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第3話

 昼前に帰宅したが、誰もいなかった。冬也は土曜の午前は部活だとわかっているが、両親が揃って不在の理由はわからない。一緒に出かけているのだろうか。家に帰るときには誰かしら居るので、家鍵を使うのは久々だった。  リビングに行き、荷物を放り出してソファに横になる。常に何かしらの物音がしている我が家において、完全に無音なのがなんだか奇妙だった。窓の外から、正午を知らせる鐘の音が聞こえた。  いつの間にか寝ていたようだ。玄関から聞こえてくる物音で目を覚ました。身体を起こすと、うわ! と声が聞こえた。声がする方を見ると、冬也が廊下で固まっていた。 「誰も居ないかと思った!」  驚いている冬也に、ごめん、と形だけ謝罪をする。 「何かあったの?」  冬也の勘がいいのか、単純に帰りが早いことに違和感があったのかはわからない。待ってましたとばかりに、聞いてくれよ、と切り出した。  しょうちゃんと会う日の帰りはだいだい翌日土曜日の夕方が定番となっている。だから昼に帰ってきたところで俺の分の昼食の用意はなく、冬也は用意されていた作り置きを、俺はたまたまあったカップ麺を食べた。  昼食をとりながら、昨日と今朝の出来事をかいつまんで冬也に話した。 「急に好きとか言われても訳わかんねぇし、寝込み襲うとかあり得ない」  憤慨する俺を前に、冬也がぽかんとしていた。 「何?」 「しょうちゃんと付き合ってるんじゃなかったの?」  冬也は、俺としょうちゃんが付き合ってると思ってたらしい。そもそも付き合っていなかったことが衝撃だったらしく、俺からしてみたらカップルだと思われていたことが衝撃だった。 「え、だって俺ら男同士だぞ? しょうちゃんはともかく、俺はゲイじゃないし」 「ダイナミクスだって第2の性じゃん。別におかしくないでしょ」  そうだけど、と口ごもる。世の中にはダイナミクスのカップル、つまりDomとSubのカップルは多く存在する。大半は男女だが、中には同性のカップルも存在している。しかし、ダイナミクスは問わず、同性のカップルは稀である。  兄ちゃんはどうしたいの、と冬也が言う。え、ととぼけると冬也が畳みかけるように言葉を続けた。 「告白されたんでしょ。この先どうする? しょうちゃんがダメなら早く新しいパートナー探さないと」  かなり痛いところを突いてくる。しょうちゃんとの関係、新しいDomのパートナー。ややこしい問題が一気にふたつも発生した。しばらく考えたくもなかったが、そんな甘えた考えを弟が許してくれなかった。  しょうちゃんのことは一旦置いておくとして、Domのパートナー問題はかなり深刻だ。うまく欲を発散させなければ、心身に不調をきたしてしまう。  欲求の溜まり方には個人差の他にも体調やストレスなどが大きく影響する。社会人になった今では2週に1度くらいのペースでしょうちゃんに付き合ってもらっているが、学生の頃にはそこまで必要ではなかった。 「アプリとか入れてみたら?」  自分が提示してきた問題について、冬也が最速で解決策を出してきた。うーん、と煮え切らない返事をすると、他に方法はないでしょ、と詰め寄られた。気が進まない理由は、面倒臭い、その一言に尽きる。  そもそも、しょうちゃんとはダメになったのだろうか。好きと言われて返事はしなかったし、返事を期待されていたとも思えない。今まで通りではダメなのだろうか。  しょうちゃんの立場になって考えてみる。告白がなかったことにされて、今まで通りに振るまわれたら、疑心暗鬼に陥る自信がある。  どうしてしょうちゃんは告白なんかしてきたんだろうとモヤモヤするが、俺が言わせてしまった気もする。気付かなかったふりをしておけばこんなことにはならなかった。しかし、それはそれで理不尽な気もする。  結局のところ、何が正しかったか正解など存在しない。  しょうちゃんのことを考えるのも面倒臭いが、相手探しも面倒臭い。  アプリ選び、初期設定に始まり、相手探し、連絡のやりとり。一連のやらなければいけないであろうプロセスを想像すると、いつまででも手を付ける気になれそうもない。 「このアプリがいいんじゃない? 無料だし、試してみたら?」  まだやるとも言っていないのに、冬也がスマホで検索して画面を見せてきた。画面を一目見て、うんでもすんでもない、んー、と曖昧な返事をした。 「スマホ貸して。入れてあげる」  指紋認証をしてロックを解除した状態で自分のスマホを手渡す。冬也が自分のスマホを見ながら、俺のスマホを操作する。その間に、空になったカップ麺の容器と箸、冬也の空いた皿を流しに持って行き、ついでに洗う。  面倒なことになった。なぜか冬也がやる気になってしまった。弟は一度やると決めたら完遂させるタイプなので、この先何度も催促されるよりはやらせておいて満足させる方がいいと思った。  洗い物を終えて、掛けてあったタオルで手を拭いて席に戻る。途中、後ろから画面を覗き込むと、アプリのインストールを終えて細々としたプロフィールの設定をしているところだった。 「相手に求める性別は?」 「女」 「希望する年齢は?」 「年が近い方がいいかな。あんまり若いと話が合わなそうだし」  設定に必要であろう項目を冬也が読み上げ、テレビを見ながら適当に答えた。  30分ほど触らせておいて、後はやって、とスマホを返される頃には、初期設定が完了してアカウントができあがっていた。顔写真はだいぶ前に家族で撮った写真が使われており、映えとは程遠い代物であった。  今時の若者はインスタだのYoutubeだの、平気で顔を映しているが、個人情報がどうのとうるさかった世代の俺にとっては、顔写真と年齢がネットに公開されることに抵抗がある。さすがに本名までは伏せられていたが、本当に大丈夫なのだろうか。  冬也が登録した俺の個人情報に目を通していると、アプリから通知のお知らせがあった。通知は一件だけではなく、二件、三件と感覚を空けてパラパラ入る。どうやらこれは、ユーザーが自分をお気に入りに登録すると通知されるらしい。双方お気に入り登録し合うとマッチング成功となり、個人とのやりとりのフェーズに進むことになる。  Subの男は女にモテない。これは通説であり、実体験でもある。  世間的にマゾの男は気持ち悪いという概念が植え付けられている。Subは支配されたい欲求であり、相手からの精神的、肉体的苦痛に快感を覚える異常性癖を表すマゾヒズムとは別物であるが、Normalには同じに捉えられ理解されることが難しい。例えば俺はSubであるが、痛いことや苦しいことは苦手なので多分マゾではない。しかし、第2の性と性癖が直結している場合も少なくないので、理解されなくても無理はないのかもしれない。大学時代に合コンでゲットした彼女も、第2の性を打ち明けるとそれとなく距離を置かれ、別れ話を切り出された。2回同じ経験を繰り返し、それ以来彼女を作ることは諦めた。  世間から需要のないSubの男であるが、多少ニーズがあったらしい。このアプリは恋活や婚活アプリではなく、単にDomとSubのマッチングアプリであった。  早速通知欄を見に行ってみる。揃いも揃って、気の強そうな女性の顔が並んでいた。背後に回り込み、一緒にスマホを覗き込んでいた冬也の方を見る。冬也と目が合ったが、冬也は表情を変えず、視線はすぐに俺のスマホに落とされた。  こいつはどんな条件で登録をしたのだろう。もう一度マイページに戻り、相手に求める条件欄の記載内容を確認する。第一の性「女性」、第二の性「Dom」、希望する年齢「20代から30代」、コメント「よろしくお願いします」。冴えない顔写真に飾り気のないコメントに、よくお気に入り登録してくれたものだと思う。  女性に多くは求めないが、笑顔が可愛い子がいいなと思っている。失礼ながら、アイコンの写真を見る限りお気に入り登録してくれた人の中に条件が合いそうな子はいなさそうだった。  興味をなくしたのか、冬也は俺の背後を離れて自分の部屋へ戻っていった。冬也が離れたタイミングでアプリを見るのをやめた。その後もパラパラと通知が入ったが、時間が経つにつれてその間隔は空いていった。  夜寝る前、ベッドの上で何気なくアプリを開き、溜まっていた通知欄に目を通した。条件を女性に絞っているはずなのに、なぜか男性からも2件お気に入り通知が入っている。生理的に嫌悪感を感じてブロックした。いつの間にか、自分が選ぶ側の優位な立場であるように錯覚している。  画面に指を滑らせて一通り通知を眺める。一様にDom女性にはとっつきにくい印象がある。ふと、スクロールさせていた指を止めて、ひとりの女性の自己紹介ページを表示させる。  目は大きく垂れ目、長い睫はカールして上を向いている。唇はぷっくり赤く、顔の輪郭も丸めであった。年齢は32歳とあったが、目の大きさとメイクのせいで幼く見える。右目の下にホクロがあり、童顔でありながら色気を感じさせられた。ホクロの位置が同じで一瞬しょうちゃんを思い出したが、すぐに意識の外に追い出す。  ボディラインも丸みを帯びており、白いセーターの上からでもわかるバストの大きさに釘付けになった。  よく考えもせず、ハートのアイコンをタップした。これがOKのリアクションであり、マッチング成功ということになる。アプリ初心者につき次のアクションを待ったが何の反応もない。待ちくたびれてそのまま眠ってしまった。  翌朝、9時頃に目を覚まして枕元にあったスマホの電源を付けると、マッチングアプリから通知があった。アプリを開いてみると、例の彼女からコメントが来ていた。眠気は一瞬で吹き飛んだ。 「はじめまして、リカコです! マッチングありがとうございます。たくさんお話して、お互いのことを知っていけたらいいなって思っています。よろしくお願いします」  使い古されているであろう定型文であったが、スマホを握る手に汗をかいた。画面の向こうに写真で見た彼女がいるのだと思うと緊張する。まずは返信の文の参考例をネットで検索してほぼそのまま送った。昼頃彼女からレスポンスが来て、その後はあまり間隔を置かずにメッセージのやりとりが続いた。  リビングのソファに寝そべって彼女へのメールを打っていると、冬也が近づいてきた。早速マッチングしたことを報告し相手の写真を見せると、冬也はわかりやすく男受けする女だ、自分はこういう女嫌いと言って眉を顰めた。彼女のことも、そして遠回しに自分のことも馬鹿にされたような気持ちになって腹が立った。それくらいには、まだ会ったこともない彼女に夢中になっていた。 「勧めておいてこんなこと言うのもなんだけど、やっぱりやめておいた方がいいんじゃない? 危ない気がする」 「大丈夫だろ。俺は男だし、もう成人してるんだし」  突き放すような言い方をしたため、冬也は二度と口を出して来なかった。冬也の忠告は完全無視で彼女とのやりとりは続き、トントン拍子で金曜日の夜に直接会うことが決まった。  仕事を定時で切り上げ、スーツのまま待ち合わせ場所に直行する。指定の場所は、自宅の最寄り駅から4駅離れた駅の改札口。普段は近づかない馴染みのないところであった。電車を降りた時点で彼女に連絡を入れ、改札を出て周囲を見回した。彼女はもう駅に着いているはずだ。改札は、帰宅する人で混雑している。  端によけ、スマホを片手にキョロキョロしているとツンツンと横から肩を突かれた。 「三井さんですか?」 「は、はい」  声を掛けられた時は誰だかわからなかった。右目下のホクロを見てピンときた。 「リカコです。今日はよろしくお願いします」  こちらこそ、と軽く会釈をした。本人を目の前に急に緊張してきた。女性とプライベートで交際を持つのは学生の時以来だ。 「私の行きつけでいいですか?」 「はい」  ガチガチになっている俺を見て、ふふふ、とリカコさんが笑う。 「じゃあ早速行きましょうか」  俺の腕をとり、ぎゅっと胸を押し当ててきた。からかわれていることに気付いてはいたが、嫌な気はしなかった。  隣に並ぶと、彼女の身長は俺の目線の高さくらいだった。しかし厚底の履き物を履いているので、実際にはもっと低い。密着しているので、風に乗って彼女の匂いが濃く伝わってくる。柔軟剤とシャンプーと、それから香水だろうか。それぞれの甘い匂いが混じってくどい匂いになっている。  写真と本人ではだいぶ印象が違っていた。写真からは目が大きくて幼い印象があったが、実際にはそこまで目は大きくなくて年相応に見える。また、少々ぽっちゃり気味だろうと思っていたが、想像していたよりも丸かった。  詐欺だと思うのと同時に、こういうものかとも思う。写真を加工するアプリは大量に出回っているし、履歴書の写真も加工できる時代である。自分の写真は一切加工していないが、相手が初見で自分をどう思ったかわからない。  腕にバストの感触を感じながら、駅から少し離れたバーに入った。少し奥まったところにあり、外見も一軒家そのものだったのでひとりでは絶対にたどり着けなかったと思う。店内は薄暗く、カウンター席とテーブル席があり、カウンターの向こうにはずらりとボトルが並んでいた。他に客の姿はない。 「いらっしゃい。リカコちゃん、また新しい彼氏?」 「やだっ、変なこと言わないでくださいよぉ」  大人っぽい隠れ家的な雰囲気でいい店だと思うけれど、アウェイ感が凄まじい。  リカコさんに引っ張られて奥のカウンターに並んで座った。席に着いても、腕は離してもらえなかった。 「何飲む?」  えーと、と言いながら視線を店内に彷徨わせる。メニューのようなものは見当たらず、ビールってありますか、とマスターに聞いた。ありますよ、とマスターが軽く微笑みピルスナーがおすすめです、と言いながらメニューを手渡された。じゃあそれで、とメニューに一瞬だけ視線を落として答えた。馴染みのない名前ばかりで、見たところでわからないだろうと判断した。 「リカコはジン・トニックね」 「かしこまりました」  マスターが早速準備に取りかかる。  バーと言えば、ウイスキーや焼酎、カクテルなどの小洒落た酒しか取り扱っていないイメージがある。安いチェーン店の居酒屋しか入ったことがないので、こういうところは落ち着かない。 「バーとかあんまり来ない?」  声を掛けられて、自分がキョロキョロしていたことに気が付いた。 「はい。あんまり慣れてないので、落ち着かないですね」 「ふーん。それより、セーフワードは何にしましょうか」  とっさにマスターに目をやる。幸い、マスターはこちらに背を向けていた。しかし、聞こえていなかったとも限らない。  セーフワードとは、プレイにおいて使用するギブアップを意味する合い言葉のようなものだ。 「じゃあ、ごめんなさい、で」 「前のパートナーとのセーフワードも同じだったんですか?」 「パートナーとはちょっと違うんですけど……はい」 「前のパートナーはどんな人だったんですか?」  なぜかリカコさんは目を輝かせて食い気味だが、俺はマスターに聞かれてはいないかとヒヤヒヤする。第二の性は、大っぴらに公表するものではない。 「ただの友達ですよ」 「ふーん」 「失礼します」  マスターがカウンター越しにそれぞれの前に酒を置いた。乾杯しよっか、とリカコさんが声を掛けるまで、会話を忘れてマスターの所作に見とれていた。  乾杯、とリカコさんがグラスを少し持ち上げたので、同じようにグラスを少しだけ持ち上げて乾杯、と復唱した。安居酒屋なら一口目は一気に半分ほど空けてしまうのだが、高級感溢れるバーではそんな野暮なことはできない。そもそも、グラスの形からして違う。バーで出されたビールのグラスは、細長くジョッキよりも小さくて繊細だった。 「うま!」  思わず声が漏れた。マスターと目が合い、にっこり微笑まれて恥ずかしかった。  ちびちびやりながら、メニューに目を落とす。どれもこれも安酒の倍以上のお値段がするが、洗礼された店内の雰囲気とこの味なら納得である。次は何にしようかと考えていると、三井さん、と声を掛けられた。はい、と返事をしながら顔を上げる。  じっとしててね、と言いながら、彼女が俺の首に腕を回した。突然のことで、ビクッと身体が反応したきり動けなかった。 「はい、できた」  彼女が満足そうに目を細める。嫌な気がして恐る恐る首に触れた。指先が、固い皮に触れる。何の断りもなく、彼女に首輪を嵌められた。 「おすわり」  椅子から転げ落ちるようにして、膝が床についた。さっきまでカウンター席の椅子に座っていたのに、地べたに座り込んで絶望的な気持ちで彼女を見上げている。 「よしよし、いい子いい子」  彼女が椅子に座ったまま俺の頭を撫でる。三井さんは白が似合うと思ってたんだよね、と言いながら、空いている隣の椅子に置いてあったバッグを持って膝の上に乗せる。バッグから出てきたのは、首輪と同じ白のリードだった。慣れた手つきでフックを俺の首輪に繋ぎ、自身はリードを持ってカウンターに向き直った。 「リカコさ」 「わんちゃんは喋っちゃダメでしょ?」  口を閉ざして項垂れる。DomとSubである以上、ゆくゆくはこういうことをするのだろうとは思っていた。しかし、今日は初日である。少なくとも、このタイミングでするべきことではない。だが、彼女がプレイをしたいのならば、付き合うべきなのだとも思う。このために、アプリで出会ったのだから。  ヒトは見た目ではDom、Sub、Normalの判断は付かない。リカコさんのコマンドで身体が勝手に動いたということは、やっぱりリカコさんはDomなのだと改めて思う。  荷物が多い女性が多いのであまり気にならなかったが、意識してみると彼女の鞄が大きいことに気付く。この中から、首輪とリードが出てきた。あと他には何が入っているのだろう。せめて、痛めつけるようなものでなければいい。  こうしている間に、ビールの泡が抜けていく。まだ半分しか飲めていない。こんなことになるのならば、乾杯の後にイッキしておけばよかった。  彼女が椅子を回転させてこちらに向き直り、腰を屈める。あーん、と彼女が差し出す指には、お通しで出てきたナッツが挟まれていた。無感情に口を開ける。口に入れられたナッツを、ポリポリと音をさせながら咀嚼する。何の味もしない。 「おとなしくていい子だね!」  彼女が上機嫌に俺の頭を撫でる。少しも嬉しいとは思えなくて、しょうちゃんや冬也に褒められている時はどんな感じだったかと思い出そうとした。少なくとも虚無感は感じていなかった。  冬也の言うことを聞いておけば。そもそも、手っ取り早くアプリで相手を見つけようなどと思わなければ。そもそも冬也がアプリを入れたからと責任転嫁しようとしたところで、ガラッと店のドアが空いた。  瞬時に音がした方に顔を向ける。いかにも仕事帰りの、スーツ姿の男性が3人。ひとりは年配で後のふたりは若手社員。上司の奢りで親睦を深める、といったところだろうか。3人の視線は、無様に床に座り込み、首輪にリードを付けられている俺を捉えた。すぐに年配男性の視線はマスターに、若手ふたりも気まずそうに目を逸らした。 「リカコちゃん、また新しいペット?」 「ちょっと! 人聞きの悪いこと言うのやめてよ」  俺のことをわんちゃんと呼んだのは、一体誰だったか。  年配の男性はリカコさんと知り合いのようだった。席をふたつ挟んでカウンターに掛けた。若手ふたりも、それぞれ並んで腰掛ける。  上司は俺に構おうとしてきたが、リカコさんの指示を守って沈黙を貫いた。Domの命令だったから、というのもあるが、面倒で相手にしたくなかったというのが本音だ。若手ふたりは、徹底して俺を見ようとはしなかった。一番この上司みたいにちょっかいを出してくる人間が嫌いなはずなのに、いないものとして扱われることの方が悲しかった。  店を出たら、この関係はなかったことにしてもらおう。中にはこういうことを望むSubもいるけれど、あくまで俺は人として平等に扱われたい。  お会計は、リカコさんが払ってくれた。結局半分残ったピルスナーを口にすることはなく、それ以外はリカコさんが飲み食いした代金なのだから、彼女が払うことは当然だと思う。  リードを引かれて外に出る。ドアが閉まると、すぐにリードが外された。ぽかんとしている俺に、三井さん、あんまりこういうの好きじゃないでしょと彼女が言う。 「嫌だっていうのが伝わってきた。だから、もう終わり。嫌なら嫌とちゃんと言わないとダメだよ」 「……すみません」  手際よく彼女が俺の首から首輪を外した。息がしやすくなったような気がしてほっとした。「会うのはこれで最後にしましょ」 「はい」  俺から別れを切り出そうとしたのに、向こうから切り出されてなんだか拍子抜けしてしまった。バーの前で別れて駅に向かって歩いている時、せめて自分の分は払おうと思い直した。すぐに後ろを振り返るが、彼女の姿はどこにもなかった。

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