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第4話

 帰宅してすぐ、着替えもせずにベッドにもぐり込みそのまま寝てしまった。ひどく疲れた一日であった。  翌朝、母親が弁当箱と水筒が出ていないことに対して部屋まで小言を言いに来た。俺が着替えもせずベッドの中にいることを知ると、怒って部屋を出て行った。母親の機嫌が悪いのは何かしら面倒なので、すぐにフォローが必要であった。  頭ではわかっているのに、身体が動かない。結局ベッドから一歩も動けずにまた眠りについた。  次に目を覚ました時には夜になっていた。急に部屋が明るくなって目を開けると、ドアが開いており冬也が立っていた。 「兄ちゃんが起きて来ないって母さんがカンカンなんだけど。どっか悪いの?」 「いや、別にそんなことはない」  ベッドの上に身体を起こす。寝過ぎで身体中が痛い。寝起きで頭と身体が重い。そんなものは体調が悪いには含まれない。  ふーん、と冬也が興味なさそうに相槌を打ち、部屋の中へ入ってきて机にしまってきた椅子を引っ張ってきて腰掛けた。それより、と話題を変える。 「昨日マッチングしたDomと会ってきたんでしょ。どうだった?」 「いい人だったと思うよ。けど、もう次はないかな」  そっか、と冬也が素っ気ない反応をする。俺と恋バナでもしたかったのだろうか。相手をするのが面倒なので、早く出て行ってほしい。 「寝るのはいいけど、せめて服は着替えなよ」  冬也が立ち上がり、椅子を片付けた。 「ご飯、ラップ掛けて置いてあるから後で食べな」  そう言い残して冬也が部屋を出て行った。まるで母親のようだ。  起きたついでに、言われた通りに寝間着に着替えた。ワイシャツだと寝返りを打つ度に突っ張って寝苦しかった。部屋を出てトイレに向かう。用を足して、水が流れる音を聞きながらご飯を食べに1階へ降りるべきか一瞬悩む。しかし、お腹は空いていなかったのでそのまま部屋へ引き返してベッドに入った。  日曜日の朝。母親が体温計とペットボトルの水を持って部屋を訪ねてきた。夕飯がそのままになっていたので、調子が悪いのではと心配したようだ。体温を測らされたが熱はない。相変わらず身体が重く、頭がぼーっとする。起きれるようなら起きてきてご飯を食べろと言われたが食欲がない。母親が、脱ぎ捨ててあったワイシャツやらズボンやらを持って部屋を出て行ったのを見送ると、また布団に戻って目を閉じた。  金曜日の夜からほとんど食べ物を口にしていない。母と弟がちょこちょこ部屋に顔を出してお茶や水を置いていくので、水分だけは採っていた。お腹が空かないのはどこかおかしいのだと体感でわかる。しかし、少しも欲しいとは思わなかった。月曜の朝になっても調子が戻らなくて、しばらく悩んで会社に電話して休みをもらった。  このまま治らなかったらどうしよう。原因は多分、Subドロップだと思う。中学受験の頃、Sub性の発現と受験勉強のストレスが重なって一時期体調が悪い日が続いていたことがあった。  Subドロップとは、Sub特有のストレス症状のことだ。  自分で思っていた以上に公共の場で地べたに座らされたことがストレスだったのかもしれない。  控えめにドアが開く音で目が覚めた。土曜日は一日中眠れていたが、そのせいで翌日以降は睡眠が浅かった。一日中横になっているせいでずっと身体が痛い。動いた方がいいのだろうが、身体が重くて動きたくなかった。浅い眠りと覚醒を繰り返し、身体は痛くて重くて気分は塞ぎがちになっている。最悪だった。 「兄ちゃん、起きてる?」 「冬也か。何?」  冬也が帰ってきたということは、だいたい午後8時くらいか。身体を起こしてドアの方に顔を向ける。冬也の後ろに、しょうちゃんが立っていた。 「は、しょうちゃん? 何でここにいるの」 「冬也から連絡もらって連れてきてもらった。それより、具合悪いんだって? 大丈夫か」  あーうん、大丈夫、と適当に返事をした。  なぜしょうちゃんが家にいるのだろう。本人にも問うた質問を再度自分に投げかける。  しょうちゃんが越す前は俺としょうちゃんと冬也の3人で遊んでいた。しかし高校で再会してから、しょうちゃんと冬也の間に接点はあっただろうか。  そういえば、一時期家庭教師のままごとみたいなことをしていたことがあった気がする。その時に連絡先を交換したのかもしれないが、それも大学の頃なので何年も前の話だ。 「俺に何かできることある?」  しょうちゃんの申し出にツンと鼻の奥が痛くなる。じわっと涙が滲む。今、俺はとても弱っている。 「しょうちゃんの家に行きたい」  洟を啜ると、しょうちゃんが部屋の中に入ってきて俺の頭を抱き寄せ、弟から俺の姿を隠してくれた。 「よく言えました。いい子だね」  ゆっくりと、ドアが閉まる音がした。それから、階段を降りていく冬也の足音が聞こえた。ボロボロとこぼれる涙が止まらない。しゃくり上げて、鼻水を垂らしながら泣いた。 「準備できたら降りてきて。下で待ってるから」  落ち着いてきた頃、しょうちゃんがそう言い残して部屋を出て行った。  ひとり部屋に取り残され、冷静になってみるとなんだかおかしなことになったなと思う。しょうちゃんから離れるつもりだったのに、結局しょうちゃんを求めてしまった。  ベッドを降りて、旅行用のバッグに衣類を詰めていく。下着、靴下、仕事用のスーツ、ワイシャツ。部屋着のまま外は歩けないことに気づき、急いで着替えた。土曜日までのだるさが嘘みたいに身体が軽い。  パンパンに詰めたバッグを持ってリビングに顔を出すと、しょうちゃんがお茶とお茶菓子で、もてなしを受けていた。母さんと冬也も一緒にいた。 「来たか。待ってて、今タクシー呼ぶ」 「普通に歩けるよ」 「いいから。ほとんど何も食ってないんだろ」  返す言葉もなく、空いている椅子に座った。何気なくお茶菓子に手を伸ばし、ひとつ食べると、今まで食べたくなかったのが嘘みたいに飢餓感が湧いた。しょうちゃんのために用意されていたお茶菓子を食べ尽くし、到着したタクシーを待たせて母さんが即席で作ったお茶漬けをかっ込んだ。  なんだ元気そうじゃん、とタクシーに乗り込んだしょうちゃんが言う。後部座席にふたり並んで座り、荷物はトランクルームに入れた。おかげさまで、と居たたまれない気持ちで返事をする。本当に、しょうちゃんが来るまでは食欲が湧かなかったのだ。弱った自分を見ればしょうちゃんもこんな軽口は叩けなかっただろうと思うと少し悔しい気もする。 「とりあえず、○駅の方に向かってもらえますか」  しょうちゃんが運転手に指示を出し、車が動き出す。ラジオなどはかかっておらず、しょうちゃんも運転手も無言だった。夜の景色と車の振動が気持ちよくてしょうちゃんの肩に頭を預けた。  しょうちゃんが俺を好きだと言ったのは忘れたわけではない。しかし、しょうちゃんには俺が嫌がることは決してしないだろうという安心感がある。しょうちゃんの手のひらに自身の手のひらを滑り込ませて、緩く指を絡めた。横目でしょうちゃんを盗み見ると、しょうちゃんは窓の外に顔を向けており、表情は見えなかった。  しょうちゃんが玄関のドアを開け、先に入って照明を付けた。お邪魔します、と一声かけて後に続く。  ちょっと汚いけど、としょうっちゃんが予防線を張るがもう遅かった。廊下に放置されていたプラスチックゴミが入った袋に目が行った。玄関のすぐ右、シンクやコンロの上にも空き缶や弁当のプラスチック容器、カップ麺の容器、洗われていないマグカップ、箸、割り箸などが置かれてすぐには使えない状態になっている。冷蔵庫のすぐ隣の洗濯機の前には、洗われていない衣類が山になっていた。何も言えずに靴を脱ぎ、玄関のドアの鍵を閉めた。  部屋に入るとこちらも酷いもので、ソファには脱ぎ散らかされた服で山ができており、ローテーブルの上や床、さらにベッド周りに空き缶が散乱している。  前回しょうちゃんのアパートを訪ねたのは約1週間前のはず。どうしたらここまで汚せるんだと思ったが、大量に転がっている空き缶を見て思うことがあった。しょうちゃんは付き合いで飲む程度で、進んで飲む方ではないはずだ。 「もしかして俺、来ない方がよかった?」  着替えもせず、早速部屋の片付けを始めていたしょうちゃんが手を止めてこちらを振り返った。手に持っていた衣類や缶を一旦元の位置に置き、ドアの前で突っ立っている俺の前に立ち、酷く悲しい顔で言った。 「そんなこと言わないでくれ」  風呂湧かしてくるから先に入りなと言い残し、しょうちゃんが風呂場へ消えた。湯を張る音は聞こえず、何かガタガタやっている気配がある。浴室を掃除しているのだろう。  黙って離れようとしていたのに、許されたと解釈してもいいのだろうか。  部屋に上がり、ソファの片隅に腰掛けた。しばらくしてから湯を張る音が聞こえてきて、しょうちゃんが戻ってきた。すぐに部屋の片付けに取りかかる。 「しょうちゃんでも部屋を散らかすことってあるんだな」 「明生くんが来る前はいつも掃除してるんだよ」  そう言われて、悪い気はしなかった。  湯が溜まるのを待つ間、しょうちゃんが片付ける様子をただ見ていた。  そろそろかな、と立ち上がり部屋を出る。  しょうちゃんのアパートの風呂は旧式で、蛇口をひねってお湯と水の量を調整し湯を張る。湯船に手を入れて温度を確認してから水を止めた。少し熱めのいい湯加減だ。  湯に浸かると、強張った身体がほぐれていくような気がする。ただずっと寝ていただけなのに、身体が疲れているのだと気付かされた。  風呂から上がり、しょうちゃんが用意してくれた寝間着に着替える。風呂に入ったのは3日ぶりだった。今更ながら、臭くなかったか心配になってきた。  部屋に戻ると、部屋はすっかり元通りに片付いていた。ドライヤーがコンセントに刺さった状態でローテーブルの上にあり、しょうちゃんがソファに座っている。 「おいで」  足を開き、膝を叩きながら俺を呼ぶ。呼ばれるまましょうちゃんのところへ歩いて行き、足の間の床に背を向けて座った。しょうちゃんが、肩に掛けてあったタオルで俺の頭を包み、わしゃわしゃ雑に拭く。 「部屋、だいぶ片付いたな」 「うん、台所の方は明日やる」  タオルドライが済むと、すぐにドライヤーをあてられた。しょうちゃんの片足に頭を預け、温風が髪を嬲り耳元で風がゴウゴウと音を立てるのをぼんやりと受け入れた。 「はい、終わり」  ドライヤーの音がピタリと止んだ。閉じていた目を開ける。 「もう眠いんだけど。ベッド借りていい?」 「いいよ。おやすみ」  床に手を付き、よっこらしょ、と立ち上がる。ベッドに直行し、横になる。  しょうちゃんにドライヤーかけてもらうと眠くなるのはなぜだろう。目を閉じると、すぐに眠りの世界に引きずり込まれた。

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