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おとぎ話の時間 ①

 千尋が使わせてもらっている部屋の南向きの窓からは、この屋敷の庭が見下ろせる。  一階のリビングルームから繋がる白いタイルテラスの先に手入れが行き届いた緑鮮やかな芝生が広がり、隣家との境の壁際には色とりどりの花が地植えされている。今はちょうど遅咲きの紫陽花であるノリウツギのライムライトが見頃だ。 「よかった。いい天気だ」  ライムグリーンの花弁から空へと目を移す。  二日前に梅雨明け宣言があった東京の空は、小さなまとまりのうろこ雲はあるが透き通るような青色だ。心なしかいつもよりも澄んだように感じる早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、千尋は窓を閉めて一階に降りた。  真っすぐキッチンに向かい、光也の朝食を作ってみようと考えて小鍋に湯を沸かす。  光也は普段朝食をとらない。食に欲がないため、軽いジョギングを終えてシャワーを浴びたあとは、各社の新聞に目を通しつつコーヒー杯で胃を満たして出社する。  成沢からも「光也様はご自身のスタイルが確立しておられますから、生活面にもお気遣いは不要です」と言われていたため、光也の朝食に関わったことはない。  でも、今日は用意してみたくなったのだ。デートかどうかは別として、光也が外に連れ出してくれる日だし、この屋敷で朝を迎えるのは今日が最後になるだろう。出かけようと言われて浮足立って一瞬忘れてしまったが、ここでの生活が終わることは確実で、外出から戻れば千尋は一人暮らしの家へ戻るのだ。  だから最後の日くらい、面倒をみてもらった感謝として朝食を準備したい。といっても家庭料理の記憶は薄く、教えてもらったこともないから簡単な味噌汁と卵焼きくらいしかできないのだが。 (専務、食べてくれるかな。朝食をとらない人には迷惑だったりしないかな……)  砂糖と醤油で味付けしただけの、甘目の卵焼きを菜箸で巻きながら、ふと思った。 (それもこんな庶民すぎる食べ物……専務のお父さんなら、ちゃんと出汁を使って作るよね)  やっぱりやめておこうと、残りの卵液は雑に流し、適当にくるくると巻く。同時進行で作っていた大根と油揚げの味噌汁も、大根が柔らかくなったかの確認をせず、火を止めて味噌をぶっ混んだ。  自分で食べる用にしよう。千尋はうなずいて皿に移し、ラップをかける。 「とてもいい匂いですね」 「!」  タイミング悪く、ジョギングから戻った光也がリビングに入ってきた。 「専務、お戻りでしたか。おはようございます」  いたずらを隠す子供のように、皿を背の裏に隠す。だが光也は汗を拭きながらそばまで来て、長身の頭をひょいと動かしてそれらを見つけた。 「へえ。藤村君も料理をするんですね。おいしそう。これ、量が多いですが、もしかして私の分もありますか?」  にこっ、と期待の笑顔を向けられる。 「いえ、あの、専務は朝食を召し上がらないし、庶民の食べ物など……しかも途中から適当にしてしまったので」 「違うと言わないということは、私の朝食を用意してくれたということですね?」  焦る千尋に対し、光也はマイペースに結論づけた。  察しがいいのも結論が早いのも、できる男だからだろうか。でも、適当になってしまった食事など出したくない。こんなことならちゃんと作ればよかった。 「あ、あの、でも、これはやっぱり違うというか、とても専務には」 「ありがとう。シャワーを済ませたらすぐにいただきますね」  断ろうと思ったところで礼を言われ、千尋は顔を赤くして床に視線を落とした。もう否定するには遅い。 「ふふ。千尋、かわいい」  敬語抜きでつぶやいた光也は千尋の髪に指を入れ、とくように撫でた。  千尋が視線を上に戻すと、優しく目尻が下がった顔が近くにある。 (あ……)  少しの汗が額や首を濡らしているからだろうか、光也の香りが鼻をくすぐり、息苦しくなった。  でも、ここに来た日のような不快さはもう感じない。感じないのだが、無性に胸が痛くなり、苦しくなる。  どちらにせよ、やはり苦手だ。 「……また漏らしてる。駄目だよ」 「え?」  無意識にうなじに伸びかけていた手を光也に止められる。代わりにうなじには光也の唇が触れて、舌でぺろりと舐め上げられた。 「ぁっ……!」  どうしたことか、一瞬で力が抜けて、膝が崩れてしまう。 「千尋……!」  光也は千尋の手首を掴んでいる手に力を入れ、腰にも手を添えて、身体を支えてくれた。 そして、もうひと舐め、ふた舐め。暖かいぬめりがうなじを這う。 「んっ……やっ……」 「フェロモンが滲んでいるから、拭っておいたよ。俺は先にシャワーをしてくるから、朝食、待っていて」  唇と身体が離れた。触れられていた箇所がすべてじんじんと熱い。 (フェロモン? 出してるつもりないのに……専務の体も熱かった。走ってきたからで、僕のフェロモンに反応したわけじゃないよね……?)   光也に支えてもらってせっかく立てたのに、また力が抜けていく。  千尋はキッチン収納の扉にずるずると背を滑らせながら、床にしゃがみ込んだ。

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