けてくれた小さな体が傷つかないように。痛い思いをしないように。  輝夜は背を丸めてしっかりと宇佐吟を抱えこみ、歯を食いしばって目を瞑った。           ◇◇◇  ────さきほどから固く目を瞑り、地面に叩きつけられる覚悟をしているのだが。  もう地面で平たくなっていても、おかしくない時間なのだが。  どうしたことか、なかなか衝撃が訪れない。 「なにせ稚球人の矢が届く距離、たいした高さではなかったはずじゃ」  いまか、いまか、と何度も覚悟を組み立て直すが、滞空時間が予想外に長く、覚悟に雑念が混じりだす。 「焦らされると、よけいに恐怖が増すではないか」  頬に受ける風の流れは相当速い。落下しているのは間違いない。だからこそ身を強ばらせて絶命の瞬間を待つのだが、まだ空中とは、これいかに。  輝夜は宇佐吟を抱えたまま、「長すぎる!」と叫んだ。腕の中の宇佐吟も、「ひと思いに殺してくだされ!」と錯乱している。少しでも状況を探ろうとして、バタバタ靡く両耳を引っこめ、落ちつこうと努力するのだが、目を開ける勇気はない。 「いま、どのあたりでございますか! 輝夜どの!」 「わからぬ!」 「そろそろ屋根にぶつかりますか? それとも池に落ちますか?」 「わからぬーっ!」  ビュオオオと風が唸る。落下速度はかなりのものだ。ヒイッと宇佐吟が身を縮める。そんな宇佐吟を抱き竦め、輝夜は自分に言い聞かせた。 「確かめるには、目を開ければいい。だが、目を開けた直後に地面とぶつかる可能性もある。恐怖でおかしくなったとしても、そのときには、もう死んでいる」  ええい! と勇気を振り絞り、くわっと両目を見開いた……のだが。  えっ? と、気の抜けた声が出た。  視界が白い。形あるものが、ひとつもない。輝夜は周囲に目を走らせた。 「月は? 稚球は? 使者たちはどこへ消えたのじゃ?」  月も稚球も月族たちも、なにも見えない。視界を遮る白いもやもやは濃霧だろうか。くるくると回転しながら落ちているようだが、重量のあるものは落下する。よって、いま向かっているほうが下であろうと推察する。 「……────おお!」  突然、濃霧が晴れた。  現れるのは屋敷の屋根か、池か、それとも麻呂と吾と予の顔か! と身構えたら。  まるで毬を投げたかのように、ふわっと体が放りだされた。  切り裂く勢いで頬を掠めていた風も、唐突に止んだ。    目に飛びこんできたのは、うっとりするほど巨大な満月と、そして……。  こちらへ向かって両腕を差し伸べる、見たこともない装束の殿方だった。

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