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お仕事開始とあの夜と ⑥

「このエネルギー消費マップは大変よくできていますね」  千尋がプリントアウトした草案を確認しながら、光也は納得の面持ちでうなずいた。 「はい! どのプロセスでもエネルギー消費は避けられませんが、こうして工程の図式化をして都度試算を繰り返せば、必ずコストカットできる部分が見つかるんです」  マップシステムの発案と初期プログラムを組んだのは千尋だ。つい説明に熱がこもる。 「それと、もうどの社も導入していますが、この分野にもDX(デジタル技術)は不可欠です。故障や劣化の予測を早期に判断し、未然にエネルギーロスを防ぎます」  計算データを指しながら饒舌に説明する千尋に、隣同士で椅子に座る光也がふふ、と微笑んだ。 「あっ、すみません、つい気持ちが先走ってしまって」 「いいえ、熱意があって素晴らしい。細かく裏打ちされた多数のデータにも熱意が反映していますし、安心してこの仕事をお願いできますよ。引き続きよろしくお願いします」  よろしくお願いしますなんて、上司から言われるのは初めてで、背中も心もむず痒くなる。  やっぱり怒鳴られたりなじられたりする方が落ち着く気がする。おかげでこんなとき、どう返答をすべきなのか悩んでしまうのだから。 「あ、あり」 「うん、八十%までは仕上がっていますね」  言い慣れない「ありがとうございます」を言おうとしたところで光也が書類を閉じて、タイミングを失った。 「藤村君なら予定の残り十%は明日一日で仕上がるでしょうから、こちらはよしとして、こっちの方はどうかな?」 「? ……ひゃっ!」  きょとんと光也の顔を見るやいなや、側頭部に光也の手が回り、それを支柱に上半身を寄せられる。  気づいた時にはもう、光也の鼻が首筋に触れていた。 「せ、専務!?」 「うん、近づけば少し香るけど、発情フェロモンの放出はほぼなくなりましたね。これなら大丈夫かな」  すんすんと匂いを嗅がれる。  千尋は首をすくめながら、回転椅子のコマの力を借りて光也と距離を取った。 「だ、大丈夫です! 発情する要素はゼロですから!」 (パワハラ妄想オナニーもしていないし、クラブにも行けていないんだから!)  縮こまったまま首に手を当てて光也を睨むと、慈愛に満ちた瞳で見つめられた。    「ふふ、威嚇を覚えたばかりの子猫みたいだ」 「え? なんとおっしゃいました?」  呟くように言った光也の言葉が聞き取れずに、首をかしげる。 「いえ、別に。それより……私がそばにいるのに要素ゼロと言われるのは寂しいですが、それなら安心です。軟禁、明日で終わりにしましょうか。君を自由にします」 「え」  ああ、よかった! ……と一番に思うところだが、突然の終止宣言に頭の中が真っ白になった。  今いる空間が、急に別次元に切り替わったような、空虚な感覚がする。  まるで風の強い砂漠にぽん、と放り出されたような……。 (……? なんだ、この感じ)  胸がざわざわとする理由を考える。が、答えは浮かんでこない。 「藤村君?」 「あ、はい。終わり、ですね」  声をかけられ、迷子の思考を中断させた。

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