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第4話

 殿方の腕の中に、輝夜はポスッと落下した。  落下したというより、殿方が上手に受け止めてくれたのだ。……なんと力強い両腕、なんと逞しい胸板。名だたる弓の使い手と見た。 「きみ、大丈夫? 怪我はない?」  横抱きにされたまま訊かれ、輝夜は瞬きした。輿に向かって矢を放った兵のひとりではないのか? と訊きかけた口を閉じたのは、あるべきものがなかったからだ。  この殿方は、兜も鎧も身につけていない。ということは、弓矢の兵ではない。矢が降り注ぐ危険極まりない状況下で、このような軽装はあり得ないからだ。  それに、なにやら頭髪も変だ。左右は短く、斜めに垂らした前髪は額にかかっている。盗賊に襲われて、髪を刈られたのだろうか。だが、それにしては全体的に整っている。  もしや、月へ戻れたのだろうか。輝夜が稚球へ降りている間に、月の常識が変わったのかもしれない。輝夜はおずおずと口を開いた。 「……其方は?」 「俺は、この西東京プラネタリウムの社員だよ」 「ぷら……ねた?」 「きみこそ誰? あ、わかった。夏休み最終投映会に参加していた、キッズ団体のメンバーだな? でもその格好……、ああ、平安時代のコスプレ?」  笑顔はなかなか好ましい。眉は凜々しく歯は白く、目鼻立ちも明瞭だ。これまで輝夜に求婚した殿方の誰ひとりとして足もとにも及ばぬ美丈夫だ。それは認める。だが、月族の言葉にしては妙だ。話の半分も理解できない。かといって稚球人とも異なっている。 「映像をチェックしていたら、いきなり落ちてきたから驚いたよ。ドームの天井からってことはあり得ないから、さては投映機に登っていたな?」 「とーえーき? いや、私は月へ昇ろうと……」 「月へ行きたい気持ちはわかる。俺だって子供のころは、月へ行くのが夢だったから。でも残念。きみの帰る場所は自宅だ」 「私は夢ではなく、現実の話をしておるのだが……」  ふぅ、と殿方がため息をついた。そして「困ったやつだ」とでも言いたげに苦笑する。 「じゃあ現実的な話をしよう。投映機に登るのは禁止だ。ただし反省しているなら、保護者には黙っておく。もう二度と登るなよ?」  昇るなよと言われても、昇らずして月へは帰れない。ここも月面ではなさそうだし。それより微妙に話が噛みあわない気もするのだが、殿方は、そうは思わないのだろうか。輝夜はすでに頭の中が混乱している。  なにか、おかしい。おかしい点なら無数に挙げられるが、逆に多すぎて説明できない。 「きみが大事に抱えている兎、ぬいぐるみ?」 「ぬい……?」  胸元へと顎をしゃくられ、輝夜はハッとして腕の中の宇佐吟を見た。神楽笛をぎゅっと握りしめたまま気絶しているが、体は温かく、傷もない。 「よかった、無事か」  ほっとして、輝夜は再び殿方を見あげた。稚球に叩きつけられて死ぬところを救ってくれた勇気ある青年……おそらく二十六、七の美丈夫に、「かたじけない」と礼を言うと、「うん、平安っぽい」と笑われた。……意味は不明だが、なにやら失敬な殿方だ。  立てるか? と丁寧に下ろされ、足裏に触れる硬い感触に目を丸くする。  そういえば草履を履いていなかった。屋敷から庭へ飛びだしたから、足もとは薄い襪(しとうず)だけだ。その襪のまま立っているのは、畳でもなく、木でもなく、土でもない。 「これは、なんじゃ?」  足の裏で床を撫でると、「ピータイルのこと?」と訊かれ、「ぴーたいるとは?」と首を傾げれば、「プラスチックタイルだよ。公共施設ではポピュラーな床材だけど……」と、胡散臭そうに眉根を寄せられた。この表情を翻訳するなら、「なぜ、このようなことも知らぬのだ。周知の事実ではないか」……だろうか。  それ直衣? と、殿方が輝夜の装束を目で示す。狩衣を知らないのだろうか。詳しくないということは、殿方は貴族ではなく平民か。それならば会話の行き違いも致し方ない。  輝夜はコホンと咳払いし、今度はこちらが説明する番だと胸を張った。 「身分は気にせぬ。そもそも私も、賓客を迎えるなら直衣がよいと承知の上で、好んで狩衣を身につけておるのじゃ。窮屈は苦手でな。其方もであろう? そのような……体つきが明確にわかる出で立ちなど、ふ、不埒ゆえ」  不埒などという言葉を口にしたことが恥ずかしく、輝夜は宇佐吟の耳の間に鼻を押しつけ、照れを誤魔化した。そんな輝夜とは対称的に、殿方が呑気に頭を掻く。 「体つきが明確って、このカバーオールが? 宇宙飛行士を真似たユニフォームだから、色はアースブルーで派手だけど、形は至って普通だよ」  よくわからないな……と殿方が腰に手を当て、首を傾げる。同じ言葉で、同じ仕草を返してやりたいくらいだが、平民にしては精悍なこの美丈夫が、命の恩人であることに変わりはない。そこは素直に感謝しなければ。  いま、頭上には巨大な満月……のわりには周囲が妙に薄暗いが、弓矢の兵隊が潜んでいる気配はない。強風に乗って、かなり遠くまで飛ばされたようだと推察し、かろうじて頭の中を整頓した。  命の危機は回避した……と胸を撫でおろしたのも束の間、目が薄闇に慣れると同時に、不思議なものが見え始める。 「これは……雛壇か?」  まるで大きな雛壇のような……もしくは屏風をたくさん連ねたかのような、規則正しい段々を指すと、殿方が再び首を傾げた。 「雛壇? 客席のこと?」 「あちらの隅で光っている緑色の箱は、なんじゃ?」 「非常灯だけど? 地震や火災が発生したら、あそこから外へ出られる」 「上空の月より明るいな。中に蛍を閉じこめておるのか?」 「…………」  なんでも答えてくれる殿方が絶句した。だが輝夜の「不思議」は止まらない。そして極めつきの「不思議」は────。  輝夜の真横に濃い影を落とす、見あげるほどに巨大な……。 「蟻────っ!」  悲鳴をあげ、輝夜は思わず飛びすさった。「だから、それは投映機……」と殿方が呆れているが、輝夜には巨大な虫にしか見えない。そしてその巨大な虫は微動だにせず、襲いかかってくる気配もない。 「こやつ、立ったまま死んでおる!」 「……生きておりまする」  ぼそっと呟いたのは、気絶から目覚めた宇佐吟だ。そして宇佐吟も輝夜と同じく「ぎゃーっ、お化け蟻っ!」と叫んで飛びあがり、輝夜にヒシとしがみついた。  え、と声を発した殿方が、宇佐吟を凝視する。 「いま、ぬいぐるみが動いた? しゃべった?」  両目を月より丸く見開き、宇佐吟へと手を伸ばす。その手をパシッと払った宇佐吟が、両耳を立てて威嚇し、前歯を剥く。 「月族に、気安う触りまするな!」 「ちょっと待て、本物の兎なのか? いや、本物の兎はしゃべらない。でも偽物じゃないなら本物だ。いや、本物だからこそ、しゃべらないはず……」   わかりやすく混乱している殿方を無視して、輝夜と宇佐吟も異なる理由で互いの混乱を確認した。 「我々は砂粒になってしまったのですか、輝夜どの!」 「そうではない。私たちの背丈は変わっておらぬ。変わったのは、我々の周りじゃ」 「おおお、なぜそのような!」 「私にも、わからぬ……」  怯える宇佐吟と抱きあったまま、殿方を睨みつける。思考の乱れは弱さの証。この世は弱肉強食だ。弱いとわかれば襲われる。輝夜は精一杯口角を上げて問いかけた。 「否定を承知でお訊ね申すが、其方は、月族の殿組か?」 「……どこかの歌劇団の話?」  わからぬ言語で翻弄する気か。胡散臭い長身を睨みつけ、輝夜は後ずさりした。 「それとも、やはり稚球人か?」 「地球人かと訊かれればそうだけど、きみの言う地球は、大地の地に球で正解?」 「私が申しておる稚球は、若さを表す稚に、球と書く」

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