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第8話

 目が覚めると、外はもう明るかった。カーテンが開け放たれており、日差しが容赦なく部屋に降り注ぐ。日差しが高く、もう昼近いのだろう。 「おはよう。具合どう?」  視線を転じると、しょうちゃんが床に座ってノートパソコンを開いていた。 「スティックパンあるけど、食べる?」 「うん」  布団から身体を起こし、先にトイレを済ませる。トイレから出ると、ローテーブルの上に袋に入ったスティックパンと、マグカップに牛乳が用意されいた。ソファに腰かけ、袋に手を伸ばす。この時になって始めてテレビが付いていないことに気付き、テレビを付けた。音がないと落ち着かないのだ。  テレビには、毎週放送されている旅番組が映し出されている。しょうちゃんがパソコンを触っていることが珍しいくらいで、特に何の変哲もない。  パソコンの画面が嫌でも視界に入って気になるが、仕事のメールなどだったらまずいので極力見ないようにする。  昨日のことは全部夢だったのだろうか。 「今日午後から暇?」 「うん?」  ぼんやりしているところにいきなり話しかけられたので、返事が曖昧になってしまった。 「引っ越ししようかと思って。物件巡り付き合って」 「え?」 「ちなみに明生くん、仕事辞めるつもりはないよね?」 「えっ、ないけど」  まぁそうだよね、としょうちゃんが少し残念そうに言う。  しょうちゃんの引っ越しと、俺の仕事。突拍子も関連性もないが、生活の上では大きな位置を占めるという点で共通しているふたつの事柄が急に飛び出してきて、本能的に身構えた。全く予想が付かない。今度は一体何なんだ? 「一緒に暮らそうよ。家賃は折半で」  昼食は、パスタを茹でてパウチのソースを絡めただけの簡単なたらこパスタだった。しょうちゃんが熱心に見ていたのは不動産の物件で、パスタをフォークに巻き付けながらふたりで小さな画面を一緒に覗いた。  俺が仕事を辞めると答えていたら、しょうちゃんが家賃を負担してくれるつもりだったらしい。不動産屋へ向かいながら、車内で予算のすりあわせをした。  不動産屋へ到着し、希望する地域や予算などのヒヤリングを受けてから年配の男性に連れられて早速物件巡りをした。遠くへ引っ越すわけではなく、勝手知ったる狭い市内なので、目新しさなどはないが、地元の家賃の相場を知るという純粋な面白さはあった。  この日はピンとくる物件に巡り会えず、また考えます、と曖昧に返事をして不動産屋を後にした。 「そう急ぐものでもないし、続きはまた来週にしようか」  運転席に乗ったしょうちゃんが、シートベルトを締めながら言う。 「あのさ、しょうちゃん」 「うん?」  今日のしょうちゃんはやけに機嫌がよく、切り出すのに少し勇気が要った。 「明日一旦帰るよ」  宣言すると、しょうちゃんが目を丸くした。それから諦めたような表情になり、そう、わかったと力なく返事をする。 「いや、あの、そうじゃなくて単純にずっと世話になりっぱなしで悪いし、服もそんなに持ってきてないから」  なんだか言い訳をしているみたいになってしまった。ずっと世話になりっぱなしで悪いと思っているのも本心だし、服もそんなに持ってきていないのもその通りだった。2,3日くらいのつもりが、5日も居座ってしまっている。今着ている服も、よそ行きは用意していなかったのでしょうちゃんの服を借りている。 「また来週、物件巡りしような」 「わかったってば。大丈夫だよ」  何が大丈夫なのかは分からないが、少なくとも来週訪ねた時にすでに引っ越して消息不明、ということはないだろう。しょうちゃんはひとりで考えて勝手に思い詰める節があることを最近知った。  スーパーへ寄ってから、しょうちゃんのアパートへ帰ってきた。トマト鍋の元が売っていたので、物珍しさで今日はトマト鍋だ。 「明生くん、それ下ろしてきて」  車から降りる時、しょうちゃんが不動産でもらってきた間取りの紙束を指して言う。先に降りたしょうちゃんは、後部座席のドアを開けてスーパーで買った食材を下ろし、車にロックを掛けた。  玄関を上がると、ここでいい? と聞きながら書類をローテーブルの上に置いた。冷蔵庫に食材をしまいながら、しょうちゃんがありがとうと言う。  何気ない些細なことでも、必ずしょうちゃんはお礼を口にする。コマンドを実行して褒められた時とは少し違う感覚で心がふわっと温かくなる。感謝されることで、一般的にSubには必要ないと言われている自尊心が満たされてる。しょうちゃんは、俺をSubではなくひとりの人間として大事にしてくれる。  夕飯は予定通りトマト鍋だ。メインの具材は鶏肉で、白菜を大量に入れた。スープの色は赤く、多少酸味はあったが、とろみなどはなくあまりトマト感は感じられなかった。そんなに高いスープではないのでこんなものだろう。シメは麺を入れてトマトラーメンにした。  世話になっている間、しょうちゃんが食事を用意して俺が後片付けを受け持った。部屋の掃除ですら母親任せな自分にしてみればよく働いた方だと思う。  食器洗いを済ませると、家主よりも先に風呂に入る。自宅よりも狭い浴槽の中で膝を曲げ、低い天井を仰ぎながら、ひとまずはしょうちゃんとの生活も今日で終わりかと思う。少し感傷的な気持ちになっているのは、長居しすぎたからだ。2週に1回ほどの、金曜に泊まって土曜に帰るケアの時にはこんなおセンチな気持ちにはならない。  今日は酷く疲れた。  言うまでもなく、これは気疲れだ。  今まではしょうちゃんと会う時に気疲れなど感じたことはなかった。むしろ、社会に出てからは特に、仕事で溜まった気疲れを癒やしてもらっていた。  これまでがダメだったのだと思う。俺が気が付かなかった分、しょうちゃんが気を遣ってくれていたのだと、今になってようやく気付いた。  たった1日でこんなに疲れるのならば、一緒に暮らすなど不可能ではなかろうか。  しょうちゃんが残しておいてくれた逃げ道を行くのが正解だったのではなかろうか。  風呂の湯を両手で掬い、そのまま顔を覆う。指や手の隙間から湯が零れ、浴槽の中に戻る。改めて告白されて、不貞を誓わされ、セックスを誘われた。ゲロを吐いていなければ、今頃何かが変わっていたのだろうか。  顔に纏わり付いた雫を払うように勢いよく頭を振る。今はまだ何も考えるな。考えるのは家に帰ってからにしようと決めていた。 「明生くん、開けていい?」  いきなり浴室のドアの外から声を掛けられ、とっさに膝を抱えた。ばちゃ、と音を立てて水面が大きく揺れる。ぼんやりと曇りガラス調のアクリルのドア越しに人影が見えた。 「うん、いいよ。どうした?」  平静を装って返事をする。歯ブラシを取りたいとか、そんな感じのちょっとした用事だろうと思った。  しょうちゃんが風呂場に入ってきて、何をするわけでもなく、ドアを閉めた。顔を強張らせて、狭い浴槽でただ膝を抱える俺を見下ろしている。 「しょうちゃん?」  見知った相手とはいえ、つい身構える。こちらは文字通り丸裸。プライベートな空間に侵入されたことに対して防衛本能が働いた。何をしに来たのだろう。不信感しか抱けない。早く出て行ってよ、と喉元まで出てくるが、しょうちゃんの様子がおかしいことが気がかりでギリギリのところで飲み込んだ。 「髪を洗わせてほしい」 「は?」 「ダメかな」 「いや、別にいいけど」  いきなりなんだ? しょうちゃんの用事は、風呂場にある物ではなく俺だったらしい。 「じゃ、頭こっち向けて」  しょうちゃんが嬉しそうで、もしかして今までずっとやりたかったのかなと思う。先ほどまで自分が警戒心剥き出しだったことなどつゆも忘れて、たったそんなことで緊張していたのかと幼馴染みを可愛く思った。  狭い浴槽で体勢を変え、しょうちゃんと向き合ってあぐらをかく。風呂の縁の上に両腕を乗せ、前のめりになってしょうちゃんに首を差し出す。 「よしよし、いい子」  褒められ、頭を撫でられると、力がお湯に溶けていくようだった。両腕の上に頭を乗せ、ぐったりする。のぼせたみたいに身体が火照り、意識もぼーっとする。  しょうちゃんは、俺の様子には気付いていないようだった。シャワーを取って蛇口を捻り、水の温度を調整している。冷水をそのままかけてほしいと思いながら、けれどそれは口にせず少しだけ頭を上げてしょうちゃんの様子を観察した。 「しょうちゃん、服濡れるよ?」  すでに濡れているズボンの裾を見ながら指摘すると、どうせすぐ洗濯するからいいよ、と全く気にしている様子なく言う。  冷たかったり熱かったりしたら言って、と言いながら、しょうちゃんが俺の髪を濡らす。温度もシャワーの水圧も、しょうちゃんの手も全部が気持ちよくてうとうとする。  髪が全体濡れたところでシャワーが止まり、大きな手で頭皮を優しくマッサージされ、髪が泡立っていく。痒いところはないですか、と聞かれ、うん、と返事をした。  しょうちゃんが使っているシャンプーは、薬局で売っている中で比較的高価なもの。すごくいい匂いがする。  下を触りたい。  浴槽の中で、性器が硬くなり始めていた。ピクピク細かく震えながら、徐々に上向き始めている。今扱いたら、すごく気持ちがいいと思う。確かに最近ご無沙汰ではあったが、髪を洗われただけで反応するほど溜まっていたとは思えない。  これがSubスペースなのかな、とぼんやり思う。Subスペースとは、Subが精神的、肉体的に一切のコントロールをDomに委ねている状態を指す。  プライベート空間への侵入を許し、無防備な状態で相手の自由にさせている。もししょうちゃんにその気があれば、洗面台にあるカミソリで俺の首を切るなどたやすいだろう。そう考えれば、だいぶ条件が揃っているのではないかと思う。  人の家の、しかもこの後しょうちゃんが入る浴槽の中で自慰に耽るわけにもいかない。なけなしの理性を働かせ、心頭滅却に努める。 「あんまり気持ちよくなかった?」  すべての工程が終わったところで、しょうちゃんが不安そうに訊ねた。  終始下を向いたまま顔を上げず、上がりそうになる息を押し殺すことに精一杯だった。これは一種のプレイで、きちんとコミュニケーションがとれていなかったのだから、しょうちゃんが不安に思うのも無理はない。  しょうちゃんが俺に構うのは、Domの習性のようなものだ。Subが命令されて被支配欲を満されるように、Domも支配欲を満たす必要がある。命令する他に、Subの身の回りの世話をすることでその支配欲は満たされるらしい。  顔だけ上げると、しょうちゃんにぎょっとされた。 「顔赤いよ。大丈夫?」 「ああ、うん。平気」 「水持ってくる」  浴槽のドアを勢いよく開け、慌ただしくしょうちゃんが出て行く。  浴室の外から、浴槽の縁に水道水が入ったコップが置かれる。勃起しているのがバレたらまずいので、前屈みのまま口を付けた。 「早く出な」  浴室のドアが閉まり、足音が遠のいていった。しょうちゃんからしてみれば、素っ気ない態度をとられたと思っているかもしれない。なんだか申し訳ないことをしてしまった。  風呂を出ると、入れ違いでしょうちゃんがソファを立った。いつも通りだったら、足元に俺を呼んでドライヤーで髪を乾かしてくれるはずだった。風邪を引くからと、元々は面倒臭がってやらない俺の代わりにしょうちゃんが始めたことだ。  しょうちゃんが座っていた場所に腰を下ろし、用意されたドライヤーの横あるリモコンに手を伸ばす。番組表を表示させ、適当に何度かチャンネルを回したところでテレビを消した。特に面白そうな番組はやっていなかった。  何もすることがなく、すべてがつまらなかった。濡れた髪のまま布団に入り、スマホでゲームに興じる。それでもやはりつまらなくて、気付いたらそのまま眠ってしまっていた。  風呂のドアが開いた音で一瞬意識が浮上する。しょうちゃんが風呂から出たのだ。目を閉じたまま、足音などの生活音を聞く。 「明生くん? もう寝たの?」  しょうちゃんに声を掛けられたが、狸寝入りをした。足音と振動が大きくなってきて、近づいてきているのがわかる。わずかにシーツが引っ張られ、傍にしょうちゃんの気配を感じる。髪乾かしてないじゃん、と文句を言いながら生乾きになって冷たい髪に触れた。しょうちゃんは特に何かするわけではなく、俺の傍を離れていった。  聞き耳を立てていると、ガチャ、と冷蔵庫が開く音がした。それから間もなく、はー、という大きな溜息と、テレビを付ける音がした。ギシ、とソファが軋み、プシュ、と缶が開く音がする。  起きるに起きれず、目を閉じたまましょうちゃんの生活音を聞いているうちにまた眠ってしまっていたようで、次に目が覚めた時には部屋は真っ暗で、しょうちゃんはベッドで静かな寝息を立てていた。

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