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おとぎ話の時間 ⑦

「……専務、行きましょう」  千尋は顔を上げ、光也の手を自分の手で下ろして切り出した。  突然だったためか、光也はぴんとこない様子で首をかしげる。 「もう帰りましょう。十分楽しませていただきました。私には過ぎる時間を、本当にありがとうございました」  難しく感じていた"ありがとう"がスムーズに言えたと気づくと、次からの「台詞」もスムーズだった。 「おかげさまで、今後の活力になりました。明日から秘書として専務のお力になれるよう、気持ちを引き締めて職務に当たりますね」 (そうだ、僕は部下だから、上司に依存していたら仕事にならない。立場をわきまえないと)  おとぎ話のお姫様も日付が変われば夢から醒めていたが、彼女は元々アルファのお姫様だった。だから幸せになれたのだ。  だが千尋は違う。千尋はどうしたって「卑しいオメガ」なのだ。 「……あ、そうそう。異動の日に用意していただいたスーツと美容室代! お支払いしないといけませんね。それから、泊めていただいていた間の服や日用品代も。分割払いの給料天引きって、お願いできますか?」  千尋が馬鹿明るくそう言ったとき、光也はようやく声を出した。 「藤村君、なんの話をしているんですか?」  困惑と、少しの憤りが混ざった低い声だった。それを覆うように、千尋はさらに明るく、おどけて続ける。  幼い頃から加虐されていると、身に受けるマイナスの感情をかわすためにヘラヘラとしてしまうことがある。かえってそれが相手の神経を逆撫でするとわかっているのに、なぜだか繰り返してしまう。 「ですから、一括支払いでは私には難しいというお話です。あまりの着心地のよさに、ネットで服のタグを検索したんですが、どれも高価で驚きました。秘書もよいものを身に着けるよう言われていましたが、まさかここまでとは驚きましたよ。あとは……今日かかった代金もお支払します。ヘリコプターってどれくらいかかる」 「千尋、君は」  べらべらと続ける言葉の途中、下の名前で呼ばれ、手首を取られた。 「いたっ」  強い力にゾクッとくる。異動になった日以来なかった、久しぶりの感覚だ。  こんなことに反応するなんて、やっぱりどうしようもないマゾヒストオメガだな、と笑えてしまいそうになったが、取られた手首から光也に視線を戻して、上がりかけた口角の動きが止まる。 「君は、なぜ俺が君にそうしたか、なぜ、今日俺が君と過ごしたのか、わかっているはずなのにそう言うのか」  敬語を解いた光也は、怒りではなく強い哀しみの色を瞳に乗せていた。 「専、務……」  蔑みの目なら慣れている。  中途半端でなく、思いきり汚いものを見るような目で見てくれたら、わずかな期待さえ持たずに生きていける。  憐れみの目は嫌いだ。  自分が可哀想な人間だと言われているようで、現実を突きつけられて踏ん張れなくなる。  でも、哀しい目はわからない。  咎めるでもなく卑しめるでもなく、同情でもない目。  千尋の性別や環境など、外装に対して向けられているのではないのはわかるが、今まで一度も向けられたことがない視線だ。 「……出るよ」  光也に手首を引かれ、夢のような時間を過ごした遊園地から出る。  光也の歩幅が千尋のものとは違うから、千尋は小走りにならざるを得なかった。

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