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第11話

「なんかしょうちゃん疲れてない? 大丈夫?」  20時30分帰宅。夜のニュース番組を見ながら夕飯を食べていると、隣で明生くんが顔を顰めた。  全然大丈夫じゃない。  引っ越しで職場が遠くなり、30分早く家を出なければならなくなった。毎朝通勤渋滞に嵌まるのもストレスで、もっと職場に近いところにすればよかったと毎日のように後悔している。  反対に明生くんは職場が近くなり、通勤が楽になったと喜んでいた。俺が家を出る頃に起き出して、俺より先に帰宅している。  意外にも積極的に家事をやってくれて、今食べているアジの干物も明生くんがグリルで火を通したやつだ。明生くん曰く、ご飯を作るのは意外と楽しいらしい。そう言っているのも最初だけだと思うが。今はスマホで調べれば山ほど簡単なレシピが出てくるし、その通りに作ればあまり失敗はない。比較的簡単に成果が見いだせるのでやりがいがあると言っていた。それはわからなくもない。  明生くんには料理の楽しさに目覚めてほしくなかったし、魚に火を通すのも俺でありたかった。  我ながら歪んでいる自覚はあるが、理想とするのはペットと飼い主のような関係。犬ならば首輪を付けてリードを繋ぎ、猫ならば一生家から出さない。鳥ならば羽を切って飛べなくして、鳥かごの中に閉まっておく。悪さをしたらきっちり躾けをして、いい子にしていたらドロドロに甘やかしてやる。飼われたペットにとっては飼い主が世界の中心で、生きるも死ぬも飼い主の思いのまま。  しかし明生くんは人間なので、放っておいても一人でご飯を食べるし、働いて収入を得て俺がいなくても一人で生きていける。  仕事柄外回りがあるので時間が不規則になることは慣れているし、残業や付き合いで帰宅が深夜になることも珍しくない。ようやく手に入れたのに、思い通りにならないことが腹立たしい。 「明生くん、もうちょっと寄って」  隣で胡座を掻いている明生くんに手招きし、肩が触れそうになるくらい近づいてきたところで、ヘッドロックしてわしゃわしゃと頭を撫でた。 「ちょっ、やめて」  明生くんが笑いながら俺の腕を払う。再度明生くんの首に腕を回して引き寄せると、今度はおとなしかった。じゃれ合いとは様相が違うことを理解したようだ。 「明生くん、一緒に風呂入ろ?」  わかった、と口にする明生くんから怯えが伝わってきたので、腕を離して解放した。  Subには、Subドロップというストレス症状がある。長期間に渡りDomとのコミュニケーションがなかったり、Domとのプレイが適切でなく過剰なストレスがかかるとSubドロップに陥る。Domも欲求が解消されないとイライラしたりするが、Subの症状はDomの比ではないらしい。  パートナーがSubドロップに陥るということは、コントロールしているDomが未熟だということに他ならない。  DomとSubのプレイにおいて欠かせないのはセーフワードと信頼関係だ。  セーフワードとは、Subが要求を呑めないことをDomに伝える手段で、大体はプレイを始める前に決めておく。そうすることで互いに安心してプレイに臨むことができる。  その前提として信頼関係が欠かせない。セーフワード自体に強制力があるわけではないので、セーフワードを発した時にDomが許容し中断するとSubが信じきれること。Domが独裁的なせいでセーフワードの使用をためらい、Subドロップに陥るケースもある。  当然、俺と明生くんの間でセーフワードは決めてある。俺が無茶な命令をしてこなかったからというのもあるが、明生くんがセーフワードを使ったことが今まで一度もない。セーフワードは拒絶を意味し使うのがためらわれるものらしいが、明生くんが我慢していることに気付かず無理をさせてしまうことが怖くてたまらない。そういう意味では、俺と明生くんの間に良好な信頼関係は築けていないのかもしれない。  夕飯の後、食器を洗いながら風呂が沸くのを待った。給湯器が風呂が沸いたのを告げると、明生くんと連れ立ってリビングを出た。  脱衣所にしているスペースには洗面台と洗濯機、バスタオルなどを収納しているラックがある。ひとりで使う分には問題ないが、ふたり入るととても狭い。 「脱いで」  コマンドを使うと、明生くんが硬い表情のまま上着を脱ぎ始めた。  大体2週間に1度、うちに泊まりに来て気持ちよく酔っ払っている時はリビングでも平気で素っ裸になっていた。明生くんがいい意味でも悪い意味でも俺を恋愛感情で意識してくれるようになったことは大きな進歩だ。しかし、給食の時間で食べきれず、休み時間に突入しても無理矢理嫌いな物を食べさせられている子供のような表情をされることはいただけない。お望み通りこの場で犯してやろうか。 「別に取って食ったりしないよ」  なんだそれ、と明生くんが引き攣った笑顔を作って言う。 「嫌だったら別にやめてもいいよ」  そう言い放つ時、とても冷ややかな目をしていたと思う。明生くんが再度表情を強張らせ、思い切ったようにズボンを脱ぎ、心許ない顔で最後の一枚を脱いだとき、よくできたね、と口先だけで褒めてやった。明生くんはようやくほっとしたように表情を緩めた。  先に風呂に行かせた後、自分も服を脱いで浴室の引き戸を開けた。明生くんが湯船に浸かっていたので、先に洗い場を使うことにした。  ネットにボディソープを出し、泡立てて身体に擦りつける。黙々と身体を洗っていたが、明生くんが何か喋る様子もなく、沈黙に堪えかねて口を開いた。 「越してきて2週間くらい経つけど、どう? 慣れた?」 「うん。しょうちゃんと一緒だから元々あんまり不安はなかったけど、やっぱ親元離れてよかったわ。自由に羽伸ばせてる感じする。大学も就職も地元だったからずっと実家暮らしだと思ってたけど、さっさと一人暮らし始めればよかった」  それはよかったと頷く。親元を離れられた開放感については全面的に同意する。口には出さなかったが、明生くんが引っ越した最大のメリットは職場が近くなったことにあるのではないかと思っている。 「前はずっと上司や顧客の愚痴言ってたけど、最近どうなの? 全然聞かないけど」  2週間に1度の明生くんとの飲みでは、いつも同じような愚痴を延々と聞かされていた。  SubはDomやNormalに比べてストレスが溜まりやすい、と本で読んだ。ただの業務指示を命令のように感じてしまうらしく、指示通りに働いてもそれが当たり前で、求められた通りにできていたのか分からない、達成感がないと以前明生くんが言っていた。客のクレームはもっとキツいと言っていた。  DomとSubのコミュニケーションでは、命令と褒めるがワンセットになっている。命令通りにできたら褒めるし、それがSubの達成感につながる。  対して労働は給料という形で評価される。もし指示通りでなかったら何か言われるはずなので、何も言われないなら大丈夫なのだと明生くんも分かっているはずなのだが、Subにとっては通帳の数字以上にコミュニケーションと人間関係が重要らしい。やりがいが他人に依存しているなんて、想像しただけでしんどい。 「相変わらずだよ。でも、最近身体の調子がいいんだ。だから受け流す余裕があるっていうか、それなりにうまくやれてる」  DomとSubは共依存の関係。明生くんの方には俺と暮らすメリットが出ているようで何よりだ。 「それよりもしょうちゃんの方が心配なんだけど。最近ずっと疲れた顔してるし」 「平日の夜はこんなものだよ」  明生くんは不服そうだったが、気付かないふりをして泡を落とした。 「明生くんは初めて命令された時のことを覚えてる?」  身体と髪を洗い終え、明生くんと場所を交代した。明生くんが湯船を出て洗い場へ、俺が湯船に身体を沈める。明生くんが身体を洗う様子を眺めていると、見ないでよ、と怒られたので視線を天井に逃がした。 「覚えてる。忘れられないよ」  俺も、と返事をした。まるで身体を作り替えられたかのような衝撃。自分の性を実感した瞬間。この感覚を知る前には戻れないという実感。おそらく明生くんも同じように感じていたに違いない。 「ずっとパートナーを変えないカップルってどれくらいいるんだろ」 「ほとんどいないだろ」  間髪入れずに明生くんが答える。 「第2の性が発現するのは大体中学から高校の時で、その時期は進学とか就職でみんなバラバラになるのが普通じゃん。俺らはだいぶ特殊だと思うよ」  面白みの欠片もない正論だ。 「明生くんが地元に残るって言うから、俺もあそこの大学にしたんだよ」 「へぇ……確かに、しょうちゃんならもっといい大学行けたもんね」  明生くんを盗み見ると、耳の縁が真っ赤になっていた。俯いて髪を洗っていたので表情は見えなかった。 「どうして離れることができたんだろうな。自分のSubが他のDomに盗られるかもしれないのに」 「知らないよ、そんなの」  らしくない投げやりな返事だった。 「明生くん、プレイと恋愛、分けて考えることってできない?」  真面目なトーンで切り出すと、明生くんが顔を上げた。一緒に風呂に入って、初めて明生くんと目が合った気がする。顔が真っ赤で可愛い。成人した同い年の同性にはそぐわない表現であることは承知の上だ。 「意識してくれることは嬉しいけど、正直やりづらい」 「う……ごめん、気を付ける」 「明生くんのこと、ちゃんと可愛がりたいから」 「うえっ!?」  また俯きがちになっていた明生くんが勢いよく顔を上げる。この慌てよう、一体何を想像したのやら。 「別に、エロい意味じゃないよ」 「わかってるよ」  明生くんが足下にあった洗面器を引っ掴み、湯船の湯をすくって頭からぶっかけた。跳ね返ったお湯がこちらに飛んでくる。 「先に出る」  完全に泡を流し切れていないまま、明生くんは逃げるように風呂場を出て行ってしまった。少しいじめ過ぎたようだ。俺にもSっ気があったのだろうか。少し楽しい。  リビングに戻ると、案の定明生くんの姿はなかった。仕方がないので、明生くんの寝室の襖をノックする。 「明生くーん、髪濡れたままでしょ。出ておいで」  少しするとペタペタと足音が聞こえ、ゆっくりと襖が開いた。 「よし、えらいえらい」  ぶすっとした明生くんの頭にタオルをかけてわしゃわしゃ拭いた。やはり髪は濡れたままだった。風呂を出た後ちゃんと身体を拭かなかったようで、パジャマも少ししっとりしている。  まんざらでもなさそうな顔をして、今までドライヤーしなくても放っておいてくれてたじゃん、と文句を言った。  明生くんの言うとおりだった。引っ越す前、明生くんの髪を洗わせてもらって気まずくなった時からなるべく接触は避けていた。ずっと気になっていたものの、口酸っぱく髪を乾かせと言ったところで聞かず、仕方なく俺がドライヤーを当て始めた経緯がある。風邪を引こうが枕や髪が臭おうが、明生くんが生乾きのまま寝ることを選んだのなら明生くんの判断を尊重しようと思っていた。  だが、それももうやめる。同居を始めたところで、構うことができずにただ眺めているだけだなんて拷問に等しい。明生くんが嫌だと言うなら、またその時に考えればいい。 「おすわり。よし、いい子」  ドライヤーをコンセントにつないでソファに腰掛け、明生くんを床に座らせた。俺が前のめりになって明生くんの髪を乾かす間、明生くんは嫌がる素振りも緊張している様子も見せず、猫背でスマホを見ていた。  電源を切り、髪を手櫛で直す。それだけで充足感があり、明生くんの濡れた髪を放っておくことがかなりのストレスになっていたのだと気付いた。 「よし、終わり。これからも俺にやらせてね」 「ん、ありがと」  明生くんが振り向いて礼を口にする。心なしか舌っ足らずな感じだったが、そういえばドライヤーされると眠くなると言ってたっけ。最初はスマホを見ていたが、途中で床に放り出し、後はされるがままぼんやりしていた。 「明生くん、膝の上来て」  ドライヤーをテーブルの上に置き、膝を叩いて明生くんを呼んだ。明生くんが目の前に立った一瞬、照明が背に隠れて影になった。迷いなくソファの上に膝を進め、縋りつくように身体を預けてきた。ずっしりとした重みを抱きしめながら、ドクドクと心臓を鳴らす。おずおずと股の間に座る明生くんを、ぬいぐるみのように後ろから抱きしめて癒やされるはずだったのに。  一瞬見つめ合った目はとろんとしていて、完全に催眠状態に入っていた。催眠状態の明生くんはひどく無防備で、ほぼ自我がない。背中に腕を回し、赤子をあやすようにぽんぽん叩く。 「眠れ」  耳元で呟くように命令すると、徐々に明生くんの身体から力が抜けていった。ずり落ちそうになる身体をしっかりと抱える。やがて肩口から小さな寝息が聞こえてきた。  横抱きに明生くんを抱え直し、なんとかソファから立ち上がる。深く眠りについているようで、足で襖を開け、自分のベッドに放る間一度も目を開けなかった。数歩の移動とは言え、意識のない成人男性を動かすのはかなりの重労働だった。ベッドに手をついて止めていた息を一気に吐き出した。  学生の頃から見つめ続けてきた寝顔。よくコマンドが効いているのは明生くんの俺への信頼が強い証拠だ。Domとして人として、パートナーの信頼を得られることはとても光栄なこと。  安らかに眠る顔を見て、信頼を裏切りたくないような、舐められて悔しいような複雑な気持ちになる。今すぐたたき起こして、今お前がいるのはお前のことを好きだと言い寄る男のベッドの上だぞと言ってやりたい。風呂場ではあんなに意識してくれていたのに、短期間であっさりと割り切ることができたのだろうか。  俎上の魚の裾を捲り、脇腹にキスマークを付けた。  世間には異性を恋愛対象としながらも第2の性は同性のパートナーだったり、結婚して家庭を持ちながらも第2の性のパートナーは別にいるケースも珍しくない。これは恋愛感情とDom、Subの欲求が別物であるからに他ならない。俺の場合は恋愛感情とDom性がすっかり癒着して切り離すことができないでいる。

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