67 / 91

混迷と昏迷のあいだで ⑤

 しばらく放心してマウスに手をかけたまま、焦点が合わない目で回線が切れた画面の奥を見つめていた。  我にかえったのは、部屋のドアがノックされたときだった。 「藤村さん、ヒアリングが終わる頃かと声をかけに参りました。昼食の準備ができておりますので、ダイニングに降りていらしてください」  成沢だ。いつの間に光也の送迎から戻っていたのか、防音が効いた屋敷とはいえ帰宅したことにまったく気づかなかった。 「わかりました……」  食欲はないが、部屋にこもり食事をとらなければ、成沢から光也に報告が行くだろう。  千尋はようやくマウスを操作し、パソコンの画面を切った。  ダイニングに入ると鶏出汁の香りがした。テーブルの上には中程度の大きさの電気鍋があり、暖かそうな湯気が昇っている。 「お粥、ですか?」  電気鍋の中を覗くと、くたくたになった鶏手羽に(なつめ)、クコの実や松の実が入ったお粥が煮立っている。鍋の横に置かれた角皿には錦糸卵や水菜が付け合わせで用意されていて、彩り豊かだ。  食欲がなかったはずの千尋にも、早く口にしたいと思わせる。 「はい。叶夫人がお作りになった中華粥です。光也様をお見送りしたあと、鎌倉のご自宅に寄るよう申し使っておりました」 「え……夜の食事も作ってくださっているのに、申しわけないです」 「藤村さんのことを社長や光也様からお聞きになり、お心を痛めていらっしゃいました。食事でしか応援できないけれど、とおっしゃっていましたよ。さ、夫人のお心遣いを召し上がってください」  きっとクリフ夫人は、心身ともに落ち込んでいるだろう千尋のためにメニューを考えてくれたのだ。口に運ぶと優しい味がして、胃がほんわりと温まる。  落ち込んでいた気持ちが少し救われたような気がして、幼い頃に見た面影しかない夫人に早いうちに挨拶に行けたらいいなと思った。  長引くと思われたヒアリングも二回で終了したが、光也が戻るまでは自宅待機を命じられている。会社からの書類が到着するまではすることがない。  ベットに転んでみたが昼寝の習慣がないから寝つけず、不意に物寂しくなり光也の部屋へ向かった。 (みっくんの匂いがする……)  ローションもフレグランスもこの部屋にあり、後ろをほぐすのも決まってこの部屋だから、息を吸い込まなくても光也のフェロモンの香りが漂っている。  でも、足りない。  ベッドの上で「おいで、千尋」と手を広げてくれる光也がいない。  光也が発ってまだ五時間程度なのに、ひとたび光也の欠片を感じてしまえばそこに存在がないことが切なく、寂しさが胸を締めつける。  再会してからの半年、四六時中と言っていいほど一緒にいて、それが当たり前になっていたから。  千尋は光也の部屋のクローゼットを開け、中からさまざまな衣類を引っ張り出した。  リラックスウェアも、仕立てのいいスーツも、光也の輝きを増す外出着も、とうとう下着まで。不思議に無我夢中になっていた。  それらをベッドの上に山にして積み上げ、上に倒れ込んでみる。 (ああ、さっきよりも香りが強い。みっくんがいるみたい)  下敷きになった衣類を一枚掴んで顔に当て、息を吸い込む。大好きな甘い香りにうっとりして、次は自身を包むように衣類をかぶせた。  こうすると光也自身に包まれているような錯覚が起こる。千尋は光也の衣類で作った城の中で赤ん坊のように体を丸めた。  しばらくはこの心地よさに浸り、傷ついた心を癒やしたい。 (そうだ、あれも。僕の、大事な……)  しばらく光也の城の中で満足していた千尋だが、思いついてベッドサイドワゴンの引き出しを開けた。中にはローションとフレグランス。ハンドカフスもコックリングもある。  自然と口角が上がったことに自分では気づかずに、それらを取り出す。フレグランスは衣類に振り、自分にも浴びせた。  途端に充足感が満ち、同時に腹の底が熱くなる。 「ふぁ……どうしよう、したくなっちゃった」  こんなときに、いや、こんなときだからだろうか、すべてを忘れて自分の欲情に身を任せたい。  千尋はいつも光也がつけてくれる手を思い出しながらコックリングをはめ、片手にハンドカフスを握りながら、ローションをたっぷりと垂らした片手を後孔に滑り込ませた。

ともだちにシェアしよう!