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お仕事開始とあの夜と ④
成沢から受け取るこの包みには、いつもその日の夕食が入っている。
「今日は鯖味噌ですよ! おいしそうですね。ほうれん草の胡麻和えと黒豆ご飯もあります」
この家に居着きたくなる理由のひとつがこれだ。
食にさほど欲がなく、放っておくと栄養飲料で済ませてしまう光也のために用意された食事に、贅沢な料理は入っていない。いかにも家庭料理である二菜と米飯が主だが、愛情が染み込んでいると感じる優しい味がして、家庭料理に飢えている千尋にはご馳走だ。
「どれ? 本当だ。父さんてば、藤村君が来てから余計にはりきって作っている気がしますね」
着替えを終えた光也も タッパーから皿に移し変えてレンジにかける千尋の横に並び、二人でダイニングテーブルへ運ぶ。
「いつも私の分まで用意していただいてありがたいです。直接お礼を言えたらよいのですが……」
作ったのは社長ではなく光也を産んだ父だ。社長以上にたやすく会える相手ではない。
「藤村君が結婚に応じてくれたらすぐに紹介するんですが」
「またそんなことを。しかも結婚だなんて」
呆れ気味に言うと、光也は眉をハの字にして笑み、千尋の丸い頭をぽんぽん、としてテーブルに着く。この家に来てから、これもよくある会話。
それから、その日のニュースや出来事など、他愛もない話をしながら一緒に食事をとる。
オメガの性別判定を受けてから一六年。中高時代の昼食時間をのぞいて、誰かと食事をともにしたことが千尋にはなかった。
祖父宅では、食事は自室でとるように言われていたし、大学や会社でも他人との関わりを避け、いつも一人だった。
祖父の厳しい監視と「アルファに色目を使うな」の言いつけが脳に強く刻まれ、恋人どころか友人を作る勇気も持てずにいたからだ。
「藤村君? 食べないんですか?」
過去を思い返していたら、黒豆をつまんだままぼんやりとしていた。
「すみません。今日のおかずもおいしすぎて、感動しています」
「ふふ、大げさですよ。藤村君のお母さんも、こういった料理をよく作っておられるのでは? 今は一人暮らしでしたよね。たまにはご実家に戻られるのでしょう?」
「あ……」
家族のことなどわざわざ上司に話す必要はない。税法上の関連がなければ、会社への通達も不要なのだから。
だが、千尋は自然と口を開いていた。
「いえ……私の両親は早くに他界していて……祖父に育ててもらいましたが、就職と同時に祖父も亡くなって、それからはずっと一人暮らしなんです。だから家庭料理はあまり食べていなくて」
えへへ、と空元気に笑うと、光也は動きを止めていた。
「あっ、すみません、こんな話を突然」
明らかに驚き、戸惑っている。やはり話すべきではなかったと後悔した。だが光也は箸を置き、問いかけてくる。
「ご両親はいつ……?」
「私が八歳の、寒い時期でした。でも、事故のショックのせいか、両親がいた頃のことってよく思い出せなくて……それでも、両親と囲む食卓は楽しかったのは覚えています。おやつはいつも手作りで、近所の友達も来て、賑やかに食べた気もしますね」
薄らいでいる記憶に思いを馳せる。
あの頃には痛かった記憶や苦しかった記憶はない。だがアルファ同士の両親は、生きていて千尋がオメガだと知ったら、祖父と同じように千尋を恥ずかしく思っただろうか。
「……あはは。湿っぽい話は食事どきにはそぐわないですね。すみません」
「ごめん……なにも知らずに俺は……」
光也は身近な人を亡くしたことがないのか、そういう知り合いもいないのか、千尋の方が戸惑ってしまうくらいに辛そうに眉を歪めてうつむいた。
「えっ、なにがですか。話したのは私ですから! すみませんでした。食事、冷めちゃいますから、いただきましょう!」
千尋はつとめて明るく言って、茶碗に手をかける。
「藤村君」
来た、と思った。可哀想がられるのも同情されるのも苦手だ。だから話を切り上げたというのに。
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