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第13話
内容は覚えていないが、その日の夜は酷く夢見が悪かった。
「明生くん、明生くんてば」
起こされてまず周りを見回した。いつもと様子が違うと思ったが、そういえば昨日は自分の部屋で寝たんだった。
「寝ぼけてるの? 今日実家帰るんでしょ。もう10時だよ」
今日は朝からしょうちゃんの機嫌が悪い。二度寝できる雰囲気ではないので渋々身体を起こした。連れ立って部屋を出る時、しょうちゃんが思い出したように後ろを振り返った。
「あ、髪洗った方がいいよ。前髪ガビガビになってるから」
誰のせいで、と喉元まで出かかったが飲み込んだ。しょうちゃんの機嫌が多少悪いことが気になるが、それ以外は概ねいつも通りだった。
洗面所へ行き、真っ先に顔を洗ってから鏡を覗き込む。しょうちゃんの言うとおり、前髪に透明なものが付いて固まっていた。前髪だけ水につけてぬめりを取るが、気持ち悪くて結局シャンプーした。寒い時期に上半身裸で水シャンプーはさすがに無謀だった。
濡れた頭のままリビングに行くが、しょうちゃんの姿はなかった。おそらく自室に引っ込んでいるのだろう。俺もしょうちゃんも、基本的には寝るときしか自室を使わない。いつも通りだと思い込んでいたかったが、やはり事情は異なっていた。
部屋は暖かくしてくれてあったが、さすがにこのままでは風邪を引くのでドライヤーを探して髪を乾かした。
そうこうしている間に家を出る時間が近くなり、支度をしていると襖が開いてしょうちゃんが顔を出した。
「そろそろ出る? 送るよ」
しょうちゃんが仏頂面でハンドルを握り、助手席で気まずい思いをする。ラジオでは繰り返し掃除機の宣伝をしていた。こうなることが分かっていたので、できることなら断りたかった。
「しょうちゃんは今日の昼どうする?」
「パスタの買い置きがあるからそれにしてもいいし、明生くん下ろした後どこかに入るのもいいかもね」
話題を振ってみても、返事が素っ気ないと言うか、心がこもっていないというか。
そもそも、何故俺が機嫌をとらなければいけないのか。もう勝手にすればいい。ラジオを聞き流しながらすっかり見慣れた窓の風景に目を向ける。しょうちゃんは機嫌が悪くても運転が荒くなったりしないので、そういうところは信用できる。
家の前で車が止まった。ありがとうと口にしながらシートベルトを外し、車を降りる。ドアを閉めると、助手席の窓が開いた。
「あ、明生くん。今日帰って来なくてもいいよ」
窓が上がりきらないうちに、車が真っ直ぐ発進する。しょうちゃんの車が見えなくなるまで、ぼんやりと突っ立っていた。
玄関のドアを開け、ただいま、と声を掛ける。おかえり、とリビングから返事が聞こえた。醤油のような、香ばしい匂いがした。
「今日部活じゃなかったの?」
リビングを覗くと、冬也がソファに寝そべってスマホを弄っていた。母さんはキッチンで昼食を作っていて、父さんはテーブルに座って昼のニュース番組を見ている。
「テスト期間中」
「じゃあ勉強しなくていいの?」
「先に手洗って来な」
母さんに遮られ、洗面台へ向かった。まだ1ヶ月しか家を離れていないが、こういうやりとりがすでに懐かしい。
手を洗って戻ると、冬也がテーブルに移動していた。ちょうどご飯ができたようだ。立っているついでに配膳を手伝い、家族で食卓についた。わざわざ呼びつけるくらいだからいいものを食べさせてもらえるのかと期待していたが、週末の定番の焼きそばだった。
いただきますと手を合わせ、大盛りの焼きそばに箸をつける。
「あっちの生活はどう?」
母親の質問に、まぁ、ぼちぼちと返事をする。心配されていることはわからないでもないが、いい歳した息子としては放っておいてほしいところだ。
「なんか兄ちゃん、小綺麗になってない?」
「元が汚いみたいな言い方するなよ」
「毛質が前と違う」
触るなと、冬也が伸ばしてきた手を払う。あら本当、と母さんが冬也に同意した。父さんはこちらを見るだけで会話に加わろうとしない。
冬也が言うように、髪質は自分でも変わったと思う。まず乾かして寝るのと生乾きで寝るのとではだいぶ違う。最近しょうちゃんがいろいろ買ってきて髪に付けるので、それのせいでだいぶ手触りが変わった。
他にも、しょうちゃんが液体やクリームを塗ってくるので、職場でも肌が綺麗になったと言われるようになった。爪も、ただ切るだけでなく丁寧にヤスリがけまでされ、透明なマニキュアを塗られている。
「大事にされてるんだね。順調そうでよかったよ」
「あー……うん」
冬也の純粋な感想に、先程しょうちゃんに言われたことを思い出してしまったせいで返事が曖昧になった。
帰って来なくていいと言われたのに、本当に順調と言えるのだろうか。
食後は自分の部屋に引きこもった。仰向けにベッドに寝そべり、ぼんやりと天井を眺める。スマホを確認したが、しょうちゃんからの着信はなかった。
何もすることがなく、かといってしたいこともない。自分の部屋も、家具もほぼそのまま残っているのに、ここはもう自分の居場所ではないような気がする。
部屋のドアがノックされ、はーい、と返事をした。冬也が訪ねてくるのはなんとなく予想できていた。
「しょうちゃんと何かあった?」
机から椅子を引っ張ってきて腰掛け、早速本題に入った。
「特に何も。ただ、しょうちゃんが勝手に不機嫌になってるだけ」
「兄ちゃん鈍いし、気付かないうちに何かして怒らせたんじゃないの?」
「そうかも」
冬也が口を噤み、この話は打ち切られた。面白い話題を提供できなくて申し訳ないが、ザーメンを顔にぶっかけられましたなんて、口が裂けても言えない。
「兄ちゃんいつまで居るの?」
「どーしようかな。しょうちゃんは帰って来なくッていいっ、て……あれ?」
話している途中で急に鼻がツンとして、うまく声が出せなくなった。滲んだ視界で冬也が顔を顰める。椅子を降り、ベッドを上がって俺を抱きしめた。
「よしよし、泣くな、泣くな」
「なん、だ、これ。俺泣いてんの? はは、ダサ」
自覚した途端、ボロボロと涙が溢れて止まらなくなった。そのうち呼吸が苦しくなって、口から嗚咽が漏れた。
「俺ッ、しょうちゃんが考えてることわかんねぇ」
「あいつ……ぶっ殺す」
耳元で冬也が呟き舌打ちをする。これでは一方的にしょうちゃんが悪者扱いだ。このままではまずいと思っていたが、声が詰まって弁明することができなかった。
自分のことで本気で泣いたのはいつぶりだろう。きっと今も酷い顔をしているだろうし、冷静になってみるとめちゃくちゃ恥ずかしい。冬也の腕が力強くて、俺が女子だったら惚れていたに違いない。
「ずっとウチに居ればいいじゃん。もうあいつのところ戻らなくていいよ」
「いや、もうちょいしたら帰るよ」
俺が大袈裟に泣いたりなんかしたせいで、珍しく冬也が感情的になっている。冬也が俺の分まで怒ってくれているので、逆に冷静になれた。
「じゃあ一緒に行って俺からガツンと言ってやる。それならいいだろ?」
「いいわけないだろ。俺たちの問題だし、もう大丈夫だから」
「大丈夫なわけないじゃん。DomとSubだったら、どうしてもSubの方が立場弱くなるんだから」
冬也の言うとおりだ。DomとSubでは圧倒的にDomが有利で、言い争いになった場合Subに勝算はない。冬也が怒っているのは、俺のためというよりもDomの立場として見過ごせないからなのかもしれない。それにしても、冬也が自分から厄介ごとに首を突っ込んで来ようとするなんて珍しい。
しかし今回の件で言い争いをするつもりはないし、何よりも第3者が登場するとややこしくなるのが目に見えている。説得を試みたが、強引に押し切られてしまった。
俺が決めたんだから従え。
Domの冬也にそう言われたら、Subの俺は口を噤むしかできない。SubがDomよりも立場が弱いということは、こういうことだ。
夕方5時、冬也を伴ってアパートに帰宅した。
玄関の鍵を解錠してドアを開け、リビングに顔を出す。しょうちゃんが目を丸くしてこちらを見ていた。手元には会社のノートパソコンとコーヒーが入ったマグカップ。仕事をしていたようだ。
「ただいま」
「おかえり」
ぽかんとした顔で挨拶を返したしょうちゃんだったが、俺の背後にいる冬也が見た瞬間、今までに見たことがないくらい目付きを鋭くさせた。ビリッと部屋の空気が一変する。
「兄ちゃん、泣いてたよ」
「は?」
いきなり何バラしてるんだこいつ、と後ろを振り返る。しょうちゃんの迫力には劣るが、こちらも負けじと怖い顔をしている。
冬也が満足するならと連れてきたが、来たところで特に何が起こるわけでもないと思っていた。しょうちゃんも冬也も、事を荒立てるタイプではない。特に仲が悪かった印象もなく、どうしてこうなったと慌てるばかりだ。
「何があったか知らないけど、もうすっかり依存状態になってるんだから酷いこと言って傷付けないで。それだけ」
「あ、冬也!」
踵を返し、冬也が玄関へ向かう。追いかけないとと思うのに、何故か足が竦んで動けない。足がガクガクしてきて、立ってることもままならなくなってきた。なんでなんでとパニックになっている間にも、冬也は靴を履いて部屋を出ようとしていた。
「冬也」
腕を取られてぐいっと上に引き上げられる。しょうちゃんに片腕を担がれた。しょうちゃんの声に、冬也が振り返る。
「家まで送るか?」
いい、と返事をして冬也が玄関を飛び出した。足音が遠ざかっていく。
「しょうちゃん、なんか気持ち悪い」
息苦しくなってきて視界が狭まってきた。しょうちゃんに掴まりながら、ずるずると床にへたり込んだ。
「多分グレアだ。ごめん」
グレアとはDomの特殊能力みたいなもので、相手を威圧したり、縄張りを主張するときに発動されるものらしい。グレアはコントロールできるものではなく、強い怒りの感情が伴う。目の当たりにするのは初めてだったが、Subに対しては特に効果的だと言われている理由がよく分かった気がする。
俺に合わせて正面にしゃがんでいたしょうちゃんが立ち上がろうとした。ビン、と腕が引っ張られ、しょうちゃんが動きを止める。引き留めるつもりはなかったのだが、しょうちゃんの服を掴んだまま筋肉が強張って手を開けなかった。しょうちゃんは何も言わずその場に腰を下ろし、包み込むように優しく抱きしめてくれた。少し呼吸が楽になった。
「騒がしくしてごめん」
「明生くんのことを心配してくれたんでしょ。別に怒ってないよ」
「帰って来るなって言われたのに、帰ってきたから怒ってるの?」
少し間を置いてしょうちゃんが答える。
「帰って来るなとは言ってない。明日、夜になっても帰って来なかったら迎えに行くつもりだった」
なんだ、よかった。俺の早とちりだった。思い返してみれば、今日は帰って来なくていいと言われただけで、帰って来るな、とは言われていない。
じゃあ何に対して、グレアを発動させるほど怒っていたのだろう。
「明生くん、泣いたって本当?」
「ん?」
「もう具合は大丈夫?」
いつの間にか息苦しさはなくなっていて、身体の強張りもいくらかマシになっていた。しょうちゃんの服から手を離すと、身体を抱えられて地面から浮いた。
浮遊感が怖くてとっさにしょうちゃんの首に掴まる。降ろされたのは、しょうちゃんの部屋のベッドの上だった。
「明生くん、どうして帰ってきたの?」
仰向けに寝る俺の上にしょうちゃんが跨がる。いくら鈍い俺でも、この状況で何もないなんてことはないと分かる。グレアの時とは違う意味で身体が強張る。
答えられないでいると、しょうちゃんの顔が近づいてきた。とっさに目をつぶって顔を背けると、頬にキスをされた。裾を捲り上げられて、直に胸を触られる。
しょうちゃんの手つきが、今までのような脅しや戯れとはまるで異なっていた。
「しょうちゃん、待って」
頬、こめかみへとキスをした後、舌が耳の縁をなぞった。乱暴な手つきで胸を揉みしだかれ、乳首をねじり上げられる。
痛い、と声を上げたがしょうちゃんは止めてくれず、両手で顔を挟んで正面を向かされ、ブサイクな変顔になっているであろう俺に躊躇いなく顔を寄せた。舌をねじ込まれ、唇の隙間から歯と歯茎を舐められる。
ぎゅっと目を閉じて顔を背けようとするが、しょうちゃんの力が強かった。口の中に親指を突っ込まれて無理矢理こじ開けられる。歯の間からしょうちゃんの舌が侵入してきて、うまく息ができなくなってパニックになる。
「しょうちゃん?」
上体を起こしたしょうちゃんが、ズボンを脱ぎ始める。
「どうせこれもなかったことにするんだろ? 明生くんって本当バカだよね。今日帰って来なければ、俺も明日からは何事もなかったかのように振る舞うつもりだったのに。気持ちを整理する時間すらくれないんだから」
俺がしょうちゃんの言葉を理解する前に、しょうちゃんがズボンと下着をベッドの下に捨てた。勃起した性器を俺の口に近づけて低い声でしゃぶれ、と命令する。小さく口を開けると、しょうちゃんが俺の頭を掴んで起こし、ゆっくりと挿入させてきた。
「ん、っふぅ」
「ゆっくりでいいよ」
最初は呼吸のリズムと、しょうちゃんの腰を動かすリズムが合わなくて息苦しかった。物理的にも、首だけ起こされている状態なので気道が圧迫されている。思いのほか大きさと質量があって顎が痛い。口の中に唾液が溢れてくるが、飲み込むことができずにぼたぼたとこぼれ落ちる。そのうち、鈴口から滲み出てきたしょうちゃんの体液が混ざる。舌の上をカリが何度も行き来して、くすぐったいような、舌の感覚が麻痺したような状態になる。
俺の頭を抑えつけたまま、いい子だね、気持ちいいよとしょうちゃんが言う。肘と腹筋を使って上体を起こし、懸命に鼻で酸素を求めながら、朦朧と気持ちいいかもしれないなんて思い始めていた。舌の感覚が麻痺した時、一緒に理性も麻痺したようだ。
やがて口の中から性器が抜かれた。ひとしきり咽せて視線を戻すと、眼前で苦しそうに呼吸をしながらしょうちゃんが性器を扱いていた。やがて精子が噴き出す。
すぐにしょうちゃんが涎と鼻水と精液でぐちゃぐちゃになった顔を拭いてくれた。テレビの前のローテーブルの上にあったウェットティッシュは、昨日しょうちゃんの部屋に移動したままになっていた。
「怒らないの?」
「え?」
「え、じゃなくてさ。昨日のこともそうだけど、普通いきなりこんなことされたら怒るだろ。怒って警察に突き出すぐらいのことしろよ」
警察? しょうちゃんがひどく腹を立てていることだけは分かるが、何を言っているのかわからない。
告白もキスも済んでいて、不貞を約束させられた上で同居している。しょうちゃんは俺を好きだと言い、俺も、越してくる前にある程度心の準備もしてきたつもりだ。
プラトニックな関係からアダルトな関係へ推移していっている。きっかけは分からないが当然の流れであり、さしあたって問題があるとは思わない。
「そんなことしないよ。俺としょうちゃんの仲だろ」
「俺と明生くんは、セックスする仲だっけ?」
しょうちゃんが低い声で何かを呟いたが、聞き取ることができなかった。
「うつ伏せになって」
一体何なんだと思いながら身体は忠実に命令を遂行する。身体を180度反転させ、クロスさせた腕を枕にして額を載せる。
予告なくズボンと下着を剥ぎ取られ、反射的に上体を起こした。
「伏せ。動くな」
渋々腕の上に額を戻した。するりと剥き出しになっている尻を撫でられ、きゅっと尻に力が入る。
ガタッと物音が聞こえ、そっと盗み見るとしょうちゃんがベッド下の収納の引き出しを開けていた。そこから手のひらサイズの箱とボトルを取り出した。それらは未開封だったようで、ラベルを剥ぐ音や箱を開けるカサカサする音が聞こえる。
顔を伏せて目を閉じた。
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