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第5話

 目が覚めると、部屋が薄暗かった。なんだか違和感があって上体を起こし、部屋を見回す。そうだ、しょうちゃんの部屋に来ていたのだった。家主はまだ、ベッドのすぐ下に布団を敷いて眠っていた。両手を上げ、息を殺して上体を反らす。腕を下ろしながら左右に首を傾ける。  今何時だろう。体感で早朝なのはなんとなくわかるが、手元にスマホがないので時間がわからない。しょうちゃんの部屋には、時計の類いが一切ない。テレビとスマホがあれば十分だと言っていた。音を立てないようにベッドを抜け出し、忍び足で俺のスマホが入ったバッグのところまで行き、荷物を漁る。内ポケットには見当たらず、服をかき分けながら底の方を手探りで探す。 「明生くん?」  ミッション失敗。家主を起こしてしまった。 「早いね。何してるの?」 「何時かなと思ってスマホ探してた」 「5時3分」  しょうちゃんが自分のスマホで確認して言う。しょうちゃんが時間を告げたタイミングで、手がスマホらしき感触のものに触れる。  目覚ましが鳴る前に起きるなんて珍しいと、我ながら思う。しょうちゃんは身体を横たえて二度寝の体勢に入るが、俺はもうすっかり目が覚めてしまって、布団に戻っても眠れそうにない。 「ちょっと散歩行ってくるよ」 「……え?」  少し時間を空けて、布団の中から間抜けな声が返ってきた。なんとなくその反応は理解できる。泊めてもらった時はいつもしょうちゃんの方が先に起きていて、ようやく俺が起きる頃にはきちんと着替えまで済ませている。 「じゃあ、何か朝ご飯買ってきて。うち何もなくて」  わかった、と返事をしながらスマホと財布をポケットに詰め込む。  玄関のドアを開けると、朝日の眩しさに目を細めた。背後でドアが閉まる音を聞くと、大きく伸びをしながらん、ん゛ん、と潰れたような声を上げる。踏み出す一歩目が軽い。頭が妙にすっきりしていて、朝の新鮮な空気を気持ちいいと感じられる。昨日までの死にたいような気持ちとは大違いだ。  散歩すると言って出てきたが、最後に一番近いコンビニに寄る以外に目的地は決めていない。足の赴くままに歩いていると、なんとなく駅の方に向かっていた。駅が近くなると、朝も早いと言うのに人通りが増えてきて、いかにもこれから出勤するスーツ姿のサラリーマンや大きなバッグを肩に掛けた高校生を見かけた。自分もあと1時間後ぐらいにはこの中の一員になるのだが、客観的に通勤や通学する人を眺めるのはなんだか楽しかった。  自分がまだ寝間着だったことに気付いて急に恥ずかしくなってきた。人目を避けるように来た道を引き返し、途中コンビニに寄りしょうちゃんのアパートへ戻る。何か買ってきて、と言われたが何を買えばいいのかわからなくて少し店内をうろついた。  黙って玄関を開けると、おかえり、と声を掛けられてびっくりした。まだ寝ていると思っていたが、すでに着替えを済ませてコンロの前に立っていた。炊飯器と電子レンジを稼働させ、フライパンでウインナーを焼いていた。  コンビニ袋を見て、しょうちゃんがありがとうと言った。 「何もないって言ってなかったっけ」 「これは弁当用」  ふぅん、と相槌を打つ。しょうちゃんは大学に入ると同時に一人暮らしを始めて、もう6年になる。職場の女性で弁当を手作りしている人は珍しくないが、男性は大体作ってもらうかコンビニの弁当だ。かく言う俺も母親の手作り弁当で、一度も弁当を作ったことがない。さすがというか、真面目な奴だと思う。  並んでソファに腰掛け、朝のニュース番組を見ながら買ってきたサンドウィッチと菓子パンを食べる。  ニュースでは連日Subの女子高生バラバラ死体遺棄事件が放送されており、今日は新たに遺体の一部が発見されたと報じられている。  殺害された女子高生はSubで、犯人は中年男性でDomだった。互いに面識はなく、犯人が無差別に発したコマンドに女子高生が従ってしまった。  たまに変な奴がいるのだ。手当たり次第、もしくは若い女性を狙って声を掛けるDomや、自分がDomだと思っているNormalが。Normalにとってはただのキチガイだが、Subにとっては脅威でしかない。とっさに拒絶反応が働けばいいが、身体が命令に従ってしまうと逃げ遅れることになる。今回の女子高生はこうして連れ去られて殺害されてしまった。犯人は動機について、言うことを聞かなかったから殺した、と言っているらしい。  バラバラは度を超えているが、残念ながらDomによるSub殺害事件は珍しいものではない。世論として、当然犯人のDomに対して同情を寄せる声はない。しかし、被害者のSubに対しては本当に嫌なら命令を突っぱねることもできたのではないか、命令されたかったのではないかという声も上がっている。Subについての理解が得られていない証拠だ。  幸い、俺自身はダイナミクスが絡んだ事件に巻き込まれたことはない。しょうちゃんと冬也という信頼できるDomが身近にいて、比較的恵まれた環境で育ったと思う。 「冬也からどこまで聞いてる?」  唐突に振った話題に、しょうちゃんが身構えたのがわかった。 「マッチングアプリで知り合った女と会いに行ってからずっと具合が悪そうで、もしかしたらSubドロップかもしれないから様子を見に来てほしいって」  何も面白くはなかったが、はは、と乾いた笑いが出た。 「マッチングアプリで知り合ったDom、リカコさんって言うんだけど。おしゃれなバーに行って、そこで首輪付けられて」 「はぁ!?」  まだ話の途中なのにいきなりしょうちゃんが声を荒げてびっくりした。話が中断されると、我に返ったしょうちゃんがごめん、続けて、と先を促した。 「首輪付けられてリード付けられて、バーの床におすわりさせられた。ただそれだけ。終わり」  早口で言い終わると、沈黙が生まれた。テレビでは相変わらず遺体発見の現場の上空からの映像が流れている。そうか、としょうちゃんが下を向いてぽつりと言い、黙り込んでしまった。  言わなければよかったと後悔する。テレビの中の女子高生のように殺されたわけでも、理不尽に暴力を振るわれたわけでもないのに、思っていたよりもしょうちゃんが重く受け止めているような気がする。余計な心配をさせてしまったかもしれない。 「話してくれてありがとう」 「うん、でも、もう俺平気だから」 「別に平気なふりする必要はないだろ」  リカコさんのことは誰にも話していなかった。殺されそうになったわけでも、暴力を振るわれて怪我をしたわけでもない。大したことはないと無意識のうちに自分に言い聞かせて、心の声を無視していた。たったそれだけでSubドロップに陥るなんて、と他人に思われるのが嫌だった。  一体、自分は誰に対して見栄を張っていたのだろうか。 「うん、本当に大丈夫。今大丈夫になった」  やっぱり、話してみてよかったと思う。しょうちゃんが首を傾げ、ならいいけど、と納得いかなそうに言った。  しょうちゃんが送ってくれると言うので、お言葉に甘えて職場まで送ってもらった。帰りも迎えに来てくれると言っていたが、さすがにそこまでしてもらうのは申し訳ないので遠慮した。  急に休んでしまった昨日の分も仕事も捌かねばならず、帰宅した頃には22時になっていた。 「ただいま-」  自宅でもないのに、ただいまと言ったのは無意識だった。ドアを押し開けると、ふわっとご飯の匂いが鼻について、空腹だったことを自覚させられた。おかえり、という声と共に寝間着姿のしょうちゃんが部屋から顔を覗かせた。 「お疲れ様。遅かったな。いつもこんな時間?」 「月末は大体こんな感じだけど、今日は昨日の分が溜まってたから」 「それは大変だったね。風呂とメシ、どっち先にする?」 「メシ食いたいかな」 「了解。温め直すから手洗ってきて」  靴を脱いで廊下に上がり、浴室と併用している洗面所へ足を向ける。すれ違う時、しょうちゃんから石鹸の匂いがした。  手洗いうがいをして戻ると、しょうちゃんがコンロをフル稼働させながらご飯の用意をしていた。部屋着に着替えてから配膳の手伝いをする。  しょうちゃんも夕飯はまだだったらしく、ローテーブルに二人分の夕飯と缶ビールがところ狭しと並んだ。今日のおかずは豚の角煮と煮卵。ビールのお供として最高だ。  特に意味はないが、お疲れ、と缶ビールで乾杯をした。並んでドラマを見ながら遅めの夕飯に箸を伸ばす。お互い毎週見ているドラマではなかったが、他が教育番組や例のSub女子高生バラバラ殺人事件のニュースだったので消去法でこれになった。  実家の場合、残業して帰ると自分で夕飯を温めてひとりで食べる。あまり遅い時間でない限り、誰かしらリビングには居るので寂しいということはないが、やはりご飯は誰かと一緒の方がいいと思う。  角煮はトロトロで、一緒に煮込まれていたであろうゆで卵にはよく味が染みていた。味付けは少し濃いめで、ビールがよく合う。 「めっちゃ旨。ビールおかわりしたい」 「ダメ。明日も仕事なんだから一本にしておけよ」  はぁい、と釘を刺されて渋々引き下がる。しょうちゃんに会うのはいつも金曜の夜なので、平日の真ん中にしょうちゃんの家にいるのはなんだか不思議な気分だった。 「しょうちゃんは帰り何時?」 「19時ぐらいかな」 「いつもこんなにちゃんとご飯作ってんの?」 「いや。帰りが遅い時や面倒臭い時は弁当買ってきたり外食したりする。今日は早く帰って来れたから」  ふぅん、と相槌を打ちながらビールを喉に流し込む。テレビは誰も見ておらず、ただ付いているだけの状態だった。 「しょうちゃんって昔からマメだよね。5人くらいでレポートやってた時もご飯作ってくれたし」 「軽く1,2品つまみ作っただけじゃん」 「充分すごいよ。そういえば最近あいつらと連絡取ってないな。元気にしてるかな」  しょうちゃんの家に来ると、いつも気持ちが学生の頃に引き戻される。あの頃に比べると責任やら立場やらがのしかかって、軽率に身動きが取りづらくなったように感じる。少し酒が回って、ずいぶんと遠くへ来てしまった、などと感傷的な気持ちになる。  夕飯を作ってもらったので後片付けは引き受けた。俺が食器を洗っている間に、しょうちゃんがわざわざ風呂の湯を張り直してくれた。  風呂から出ると、しょうちゃんがドライヤーを用意して待っていた。 「おいで」  目が合うと、しょうちゃんが膝を叩いて俺を呼んだ。言われるまましょうちゃんの足下に腰を下ろす。 「ほっとけば乾くのに」 「ダメ。風邪引くでしょ」  簡単にタオルで頭を拭かれた後、ドライヤーで髪を乾かされる。しょうちゃんの指が気持ちよくて、昼間の疲れもありついうとうとしてしまう。  ドライヤーの音が止んだと共にハッと目を開ける。少しの間だが眠ってしまっていたようだ。 「明生くんお疲れだね。布団敷いてあるからもう寝な」  寝ていたことがバレていたらしく、ドライヤーのコードを巻き取りながらしょうちゃんが言う。  眠い目を擦り、言われた通り布団まで這っていく。身体を横たえ目を閉じると、いつの間にかしょうちゃんが側に来て、いい子だね、と言いながら俺の頭を撫でた。 「しょうちゃん家マジ最高だわ」  微睡みながら思ったことを口にする。狭いし、窓からの景色は絶景というわけではないが、朝食が出て昼も持たせてもらって、夜は遅い時間にも関わらず温かい食事が食べられる。髪を洗って出てくれば、ドライヤーまでしてもらえる。サービスは旅館以上、実家よりも快適だ。 「ずっと居てくれてもいいんだけどね」  この言葉に何か返事をしたような気がするが、眠りに引きずられて自分が何を口走ったか覚えていない。

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