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おとぎ話の時間 ⑨

「お風呂、追い焚きのままにしてあるから入れるよ。どうする?」 「あとにします。ここ、夏なのに涼しくて、もう汗が引きましたから」  そうは言ったが、風呂に行ってしまったら光也が眠ってしまう気がして、寂しくて行きたくなかった。 (寂しいなんて、勝手だな。専務と距離を置こうとしたくせに) 「千尋、見て?」 「はい?」  声をかけられ、光也が指差す先、広い夜空を見上げる。 「わ……」  東京では見ることができない、まばゆい満点の星。  周囲は暗く、明かりは室内側の足元照明とバルコニーにあるテーブルの上の小さなランプだけだから、宇宙に放り出されたような感覚になる。少し怖くなるほどだ。 「このあたりの別荘はここだけだなんだ。山頂に近いから気温も低めだし静かだし、星が見放題なんだよ」 「そうなんですね。デネブ、ベガ、アルタイル……天の川までちゃんと見えますよ。凄い!」  目が慣れてくるとさらによく見えて、感嘆の声を漏らす。 「星に詳しいんだね」 「はい。小さな頃から好きで」 「そう。きっかけはなんだったの?」  光也が優しい瞳で聞いてくれるから、ここに来る前、遊園地で嫌な雰囲気を作ってしまったことは心の隅っこに預けて会話を続けることができた。 「あ、あの、小さい頃の友達が……教えてくれて……」 「友達、か。……どんな子だった?」 「どんな……?」  両親が亡くなる以前の記憶はもうおぼろげだ。事故のショックが原因なだけでなく、八歳という幼い年齢だったからか、その時期の友人たちの記憶もほぼない。  だが、星を教えてくれた子とは一番仲がよかった気がする────千尋は遠い遠い記憶をゆっくりと掘り起こし始めた。 「あの子は……望遠鏡を持っていて……そうだ、僕と体の大きさは変わらないのに、年上だったから……僕が興味を持ったら、いろいろと教えてくれたんです」  千尋が住んでいたマンションのベランダは東南向きだったから、季節の星空がよく見えた。春は乙女座、獅子座。冬はオリオン座にふたご座。  でもやっぱり、夜空に羽を広げるはくちょう座がある夏の夜空が好きで。  星を眺めたあと、一緒の布団の中で、白鳥の尻尾のデネブは太陽よりも大きいんだよ、と教えてもらった。 (あれ? どうして夜も一緒にいたんだろう) 「……ああ、思い出した。その子は星が好きなのに夜の暗闇が怖くて。ほら、ホラーハウスのときに話したお化けが苦手な子ですよ。僕が小学校に上がるときにお父さんと二人でお隣に越してきたんですけど、お父さんが仕事から帰るのが遅くて、たいていは僕の家でおやつと夜ご飯も食べて、一緒に眠りました」 「そう。兄弟みたいに、いつも一緒にいたんだね」  テーブルランプの灯りなのか、星明りが反射しているのか、光也の瞳には穏やかな光が宿っている。  その穏やかさに導かれるように瞼を閉じ、千尋は再び記憶の欠片を探した。 「はい……その子は男の子なのに、女の子みたいに綺麗で優しくて……お父さんが外国の血が入っていたからかな。髪と目が薄い茶色で……あぁ、ちょうど専務みたいな……」  瞼を開いて隣のチェアに視線を向けると、琥珀色の瞳が真っすぐに千尋を見ていた。

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