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お仕事開始とあの夜と ③

「んっ……」  生まれて初めてのキスだった。  小鳥の羽根でくすぐるように、静かに微かに唇が擦れる。 「やだっ、これっ、いらないっ……」  濃厚なキスを望んでいるわけじゃない。でもどう考えてもこの状況にそぐわない、幼い子供をあやすようなキスをされるのはもっと嫌だった。    僕は子どもじゃない。慰めとか、甘やかしなんていらない。何も考えられなくなるくらい、強く咬みついて、痛くしてくれたらそれでいい。  千尋は首を振って抵抗した。 「しー。静かにして。ゆっくり、ゆっくりと俺の感触を感じて?」  短くなった髪の中に指を入れられ、柔く固定される。下唇を挟まれてちゅる、と吸われた。 「ん、んんっ」  ほんの少しの濡れた感触がきぃんとにうなじに響いて、反射的に唇の結びを解いた。  瞬時に唇を塞がれ、肉厚なぬめりが歯列を割って口内に入ってくる。同時に、首筋から鎖骨を渡ってきた指が凝った胸先に辿り着いた。 「は、あ、ぁやだっ……怖い、怖いっ」  口の中が熱い。意識とは無関係に唾液が溢れ出てくる。  尖った舌で歯茎や上顎を(ねぶ)られると、粘膜がじゅわりと溶けていく錯覚に陥った。  張りつめた薄桃色の胸先を指で挟まれ、先端をくにくにとよじられれば、じんじんしてじっとしていられず、身を小刻みに揺らしてしまう。  かつてこんなふうに触られたことも、感じたこともない。クラブではわかりやすい痛みを与えてもらい、それが去ったあとの解放感で感じていたから。 「専務、も、やです、怖いっ……」 「怖くないよ。ほら、ここはこんなに感じてる」  後孔の表面をくるりと撫でられた。濡らしている自覚はあったが、きっと生きてきた中で一番濡れている。  光也の指は千尋が滲ませた蜜の力を借りて、秘められた内部へと侵入した。 「あぁ、っ……」  そこは、自分でなら幾度も触れてきた。課長に蔑まれるのを想像しながら玩具を入れたこともある。  でも、光也の指は玩具や妄想とはまるで違った。  男らしい指で肉壁をこすられると、連動して腹の奥がきゅうきゅうと疼き、疼きは背筋を駆け上がってうなじを熱くさせる。 「こんなにフェロモンを溢れさせて……部屋じゅうに香りが広がってる。千尋の香りは甘くて蠱惑的で、クチナシみたいだね」  違う、違う……千尋には自分の匂いはわからないし、部屋がどんな匂いになっているのかなどわからない。けれど千尋を苦しくさせる甘ったるい香りなら、光也自身からも、千尋の体に落ちる光也の汗からも薫っている。 「クチナシ……そうだ、クチナシ! それは、専務の香りです。専務、自分の香水の匂いを、僕って、勘違いして、るっ……」    息が切れ切れになりながらも懸命に言うと、光也の顔がほころんだ。 「香水? 俺はつけていない。ねぇ千尋、君は俺に同じ匂いを感じているんだね? 俺の両親と同じだ。やっぱり俺達は運命の番なんだよ」 「ぁ……?」  この人は何を言っているのだろう。そんな話は聞いたことがない……と思う余裕は一瞬だけだった。  再び唇を塞がれ、今度こそ咬みつくようなキスをされる。  口腔じゅうの粘膜をえぐり取ろうとする獰猛な舌使いに、千尋は首をのけ反らせ、光也の両腕を掴んだ。  その間にも、二本目の指を後孔に入れられ、中を撫で探られる。 「あぅっ……」  他人の体の一部に自分の秘された内部を侵されている。二十六年間知りえなかった感覚に涙が滲み出た。  腹から腰回りまでじんじんして、骨も内臓もぐちゃりと溶けて崩れてしまいそうだ。 「も、やめ……専務、何か上がってくるから、何か来ちゃうからっ……」  吐き気とは違う得体の知れない波がやってくる。頭から呑み込まれて流されそうで怖い。 「大丈夫。怖くないよ、千尋。これが本当に感じるってことだよ。もっと感じて、俺の指」  温かい大きな手に熱芯を包まれ、上下にこすられる。後孔の中の指も抽挿が始まり、前後からのぐちゅぐちゅと濡れた音に聴覚を支配された。 「は、ぁあっ……んっ!」  頭の天辺から足の爪先に甘く切ない痺れが駆け抜ける。目の前で火花が散って頭が真っ白になるとともに、千尋の腹の上には白い水たまりができていた。  そのあとの記憶はまた飛んでいるが、朝目覚めると毛布にくるまれ、光也にしっかりと抱きかかえられていた。 (ひぇぇ、また意識を飛ばしてしまった!)  声にならない声で叫び、瞳孔が開ききる勢いで目を剥いた。とても不細工だったと思うが、光也は驚いた猫をなだめるようにふんわりと微笑み、眉間に唇を落としてきた。   「おはよう、千尋。少し熱があるんだ。フェロモンは一度精を放っただけで薄くなっているようだけど、まだ発情期の症状が残ってる」  それから、それはそれは甘い声で続けたのだ。 「もう誰にも千尋の香りを嗅がせたくないから、体調が落ち着くまでは家の敷地内から出てはいけないよ? いい? 約束だからね」  ────かと言って、一方的な約束だし、出て行こうと思えば出て行ける。警備があるわけでもないし、日中はこの広い屋敷に千尋一人だ。  それなのに出て行かず、ここにとどまるのは……。 「藤村さん、こちらをお願いします」  成沢に声をかけられ、我にかえる。 「あっ、はい! 成沢さん、本日もお疲れ様でございました」  千尋は返事をすると、成沢が差し出した包みを受け取り、帰宅する成沢を見送った。

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