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混迷と昏迷のあいだで ⑦
千尋は急いでスマートフォンの向きを変えた。が、もう遅い。
光也は「俺の服を集めて……」と口元を押さえるとうつむいて無言になり、肩を震わせ始めた。
(どうしよう。こんなおかしなことをして、高価な服を駄目にしたと怒っているのかも!)
千尋には自覚はないが、千尋がしているのはオメガの巣作り、通称ネスティングだ。
オメガは愛するアルファへの思慕が高まると私物を集めてしまう習性がある。特に発情期に多く見られる行動で、それをネスティングというが、千尋ももちろん知識はある。だが長きに渡り発情期がなく、そうしたいと思ったこともなかったから、今も自分がしているのがネスティングだと気づいていない。
「あの、これは、虫干しを。そう、虫干し! たまには外の空気にも当てなくちゃって。でも、すぐに片付けておくから!」
「いいんだよ、千尋。そのままにしておいて。凄く嬉しいから」
千尋が必死に言いわけをすると、光也はおもむろに顔を上げて言った。
「え……?」
口元から手を離した光也の顔は怒っていなかった。怒っていないどころか、どこかだらしなく笑っているように見える。
琥珀色の瞳の目尻をいやに下げ、頬を落として口元を緩ませている。
(なんだろう、この顔……それに今、嬉しいって言った? なにが!?)
「ねぇ、千尋。そのベッドで、俺の服をかぶっているの? その中に埋うもれて、ローションを使って……自分でほぐしてた?」
「うっ……」
「したんだ?」
スマートフォンのスピーカー越しの声が甘ったるくなる。夜のベッドで「千尋。しよう?」と言う時と同じ響きだ。思い出して、上半身がじんわりと汗ばむ。
「あの……でも、みっくんがしろって……」
違う。自分が光也にしてほしくて、想像しながらいじっていたのに。
恥ずかしさと襲ってくる欲情で、うなじが火照ってむず痒くなる。下腹にも疼きを覚えた。
「うん。そうだね。ちゃんと俺を思い出してしているんだね。千尋、いい子。……ねえ、今もしてみようか? ベッドで寝転んで、俺の服の中に埋もれて、触ってごらん?」
囁くような声。それだけで、尾てい骨からうなじを光也の長い指で撫で上げられたような、ぞくぞくする感覚が走る。
頭の中がぼんやりしてきて、光也の服を一枚引っ張りかけた。
(みっくんに見てもらいながら……みっくんの香りの中で……)
腰をベッドに沈ませる。しかしその時、プルルルル、と光也のいる部屋で室内電話のコール音が鳴って、はっと我にかえった。
「……専務! そろそろお仕事に向かう時間ですよ! いってらっしゃいませ!」
「おや残念。千尋がするところ、見たかったな」
含み笑いで言われて、千尋の顔はもう、苺のように赤くなっていた。
光也はまだ少し目尻を下げてはいるが、声をいつものトーンに戻すと、ヘーゼルブラウンの髪をかき上げて続けた。
「実は予定より早く帰れそうなんだ。皆さんは観光で残るけど、俺は一刻も早く千尋の元に戻るから、帰ったら、自分でするところを見せてね」
見せてだなんて! と言いかけると、光也は今度は真面目な顔になる。
「でも千尋、外には出ないで。発情期が始まっているとしたら大変だから。……じゃあ、そろそろ行くけど、約束だよ? ちゃんと家の中にいるんだよ」
光也は腕の時計を見ながら早口になり、そこでビデオ通話は切れた。
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