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第10話

 明生くんが越してくる前日は、クリスマスの夜サンタクロースを待つ子供のような心境でなかなか寝付けなかった。  23時頃ベッドに入り、ようやく寝付けたのは2時頃だったと思う。目が覚めたのはうっすらと空が明るくなってきた頃。起きるにはまだ早く、1時間ほどベッドでうだうだしていたがすっかり目が冴えてしまって寝直すことができなかった。睡眠時間は3,4時間くらいか。寝た気がしない。  観念して身体を起こし、行動を開始する。まず寝室のカーテンを開け、次にリビングに隣接している襖を開ける。一人暮らしの部屋はワンルームだったので、寝室やリビングといった概念とは無縁だった。まだ物が少ないリビングを見渡して、これから明生くんとの共同生活が始まるんだと、年甲斐なくわくわくした。  明生くんと同棲することを決めてから実際に引っ越すまでに2ヶ月を要した。職場が離れているのでとりあえず中間地点を候補地にして週末に不動産巡りをし、免許は持っているものの、明生くんが車を持っていないので最終的には明生くんの職場の近くに落ち着いた。  先々週俺が先に越してきて、先週は明生くんの家具や日用品の買い出しと、家具の組み立てを手伝った。実家の家具はそのままにして、ベッドやカラーボックス、布団も新調していた。  さて、何をしようか。時刻は7時。洗濯機を回したり掃除機をかけるにはまだ少し早い。明生くんを迎えに行って荷物の積み込みは9時からの約束だった。たしか、ホットケーキミックスの粉があったはずだ。久しぶりにホットケーキでも焼いてみようか。わかりやすく浮かれているなと自覚しながら、シンク下の戸棚を開けた。  9時前に明生くんの家の前に車を着けると、すでに荷物の運び出しが済んでいて玄関の前に段ボールの山ができていた。 「しょうちゃんおはよ」  路駐して車を降りると、玄関に座って携帯を弄っていた明生くんが腰を浮かせた。 「おはよ。これで全部?」  この量なら、なんとか1回で運び込めそうだ。あらかじめ後部座席のシートは倒しておいたので、トランクルームのドアを開けて積み込みを開始する。  作業していると、玄関のドアが開いて明生くんの弟が出てきた。俺も手伝う、と明生くんに声をかけて段ボールを持ち上げた。部屋からの荷物の運び出しも手伝うつもりだったが、弟の手伝いがあったから終わっていたのか。  土曜日は、確か冬也は部活があるのではなかっただろうか。  昔少しだけ冬也の勉強を見てやったことがあるが、その時から冬也のことが少し苦手だった。誰に対してもクールなのは明生くんに接する態度からも見てわかるが、その上で俺のことが嫌いなんだろうとはっきりわかった。  嫌われるようなことをした覚えはないが、明生くんが冬也を溺愛するように、冬也もまた兄を盗られまいと警戒しているのが丸わかりだった。嫌われているのは昔の話だと思っていたが、窺うような視線から感じられる敵意は相変わらず。  同じDomとして自分のSubが奪われることが許せないのだろうか。  自分の考えを否定するために小さく首を振る。ケアのために兄弟間でスキンシップ程度のプレイがあったことは知っているが、あくまで間に合わせであり、それ以上のことがあるはずがない。積み込みが終わってドアを閉める時、訝しむような目で明生くんが俺を見ていたが、気付かなかったふりをした。  冬也が手伝ってくれたおかげで積み込み作業は10分程度で済んだ。明生くんが一旦家の中へ入り、すぐに両親と一緒に出てきた。明生をよろしくお願いしますと挨拶されて、菓子折を持ってくるべきだったかと悔やんだ。  その背後で、車のドアが開く音を聞いた。振り返って見ると、明生くんと冬也が後部座席を覗き込みながら何か話をしている。捜し物だろうか。 「どうかした?」  ご両親との挨拶が済み、車の方へ歩み寄る。冬也が後部座席に積んだ段ボールを動かしており、その様子を明生くんが見守っている。 「冬也が引っ越し手伝ってくれるって」  えっ、と思わず口に出す。聞いていないんだけど、という言葉を飲み込み、助かるよ、と声に出した。 「なんとか座れそう」  冬也が何やらゴソゴソやっていたのは、座る場所を確保するためだったようだ。  引っ越し作業は、確かに人手がある方が助かる。本来なら喜ぶべきところだが、素直に喜べなかった。  アパートへ戻ると、すぐに荷下ろしに取りかかった。一旦全て車から降ろし、後は部屋と駐車場を往復する。スーツケース1つと段ボールが6つに対して男手3人なので、部屋への運び込みはすぐに完了した。兄弟で明生くんの寝室に篭もって荷解きする間、完全に蚊帳の外で手持ち無沙汰で出前をとった。  宅配のピザで昼食休憩を挟み、引っ越し作業が完了したのは午後3時頃だった。 「今日はありがとう」  この後は、ホームセンターへ段ボールを捨てに行きがてら足りない日用品の買い足しをして冬也を家まで送ることになっている。家を出る直前、明生くんがトイレで席を外している隙に冬也に声を掛けた。 「別に、暇だったし」  今日は部活休みだったの? と適当に話題を振ると、サボった、と素っ気なく返された。テレビは消していたので、しんと部屋が静まりかえった。間が持たないので早く明生くんに戻ってきてほしい。 「兄のこと、よろしくお願いします」  突然大人びたことを言われて面食らった。反射的にこちらこそ、と返事をした。  今日一日、ずっと冬也の存在が疎ましかった。荷物の運び込みは本当に助かったけれど、この部屋は俺の領域で、明生くんしか許していない。  まだ高校生の子供に、しかも明生くんの弟に浅ましくも嫉妬していた自分がとても恥ずかしい。  予定通りホームセンターで段ボールを捨て、足りないハンガーなどを買い足してから冬也を家まで送って行った。いつでも遊びにおいでと、1mmも思っていないことを口にすることで多少は大人の威厳を保てただろうか。  スーパーに寄って夕飯の買い出しをしてからアパートに帰ってきた。よほど疲れていたらしく、明生くんは助手席で居眠りしていた。  食材が入ったエコバッグを手に、玄関のドアを開ける。俺の後に、大きなあくびをして眠そうな顔をしている明生くんが続く。 「あ、そうだ」  半畳ほどの狭い玄関で靴を脱いで上がったところで後ろを振り返る。 「ただいまとかおかえりとか、おはようとかおやすみとか、挨拶は絶対することにしよう」  靴を脱ぎながら、明生くんがいいんじゃない? と興味なさそうに返事をした。 「じゃあ、ただいまって言って」  明生くんの目を見つめて発声する。これが命令だと気付いた明生くんは、顔に緊張を滲ませてただいま、と声にした。 「うん、おかえり」  優しく明生くんに微笑みかけ、廊下を進んだ。  本当は頭を撫でて思い切り褒めたかった。  以前、明生くんに頼んで頭を洗わせてもらったことがある。明生くんは終始目を合わせようとせず、それ以降はなんとなく避けられていたように思う。本気で嫌がっていたようには見えなかったが、こちらも配慮するべきだったのではないかと反省した。  テーブルの上に買い物袋を置いて洗濯物の取り込みにかかる。洗濯物を洗濯ばさみから外して床に山を築いていくと、明生くんが山に手を伸ばしてきてタオルを畳み始めた。引っ越しの前、遊びに来ていた時は手伝いなどはせず、むしろ散らかす方であった。共同生活となると、こんなにも意識が変わるのか。  一旦洗濯物は明生くんに任せ、食材を冷蔵庫へしまってから作業に加わる。手際の悪さから、普段明生くんが家事をしないのがよくわかった。  洗濯物を片付けてから夕飯の支度にとりかかる。今日のメニューは引っ越し蕎麦。蕎麦を茹でて、惣菜コーナーで売っていたかき揚げとえび天を載せれば完成。健康に気を遣い、ミニサラダも添える。  鍋が沸騰するのを待つ間、明生くんが後ろをチョロチョロしていた。明生くんの意識が変わったというよりも単に手持ち無沙汰だったのだろう。テレビでも見てれば? と言ったら、すごすご引き下がって行った。  配膳だけ手伝ってもらってカーペットに並んで腰を下ろし、テレビを見ながら蕎麦を啜る。明生くんに付き合う時はいつもビールだが、今日は蕎麦に合わせて日本酒にした。  食後の明生くんは、虚ろな目で膝を抱え、ぼんやりテレビを見ていた。朝からの引っ越し作業と環境の変化で心身共に疲れているのだろう。  明生くんのグラスにはまだ半分ほど酒が残っていたのでそのままにしておき、それ以外の食器を下げた。洗い物を済ませ、立ったついでに給湯器のスイッチを入れた。 「明生くん眠い? 風呂沸いたら先入っていいよ」  元の場所に腰を下ろす。明生くんは膝を抱えたまま頭を伏せて一定のリズムで前後にゆらゆら揺れていた。この動作に何の意味があるのか全くわからない。 「んーそうする。すっげー眠みぃ」  告白をさせられて以来、無防備に見えてどこか警戒されているように感じていた。明生くんが隙を見せるのは久しぶりだった。 「明生くん、こっち見て」 「ん?」  明生くんが眠そうな顔を上げる。一気に距離を詰め、明生くんの唇をキスで塞いだ。 「ん゛ん゛!?」  明生くんがとっさに俺の身体を押し退けようとした。抵抗されたので力でねじ伏せ、気が付けば床に押し倒して馬乗りになっていた。観念したよう全身から力が抜けているところで唇を離した。 「しょうちゃん?」  俺の下で明生くんが目をパチパチさせている。すっかり眠気と酔いは飛んだようだ。 「ごめん、酔ってたみたいだ」  明生くんの上を退き、元の位置に腰を下ろして溜息を吐く。俺は一体何をやっているのだろう。襲われたはずの明生くんが元気出してと俺を慰め、風呂が沸いたら逃げるように部屋を出て行った。  共同生活がスタートして、ようやく明生くんが自分のものになったと思いこんでいる。俺はDomだから、Subの明生くんに対して征服欲を持つのはある程度仕方のないことだと割り切っている。だからといって、無理矢理事を進めるのは違うだろう。  明生くんの飲みかけを飲み干し、それでも足らずに瓶ごとキッチンから持ってきた。買ってきた日本酒は明生くんに合わせて比較的度数の低い物を選んできたのでスイスイ飲める。飲んでも飲んでも喉が渇く。  好きって何だっけ。酩酊した頭で考える。  学生の頃、よくDomっぽくないと言われた。  一般的にDomっぽいとは、学生だったらクラスや学校、社会人なら所属している部署、役員なら会社全体を自分のテリトリーだと思い込んで横暴に振る舞ったり、リーダーシップをとろうとする人を指す。もちろん横暴なDomは一握りでしかないし、控えめなDomもいる。  他人からどう思われようが構わないが、俺がDomっぽくないというのは間違っていると思う。まず、一般的に言われるプライドが高くて神経質なのは当てはまっている。  Domのイメージである場を支配する、大多数の先頭に立って統率する欲求を持たない代わりに、三井明生ひとりを支配下に置くことに執着している。  明生くんと再開するまでは、スクールカーストの頂点に立ち、場を支配するタイプのDomだった。  高1の春、明生くんに命令して言うことをきかせた時、自分が欲しいものは大多数を支配することではなく、ただ目の前にいる幼馴染みのSubだということに気付いた。  明生くんは仕事を辞める気はないと言っていたけれど、本当は仕事なんか辞めてずっと家に居て欲しかった。俺の稼ぎだけをあてにして、俺なしでは生きていけなくなればいい。 「しょうちゃん、大丈夫?」  いつの間にか眠っていたらしい。軽く揺すられて薄く目を開けると、埃が積もった空き教室ではなく、制服に着られた初々しい明生くんの姿もなく、学生の頃から使用している飾り気のない家具に囲まれたありきたりな部屋と、すっかりくたびれた大人になってしまった明生くんの姿があった。  相変わらず髪は濡れたままで、肩にフェイスタオルをかけている。 「パジャマ。洗濯機の上にあったでしょ?」  明生くんが着ているのは紺の上下のスウェット。俺が用意しておいたのはベージュのスウェットだ。ベージュの方は元々俺が使っていた寝間着だったが、よく泊まりに来る明生くんに貸すうちにいつの間にか明生くん用になっていた。 「別にこれでもよくない?」  明生くんが服を引っ張りながら不満を言う。 「ダメ。着替えてきて」  不満を垂れていたが、折れる形で渋々洗面所兼脱衣所へ引き返して行った。  紺でもベージュでも、黒でもピンクでも本当は何でもいい。紺のパジャマは多分実家から持ってきたものだろう。生地の厚さや質にも大きな違いはなさそうだし、ベージュの方が似合っている、というわけでもない。  俺がベージュを用意したのだから、明生くんはそれを着ないとダメなんだ。  せっかく起こしてもらったので、二度寝をする前に動くことにした。テーブルの上の空き瓶とグラスをシンクへ持って行き、軽く水洗いをした。  さすがに飲み過ぎた。今日は風呂はやめておいて、歯だけ磨いて布団に入ろう。それくらいの判断力は残っていた。  洗面所に向かっていると、ちょうどベージュのスウェットに着替えた明生くんが出てきた。理不尽に着替えさせられた明生くんは文句を言いたそうな顔をしていたが、その前に明生くんの手首を掴んで自分の部屋に引っ張って行った。 「えっ、えっ、なに?」 「今日は明生くんを抱き枕にする」 「えっ、何言ってんの?」  困惑しながらも、明生くんはおとなしく付いてきた。  歯を磨いて、それからちゃんと消灯してベッドに入るつもりだった。全部がどうでもよくなった。 「ほら、奥詰めて」 「何なんだよもー。今日のしょうちゃんおかしいって」  追い立てられ、文句を言いながらも明生くんは俺のベッドに入って壁側に詰めた。続いてベッドに入り、後ろから明生くんを抱きしめて目を閉じる。乾かしていない髪が冷たい。裾がめくれて、直に触れている腹はビールのせいでぷよぷよしている。ドライヤーしてやらないとと思って、その後の記憶がない。  翌朝起きて、軽く絶望した。隣で明生くんが眠っている経緯はなんとなく覚えているが、変なことはしていないだろうか。これは何かの罰かというように、軽く頭が痛む。  しばらく呆然としていると、うつ伏せで寝ていた明生くんが目を開けた。 「おはよ」 「おはよう……俺、昨日何かした?」  知るのは怖いが、知らないでいる方がもっと怖い。 「もしかして記憶ない? しょうちゃんすげー酔ってて、パジャマ着替えさせられたり、抱き枕にするっつってベッドに引っ張ってったり」  寝返りを打ちながら明生くんが言う。二度寝するつもりだ。 「それだけ?」 「ベッド入ったらすぐ寝息立ててたよ」  ほーっと安堵の息を吐く。明生くんの様子を見るに本当に何もなかったようだ。 「俺しばらく酒やめるわ。ほんとごめん」 「いや、別に。むしろこんなに酔ってたの珍しかったからちょっと面白かったっていうか。本当に禁酒しないよね? 俺も飲み辛くなるんだけど」  今度は溜息を吐いた。明生くんにはもっと危機感を持ってほしい。  DomはSubに命令できる能力があるが、だからこそ言葉の取り扱いは慎重に行われなければならない。酔って物事の判断がつかない状態で理不尽な命令を下されたらと、明生くんは考えないのだろうか。それに、俺に何かされるとは思わなかったのだろうか。  今後俺が注意すればいいだけだ。そう思うことにして、ベッドから降りて風呂へ向かった。

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